アレクサンダー年表後半
F.M.アレクサンダーがロンドンに渡ってからの年表です。
アレクサンダー・テクニークをいかに彼が広げていったかが分かります。
この期間についての簡単な概要を、ブログで載せています。そちらもお読み下さい。
(この年表で表示位置が変わっているところがありますが、後日修正させていただきます。)
年月日 | F.M.年齢 | 出来事 | 教師訓練開始 |
1904 | 35 | F.M. 6月13日にロンドンに着く すぐに、一流の仕立て屋でスーツを作る。 少なくとも2人の医師に断られた後で、聖メアリー病院耳鼻咽喉科のスパイサー医師に認められる。スパイサーーは強力な支援者になった。夫妻と子供たちがレッスンを受け、多くの患者を送った。8月 アーミー&ネイビイマンション(ビクトリア駅近く)に住む9月 エディス・ヤング、女優を志してロンドンに向かう10月 スパイサーの紹介で女優のリリー・ブレイトンが生徒になる。F.M.のレッスンにより声を取り戻し、健康状態も良くなる。リリーと脚本家の夫オスカー・アッシュが演劇界にF.M.を紹介した。 |
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1905 | 36 | 1月 召使としてウィリアムを雇う(10年間F.M.に使える)
大俳優のヘンリー・アービングがレッスンを受ける |
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1906 | 37 | 1月 「FM.アレクサンダー 呼吸と声の再教育の新しいメソッド」(4ページのチラシ)
?? 「呼吸、声の再教育の新しいメソッドの紹介」(小冊子24ページ) |
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1907 | 38 | 3月 「呼吸の再教育の新しい方法の理論と実践」(小冊子24ページ) 後で1918年版のMSIに載る | |
1908 | 39 | 3月 「ディープ・ブリージングの危険性」(数ページのチラシ)
7月 「ディープ・ブリージングと身体鍛錬がなぜ役に立たずに害を及ぼすか」(数ページのチラシ) 12月 「運動感覚システムの再教育」(小冊子14ページ) 1910年のMSIに掲載。1918年版では削除 |
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1909 | 40 | 7月 スパイサーは、講演でF.M.のメソッドの内容を自分のものとしてして取り上げる。(これ以降は二人は袂を別つ)
10月 「呼吸とガン」(チラシ) 11月 「なぜわたしたちは間違った呼吸をするか」(チラシ) |
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1910 | 41 | 4月 「運動感覚システムの再教育 補足」(チラシ) 4月 「R.H.スカーネス・スパイサー博士が行ったレクチャーのある前提への反論」(小冊子) 9月 親友のロバート・ヤング亡くなる 10月 「人が受け継いでいる最高のもの」(MSI)出版 |
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1911 | 42 | 3月 「人が受け継いでいる最高のもの 補遺」を続いて出す
6月 母ベッツィと妹エイミーがメルボルンを離れロンドンへ F.M.は、自分のアーミー&ネービーマンションを提供し、教える場所と住居をウェストミンスター寺院の近くにあるアシュリー・プレイスに移す。亡くなるまで、ここで教えたので、F.M.の指導場所としてこの名前は良く使われる。 この頃エセル・ウェッブがF.M.のレッスンを受け、その後彼の秘書として働く。1914年にはアレクサンダー教師としての訓練を終わり、結婚で教師を辞めたアミーの代わりになる。 |
エセル・ウェッブ(1866-52) |
1912 | 43 | 初め A.R.と婚約者のグレース、妹の長女アグネスもロンドンに呼ぶ。ロンドン着後にA.R.とグレースは結婚
10月 「意識的なコントロール」を出す |
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1913 | 44 | F.M.の妹、三女のメイ夫妻ロンドンに移住 | |
1914 | 45 | 7月 第一次世界大戦開戦(~1918年11月)
