1.F.M.アレクサンダーの教育への関心
アレクサンダーは、彼のテクニークを教育として考えていて、教育への関心をとても強く持っていました。
それには、彼がタスマニア時代に、補助教員として2年弱の間教えていた体験も元になっていました。
1910年に出版した彼の最初の本「人が受け継いでいる最高のもの」には
パートⅠに「8.人類の行動様式と子供の訓練」
という章があります。
その後アレクサンダーは、ジョン・デューイと出会い、その深い交流を通して
さらに教育的な意味を考えて行きます。
1923年の2冊目の本「個人の建設的で意識的なコントロール」は、デューイに原稿を全てチェックしてもらいました。
この本の パートⅡに、「1.教育と再教育」
という章があります。
2.リトル・スクール
障害を持った子供を、個人レッスンだけでなく、より長い時間面倒を見たいということが「リトル・スクール」と呼ばれた少人数クラスの始まりでした(1924年)。
アレクサンダーの元で助手として教え、教師の経験を持つアイリーン・タスカーが立ち上げました。
生徒は、最初は少人数で、その後は、普通の生徒も加わりますが、多くても10人を少し超える位だったと思われます。
場所は、当初はアレクサンダーが教えていたアシュリー・プレイスです。1934年には、アレクサンダーが購入し住んでいた広大な農園のあるペンヒルに移り、寄宿制にしました。
1931年に始まった、アレクサンダー・テクニークの教師養成コースの生徒達にとって、「リトル・スクール」は、子供たちに教える場になりました。
教員として1928年にマーガレット・ゴールディーが加わりましたが、アイリーン・タスカーは1935年に南アフリカに行き、スクールを離れます。
第二次世界大戦が起こったときは、アレクサンダーと一緒に生徒たちはアメリカに渡っています。
大戦後、「リトル・スクール」は復活することはありませんでした。
3.南アフリカでの評価、名誉棄損裁判
南アフリカに渡ったアイリーン・タスカーですが、彼女の原点は教師なので(モンテソッリーメソッドも学んでいます)、
その視点からアレクサンダー・テクニークを教えました。
その教え方は多くの人に評価され、学校の体育にアレクサンダー・テクニークを取り入れるべきだという動きが起こるくらいでした。
その運動は大きくなり、南アフリカ政府で体育教育を担当していたジョッケルが、それを脅威に感じるまでになりました。
彼は、1944年にアレクサンダー・テクニークはインチキだという記事を書くに至ります。
それに対してアレクサンダーが訴えを起こしたのが、彼の晩年を苦しめることになる名誉棄損裁判です。
勝訴はしましたが、大金を費やし、彼の2度の脳卒中はこの裁判の苦労が原因だと言われています。
4.アレクサンダー・テクニークを教育に活かす試み
アレクサンダーの死後も、色々な形で教育に行かそうとする試みが行われています。
今後、紹介して行く予定です。