1.約50人の第1世代アレクサンダー・テクニーク教師
F.M.アレクサンダーから直接教師養成の訓練を受けた先生たちを「第1世代教師」と呼びますが、現在のアレクサンダー界の主な系統は、その第1世代教師のうちの数人により作られました。
それには、どのようなヒストリーがあるのでしょうか。
第1世代教師の中でも最も多くの教師養成を行ったウォルター・キャリントンは、
「初期の生徒たちは、アレクサンダー教師になるという明確なビジョンがあったわけでなく、大学を卒業した後で自分が何をしていいかわからなかったり、もっとテクニークのワークに触れたいと思ったりなど、さまざまな動機で始めたと思う。」
と書いていて、必ずしも全員が将来の展望をはっきり抱いていたわけではなかったようです。
彼らの多くは著作を残していますが、それは各系統の視点の違いも表している興味深いものです。
アレクサンダーの正式な教師養成は1931年(彼が62歳のとき)に始まりました。そこまでに 訓練を受けていたのは主に弟のアルバート・レデン(A.R.と呼ばれていました)、訓練の後40年ほど秘書を務めたエセル・ウェッブ、アイリーン・タスカーの3人でした。
(アレクサンダーの妹のエイミーも、訓練を受けましたが、結婚後は教えることをやめています)。
このうちA.R.は別格です。F.M.は弟を高く評価していて、1931年の教師養成コースは彼と一緒に始めました。晩年のジョン・デューイは、アメリカで教えていたA.R.の個人レッスンを受け続けたし、F.P.ジョーンズの教師トレーニングは、F.M.がイギリスに帰った後に、彼が受け継いでいます。
教師養成をアレクサンダーは60歳を過ぎて始めたこと(アレクサンダーは別として、当時の普通の60歳は、現在のように若くはなかったことでしょう)、今までに例のない訓練を行うという初めての試みだったこと、8年後には第二次世界大戦(1939年~1945年)が始まってイギリスでは中断を余儀なくされたこと、などから訓練コースは波乱の多いものでした。
1947年12月には脳卒中で倒れたために、教えることを中断しているし、1951年には、もうほとんどトレーニングコースを教えていなかったようです。
そのため、第1代教師の数は多いわけではなく、約50人と考えられています。
この関連は、以前のブログ「アレクサンダーが行ったアレクサンダー・テクニーク教師養成」でも別の内容を書いていますので、興味のある方はご覧下さい。
2.対立のあった第1期トレーニングコース
第1期の生徒の詳細は上述のブログにありますが、このグループには、13人のトレーニーがいました。
この中には現在の主な系統を始めたと言える、パトリック・マクドナルドとF.M.の姪のマージョリー・バーロー(当時は、マージョリー・メチン)、そして、マージョリー・バーストー、ルーリー・ウェストフェルトがいます。
またこの中には、F.M.が亡くなるまで教師としても、またある種のパートナーとしても重要なマーガレット・ゴールディーもいました。
ここではトレーニーの中に対立が生まれたことを、マイケル・ブロッホのアレクサンダーの伝記より紹介します。
「F.M. に対する生徒の態度は、かなり違っていました。片方の極端はマーガレット・ゴールディーで、彼が作った道を崇拝していましたが、他の極端のルーリー・ウェストフェルトは、彼が個人的に彼女に興味を示さないことで、侮辱されていると感じていました。彼らの多くが、欠点を持つ天才、と彼を考えるようになりました。時が経つうちに、生徒たちは二つのライバルグループに分かれました。一つはジョージ・トレヴィリアンに率いられていて、もう片方は パトリック・マクドナルドです。(二人のケンブリッジ卒業生は、うまくやっていけませんでした。トレヴィリアンは紅茶を愛飲する「審美家」で、マクドナルドはビールを好む「元気者」でした。)トレヴィリアンのグループには、マキネス兄妹、エリカ・シューマン、アイリーン・スチュワートがいて、マクドナルドには、アメリカの3人の生徒とマージョリー・メチンがいました。概して、トレヴィリアンのグループは F.M. を尊敬し続けましたが、マクドナルドのグループは彼の距離を置く態度と、説明能力の無さに苛立ち、もっと地についた A.R. を好みました。マクドナルド自身は(彼は10歳からレッスンを受け続け、テクニークと共に育ちました)、F.M. は「偉大な実験家で芸術家――レオナルド・ダ・ヴィンチのような――だが、先生としては悪く、他の人の頭の中で起きていることを理解できない」が、一方 A.R. は「自分をもっとよく表現できて...生徒の感情と反応により洞察がある。」と見ていました。トレヴィリアンのグループは、その一方 A.R. をひどいいじめっ子と思い、3年目には彼の行動への不満の書いた嘆願書を作りました。いずれにせよ、A.R. はF.M. との直接の個人的な違い(それに対して生徒グループのライバル関係は、ほとんど何も緩和できなかった)により、アシュリー・プレイスで幸せではなく、彼の妻が亡くなった1933年の翌年に、ボストンでの仕事を再興するためにアメリカ合衆国に移住しました。」
これを読むとアメリカ人のマージョリー・バーストーは、マクドナルド・グループのようです。しかし、当事者のマージョリー・バーロー(メチン)が、彼女の著書で、「バーストーはどちらのグループにも属さなかった」と言っているので、そちらの方が信憑性が高いことでしょう。
3.戦争で中断された第2期のトレーニングコース
トレーニングコースには、入学についての明確な区切りはなく、第1期でも2年目や3年目に新しい生徒がトレーニングを開始しています。ただ第2期については、F.M.は第1期のトレーニーがほぼ終了した後の1936年(1931年開始の5年後)に開始しました。その中には、前述のウォルター・キャリントン、マージョリー・メチンと結婚することになる医師のウィルフレッド・バーロー、エリザベス・ウォーカー、アメリカからアルマ・フランクがいました。
しかし、このトレーニングコースは、第2次大戦により中断することになります。
4.アメリカでのトレーニングコース
アレクサンダーは1940年に戦火を逃れてアメリカに行きましたが、1941年に教師養成を行ないます。最初は、F.P.ジョーンズ一人でしたが、やがてジョーンズの妻など4人が加わりました。
既に書いたように1943年にF.M.が戻った後は、A.R.がトレーニングを受け継ぎました。
A.R.は、その後体調を悪くし1945年にイギリスに戻りましたが、1947年4月に亡くなりました。
5.第二次大戦後の教師トレーニング
大戦後は、1945年に9人、1946年に10人がトレーニングを始め、2人を除いて修了しています。ただしその後は、次の数が示すようにとても僅かしか修了していません。
1947年には3/7(修了者/入学者)
1948年 0/2
1949年 0/3
1950年0/1
1951年1/1
1952年1/1
1953年1/2 (ゴッダード・ビンクリー)
1954年1/3
1955年1/5 (ディリス・キャリントン)
■2019年10月14日(月、祝)池袋レクチャー第5回
池袋レクチャー第5回「第1世代の教師を知る&アイリーン・タスカー」を、10月14日10:00~行います。
このブログで触れた内容等や、第1世代教師の代表的な著作を紹介します。さらに、1917年から長期に渡ってF.M.を助け、アレクサンダー・テクニークを教育に取り入れたり、「アクティビティ・ワーク」の大元といえる「アプリケーション・ワーク」を始めたアイリーン・タスカーを取り上げます。
- この内容は、わたしの「無料メルマガ」でも配信しています。
そこでは、月に1回の定期配信(ブログに載せない内容)もあります。
良かったらお申込みください。