7月 弟のボーモント、ロンドンに来る 8月 F.M.は、親友ロバート・ヤングの死により未亡人となっていたエディスと結婚。 (F.M.45歳 エディス49歳。エディスは、アメリカには一度も同行せず、アシュリー・プレイスに留まった) 9月 初めてアメリカ渡り、ニューヨークで教える。 F.M.はこれ以降1924年まで主にアメリカで教え、夏(4月か5月から9月か10月まで)の期間イギリスで過ごす。(1921年の秋冬期を除く) |
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1915 | 46 | エセル・ウェブがロンドンから、アメリカに来て指導に加わる。
5月 F.M.がイギリスに戻る(エセル・ウェブはアメリカに残った) |
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1916 | 47 | 初め ジョン・デューイ(アメリカの哲学者・教育学者)が生徒になる | |
1917 | 48 | 春 当時アメリカにいたアイリーニ・タスカーが、アレクサンダー教師訓練を受け始める | アイリーニ・タスカー(1887-77) |
1918 | 49 | 1月「人が受け継いでいる最高のもの」改訂版(MSI)を、「補遺」「意識的コントロール」を加えて出版
冬 A.R.ハイドパークで落馬し、二度と歩けなくなると診断されるほどの大ケガを負う 6月 ペギー(エディスの妹の娘)生まれる(子供の無かったアレクサンダー夫妻は、後にペギーを養女にする) 11月 第一次世界大戦終了 12月 A.R,もアメリカに行き、教えるようになる(その後はF.M.と半年交代で滞在) |
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1919 | 50 | 戦争が終わり、ロンドンでも生徒の数が増える | |
1920 | 51 | ||
1921 | 52 | 秋 F.M.はアメリカに行かずロンドンでの指導とCCCIの執筆に専念する | |
1922 | 53 | この頃、エディスの甥オーウェン・ヴィカリー(妻ジャック)一家がアシュリー・プレイスで住む
ピーター・マクドナルド医師とその息子パトリックが、レッスンを受ける 秋 F.M.はレビューのためのCCCIの原稿を持って、エセル・ウェブとアイリーン・タスカーとアメリカへ行く |
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1923 | 54 | 2月 母ベッツィ亡くなる
9月 「個人の意識的で建設的なコントロール」(CCCI)出版 |
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1924 | 55 | アイリーニ・タスカーが、アシュリープレイスで少人数の生徒にアレクサンダーレッスンと共に、学校教育を始める。(これがリトル・スクールの始まり) | |
1925 | 56 | ?? ジャック・ビカリーが夫のオーエンと別居し、2人の息子とペンヒルの近くに住む (アレクサンダー夫妻と養女のペギーはペンヒルに住むことになる。ペギーがジャックの息子たちと年齢が近く、エディスは、ジャックを頼りにした)
5月 ペンヒルを購入する |
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1926 | 57 | 7月 リットン卿がレッスンを受け始める リットン卿は、後の満州事変のリットン調査団の団長 |
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1927 | 58 | フローベル教師養成大学の生徒で、虚弱だったマーガレット・ゴールディが、F.M.のレッスンを受け、健康回復する | |
1928 | 59 | マーガレット・ゴールディ、リトル・スクールの指導に加わる | |
1929 | 60 | エディス、F.M.と別居
10月 世界金融大恐慌 |
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1930 | 61 | 7月 教育基金(リトル・スクールと教師養成コースのための)を作り、寄付を集める | |
1931 | 62 | 3月 教師養成コースの第一期を開始(8人の生徒でスタート)
6月 ジョン・ヴィカリー(F.M.の子)生まれる |
マーガレット・ゴールディ(1905-1997) マージョリー・バーストー(1899-95) レスリー・ウェストフェルト(1898-65) ジョージ・トレビリアン(前教育大臣の息子1906-1966) アイリーニ・スチュワート(1906-90) エリカ・シューマン(後にウィタカー)(1911ー04) ガーニー・マキネス ジーン・マキネス キャサリン・メリック(19000-88) |
