BodyChanceのプロコースで教えるアレクサンダー・テクニーク教師ヤスヒロ(石田 康裕)のページです。テクニークの歴史や役立ち情報など多くを載せています。教育分野(学校の先生など)での応用にも力を入れています。ヤスヒロは、埼玉・東京でのレッスン、出張レッスンを行っています。機械工学修士で27年間、高校で教えました。

アレクサンダーと教育

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1.F.M.アレクサンダーの教育への関心

アレクサンダーは、彼のテクニークを教育として考えていて、教育への関心をとても強く持っていました。

それには、彼がタスマニア時代に、補助教員として2年弱の間教えていた体験も元になっていました。

1910年に出版した彼の最初の本「人が受け継いでいる最高のもの」には
パートⅠに「8.人類の行動様式と子供の訓練」
という章があります。

その後アレクサンダーは、ジョン・デューイと出会い、その深い交流を通して
さらに教育的な意味を考えて行きます。

1923年の2冊目の本「個人の建設的で意識的なコントロール」は、デューイに原稿を全てチェックしてもらいました。
この本の パートⅡに、「1.教育と再教育」
という章があります。

2.リトル・スクール

障害を持った子供を、個人レッスンだけでなく、より長い時間面倒を見たいということが「リトル・スクール」と呼ばれた少人数クラスの始まりでした(1924年)。

アレクサンダーの元で助手として教え、教師の経験を持つアイリーン・タスカーが立ち上げました。
生徒は、最初は少人数で、その後は、普通の生徒も加わりますが、多くても10人を少し超える位だったと思われます。
場所は、当初はアレクサンダーが教えていたアシュリー・プレイスです。1934年には、アレクサンダーが購入し住んでいた広大な農園のあるペンヒルに移り、寄宿制にしました。

1931年に始まった、アレクサンダー・テクニークの教師養成コースの生徒達にとって、「リトル・スクール」は、子供たちに教える場になりました。

教員として1928年にマーガレット・ゴールディーが加わりましたが、アイリーン・タスカーは1935年に南アフリカに行き、スクールを離れます。

第二次世界大戦が起こったときは、アレクサンダーと一緒に生徒たちはアメリカに渡っています。

大戦後、「リトル・スクール」は復活することはありませんでした。

3.南アフリカでの評価、名誉棄損裁判

南アフリカに渡ったアイリーン・タスカーですが、彼女の原点は教師なので(モンテソッリーメソッドも学んでいます)、
その視点からアレクサンダー・テクニークを教えました。
その教え方は多くの人に評価され、学校の体育にアレクサンダー・テクニークを取り入れるべきだという動きが起こるくらいでした。

その運動は大きくなり、南アフリカ政府で体育教育を担当していたジョッケルが、それを脅威に感じるまでになりました。
彼は、1944年にアレクサンダー・テクニークはインチキだという記事を書くに至ります。

それに対してアレクサンダーが訴えを起こしたのが、彼の晩年を苦しめることになる名誉棄損裁判です。

勝訴はしましたが、大金を費やし、彼の2度の脳卒中はこの裁判の苦労が原因だと言われています。

4.アレクサンダー・テクニークを教育に活かす試み

アレクサンダーの死後も、色々な形で教育に行かそうとする試みが行われています。

今後、紹介して行く予定です。

 

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