1932 | 63 | 1月 「自分の使い方」(UOS)出版
妹のアグネス(長女)亡くなる |
パトリック・マクドナルド(1910-91) |
1933 | 64 | 妹のエイミーの夫でマージョリー・メチン(バーロー)の父のジョージ・メチン亡くなる
A.R.の妻グレース亡くなる 12月 教師養成コースの生徒による「ベニスの商人」の公演 |
チャールズ・ニール(1917-58) マージョリー・メチン(後にバーロー)(1915-06) |
1934 | 65 | リトル・スクールをアシュリー・プレイスからペンヒルに移す
A.R.アメリカに渡りボストンで教え始める。 8月 ベッドフォード体育大学での講義(講義録がある) 12月 教師養成コースの生徒による「ハムレット」の公演 |
マックス・アレクサンダー(1916-97)A.R.の息子 |
1935 | 66 | アイリーン・タスカー、南アフリカに渡り教え始める リトル・スクールをマーガレット・ゴールディーと共に教えていたアイリーンは、マーガレットと一緒にやって行くことが難しくなった アイリーンが南アフリカで成功して、アレクサンダー・テクニークを学校教育に取り入れようという動きがでたことで、ヨーケルらが反対の動き起こし、それが裁判に発展する11月 オルダス・ハクスリーがレッスンを受け始める |
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1936 | 67 | 第二期の教師養成コースを始める(後の入学者も含めて約20人) イギリスでの第三期は、大戦後の1945年からになる。
9月 タスマニア島に残った父ジョン亡くなる |
ウォルター・キャリントン(1915-05) |
1937 | 68 | ||
1938 | 69 | 初め サー・スタッフォード・クリップスがレッスンを受け始める (後にイギリスの大臣を歴任することないなる有力政治家)
9月 妻のエディスが亡くなる。 |
エリザベス・ウォーカー(1914-2013) |
1939 | 70 | 1月 F.M.の70歳の誕生日 イギリスではリットン卿の司会により誕生パーティーが催され、アメリカ、ボストンでは、A.R.とマージョリー・バーストーらが祝った9月3日 第二次世界大戦始まる |
ウィルフレッド・バーロー(1915-91) |
1940 | 71 | 3月 養女のペギー結婚
5月 姪のマージョリー・メチン、ウィルフレッド・バーローと結婚 7月 ドイツから逃れるため、アメリカに向かう エセルウェッブ、マーガレット・ゴールディ、アイリーニ・スチュワートと、少数のリトル・スクールの生徒が一緒に行く 9月 アシュリー・プレイスが爆撃にあったこともあり、F.M.の代わりに教えていたウォルター・キャリントンとマージョリー・バーローは教室を閉じる 10月 F.M.はニューヨークとボストンで教え始める 12月 F.M.はコグヒル教授を訪れる(コグヒルはUCLに文を寄せている) |
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1941 | 72 | 1月 リトル・スクールをホームステッドに移す
9月 「生きる上で変わらないこと」(UCL)アメリカで出版(イギリスでは翌年2月) |
FP.ジョーンズ(1905-1975) |
1942 | 73 | ||
1943 | 74 | 7月 F.M.とウェブ、ゴールディ、スチュワートはイギリスに戻る | |
1944 | 75 | 3月 南アフリカでエルンスト・ヨーケル博士によってアレクサンダー・テクニークを「いんちき療法」だと批判する43ページの記事が載る(Man Power誌)
7月 F.M.はアシュリー・プレイスで階段から落ちて足首を骨折。ペンヒルで回復を図っている間に、ペンヒルはひどい爆撃を受ける |
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1945 | 76 | 8月 第二次世界大戦終わる
A.R.アメリカからイギリスに戻る 8月 アレクサンダーはジョッケルと出版社に対して、名誉棄損と5000ポンドの損害賠償の訴えを起こす。(これ以降、この裁判はアレクサンダーにとって費用がかかり、精神的な負担になっていく) |
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1946 | 77 | ||
1947 | 78 | 4月 A.R.亡くなる
7月 名誉棄損裁判の証言がイギリスで始まる 6週間に渡って多くの証言が行われる (ヨーケル側には2人のノーベル賞受賞者が含まれていた) 10月 友人のリットン卿が亡くなる 12月 2回の脳卒中を起こし、身体の左側が麻痺 |
ジョン・スキナー(1912-92) |
1948 | 79 | 2月 南アフリカのヨハネスブルグで裁判始まり、南アフリカ中の注目を集める。F.M.の代わりにウィルフレッド(ビル)・バーローが行き、原告として証言する
4月 名誉棄損裁判で勝訴の判決がでる ヨーケルらが控訴 6月 バーローらの準備でSTAT(Society of Teachers of the Alexander Technique)設立のための話合いが行われる。 アレクサンダーは、結局はこれを拒否 夏 パトリック・マクドナルドはアレクサンダーと衝突。アシュリー・プレイスを離れイギリス南西部にあるカーディフに行き教える |
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1949 | 80 | 6月 ヨーケルらの控訴は棄却される。
11月 聖ダンスタン講義 (草稿が残っている) 12月 バーロー夫妻とアレクサンダーは決裂し、マージョリー・バーローは、その後F.M.に会うことはなかった 12月 クリップスは、チャールズ・ニールに資金援助を行いロンドンのランズドーン・ロードに彼が大規模に教えるための「イソベル・クリップス センター」を作る。ニールの死後、ウォルター・キャリントンが施設を購入し、彼の拠点となる 名誉棄損裁判の費用がかかったのでペンヒルを売却を考える。(規則のために苦労し、実際の売却は1955年になってしまう) この頃のアレクサンダーをビデオで見ることができる(1949年11月と1950年3月) アレクサンダーは亡くなる直前まで教え続けた |
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1950 | 81 | ||
1951 | 82 | 4月 妹アミー亡くなる
7月 ゴッダード・ビンクリーがF.M.からの個人レッスンを受け始める(彼は1953年5月まで受けた後、教師養成コースに入った) レッスンの記録を書いた当時の日記が出版されている |
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1952 | 83 | 1月 長く秘書を務めたエセル・ウェブ亡くなる
12月 ジョン・デューイ亡くなる |
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1953 | 84 | ||
1954 | 85 | ||
1955 | 86 | 1月 ジャック・ヴィカリー亡くなる ジャックはアレクサンダーと親しい関係にあったと言われている女性。 アレクサンダーは、晩年、ウィークデイは、マーガレット・ゴールディーと同じフラットに住み、週末はペンヒルでジャックと過ごした。彼女の息子のジョン・ビカリーは、アレクサンダーの子と言われている)3月 ペンヒルの大部分を売却9月末 F.M.は競馬を見に行き悪寒を覚え、その夜に軽い心臓発作を起こす。 回復すると思われたが、10月10日の朝、ベッドで看護婦と話をしながら突然息を引き取る |
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1956 | F.M.の死後、彼が40年教えた場所アシュリープレイスは、17歳下の弟ボーモントが引継ぐ。 ウォルター・キャリントン,マーガレット・ゴールディ,アイリーニ・スチュアート、ジョン・スキナーの4人は、ボーモントと袂を分かち、別にティーチング・センターを作る。 ボーモントはカーディフからパトリック・マクドナルドを呼び寄せ、マクドナルドは1970年までアシュリー・プレイスで教えたこの時点では、次の4ヶ所の拠点で教師養成が行われていた。 1)パトリック・マクドナルド(アシュリー・プレイス) 2)チャールズ・ニール(ランズドーン・ロード) 3)ウォルター・キャリントン、マーガレットゴールディ、ジョン・スキナー、アイリーニ・ステュワート 4)バーロー夫妻 |
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1957 | |||
1958 | チャールズ・ニール 突然亡くなる | ||
1959 | |||
1960 | ウィルフレッド(ビル)・バーローはSTATを設立。 やがて、多くのアレクサンダー教師が加わることになる。 |