アレクサンダー年表前半
タスマニア島で生まれたアレクサンダーがロンドンに渡るまでの年表です。
アレクサンダー・テクニークの背景の理解が深まりますので、ぜひ辿ってみてください。
この期間についての簡単な概要を、ブログで載せています。そちらもお読み下さい。
(この年表で表示位置が変わっているところがありますが、後日修正させていただきます。)
年 | F.M.年齢 | 出来事 | 記事、パンフレット |
1869 (明治2年) |
0 | 1月20日F.M.アレクサンダー生まれる (オーストラリアの南にあるタスマニア島テーブルケープ 父 ジョン (鍛冶屋)、母 べッツィ(助産婦) |
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1870 | 1 | 一家は近くのワインヤードに転居 ワインヤードは150人ほどの小さな町。周囲を入れても1000人に満たないほど。 テーブルケープ(岬)の辺りをおじさんが所有していたので、アレクサンダーは、自由に乗馬や、射撃、魚釣りができ、農業や動物について必要な知識を得ることができた。次男アーサー生まれる |
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1872 | 3 | 長女アグネス生まれる | |
1874 | 5 | 三男アルバート・レデン(A.R.)生まれる | |
1876 | 7 | 四男リチャード 生まれる
アレクサンダーは最初は日曜学校に、次に政府学校に通い出す(正確な時期は不明) |
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1879 | 10 | ワインヤード政府学校の校長に25歳のロバート・ロバートソンが赴任 ロバートソンは、質問が多く手のかかるアレクサンダーに学校に来ることを免除し、夕方、家に行って教えた。 アレクサンダーは、いろいろな賞を学校のために得ている。 ロバートソンは、アレクサンダーに英語、文学、聖書、算数、イギリスの歴史と地理などを教えた。 アレクサンダーがシェークスピアを好きだったのも彼の影響。 週末にはカモ狩りに連れ出すなど、字が読めなかった父親より、父親らしい存在だった。次女エイミー(マージョリー・バーローの母)生まれる |
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1881 | 12 | 三女メイ生まれる | |
1883 | 14 | 五男ホラス生まれる
12月 政府学校でロバートソンを助ける生徒教師になる(1885年8月まで) |
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1886 | 17 | 1月 スズ鉱山会社の事務員になる(3年間働く) (家を離れ、ワインヤードから40kmほど離れた町ウォラタに住む) アレクサンダーはとても優秀な事務員で、勤めてすぐに上司が病に倒れたときに、努力してその仕事をカバーし、高い評価と報酬を得ました。 他に2つの仕事も並行して行い、3年で500ポンドを貯めた。 (ロンドン渡航前に競馬で大穴を当てたときの金額は750ポンドです。そのお金でアレクサンダーは当時の借金を払い、渡航費用とロンドンでの準備費用としました。500ポンドがいかに大金かがわかります。)六男ボーモント生まれる (ボーモントは、F.M.の死後、ウォルター・キャリントンらをさしおいて、仕事を引き継ごうとした) この頃、親友となるロバート・ヤング(1856-1910)とその妻になるエディス・ぺイジ(1865-1938)と出会う。 (ヤングの死後、F.M.はエディスと結婚)アレクサンダーは、バイオリンを練習し、アマチェア演劇クラブで活動 |
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1889 | 20 | 1月 タスマニア島を出て、大都会のメルボルンに渡る | |
3ヵ月は仕事に就かず、観劇やコンサート、美術館、競馬等に費やす。 その後、バイオリンの練習とアマチェア劇を続けることを前提に仕事を探す。 最初に不動産会社に勤めるが、会社の仕事の進め方に疑問を持ち2週間でやめる。次に、乳製品の競売会社に1年間勤める |
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1890 | 21 | 仕事が忙しくなり過ぎたので、服地商社の帳簿係りに仕事を変える。
この頃すでに、声枯れが起きていてベイジ医師に、いろいろな処方をもらっている。 |
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1891 | 22 | 6月にサラ・ベルナールが訪れ、全メルボルンが熱狂する (F.M.は、全ての公演を見に行ったと、言ったことがあります)
11月 アマチェアとしてアレクサンダーが行った「悲劇」のリサイタルを評価する記事が載る。 |
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1892 | 23 | F.M.はこの頃健康を害し、ときどき発作に襲われることがあった。 ベイジ医師の勧めで、海辺の町でメルボルンから40kmほど離れたジーロングに行く。 (アレクサンダー自身の自伝の下書きには、500km離れたブライトンとなっている) そこで、服地会社の事務を行う。 3ヵ月ほどで健康を回復し、メルボルンに戻り、今度はお茶の輸入会社の帳簿係りになる。 メルボルンに戻ってからは、劇表現の先生フレッド・ヒルの家族と一緒に住む。7月 七男 スタンリー生まれる(7ヵ月苦しんだ後に亡くなり家族に悲しみの影を落とす)9月14日アマチュアのドラマティックダイアログコンテスト優勝この期間ずっと、彼の声枯れはひどくなり、定期的にベイジ医師に診てもらっていた。 ついに自分で解決することを決める。 |
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1893 | 24 | 5月 詩のリサイタルで自分の詩を朗読する アマチュアによるシェークスピア劇の抜粋公演で、ハムレット、マクベス、オセロを演じる |
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1894 | 25 | 声枯れを克服し、仕事をやめ、朗誦家としてスタートすることを決める。
2月 ワインヤード(タスマニア)でリサイタルデビュー 5月ローンセストン(タスマニアの第二の都市)でリサイタるル ローンセストンで声のレッスンを開始する(これが教え始めた最初) 6月 ホバート(タスマニアの首都)でリサイタル 年末までレッスンとリサイタルを行う。 |
「Elocution as an Accompishment」 |
1895 | 26 | 4月 クライストチャーチを皮切りに、ニュージーランドでリサイタルを行う。 6月~11月 オークランドでリサイタルと声のレッスンを行い、称賛された後、メルボルンに戻る。オークランドでのレッスンの成功が、アレクサンダーをリサイタルよりも、メソッドを教える方向に向かわせた。 |
「Speech Culture and Natural Elocution」 |
1896 | 27 | メルボルンで教室を開く。 これ以降、ロンドンに渡るまでの間、彼のメソッドは、 フルチェスト呼吸法を使って話し声と歌を改善する 喉の障害と、吃音を治す ことをうたっていた。 初期の頃の生徒には聖職者が多くい、彼らは声だけでなく長く歩いても疲れなくなるなどの、健康面の改善を報告している。 医者は、喉と呼吸に問題を抱える患者を送った。弟のA.R.にテクニークを教えアシスタントにする 落馬で重傷を負った妹エイミーにレッスンを行って治し、テクニークを教える 12月 母ベッツィーとアグネス、メイ、ボーモントをメルボルンに呼び寄せる |
20-Page pamphlet |
1897 | 28 | ||
1898 | 29 | ||
1899 | 30 | ||
1900 | 31 | 2月 メルボルンから500km離れたシドニーで教え始める
ロバート&エディス・ヤング夫妻シドニーに移る |
「The Human Voice」 |
1901 | 32 | F.M.演劇活動を始める
6月 シドニーでの「ベニスの商人」公演 マッケイ医師に出会う。 |
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1902 | 33 | 2月 劇団作りのための演劇クラスを始める 2月 A.R. 軍隊に志願し南アフリカへ5月 A.R. 戦争から戻ってくる 6月 アレクサンダー劇団(演劇クラスの生徒を加えた)の最初のツアーを行う その後公演を続け、合計29以上の公演を行っている12月 F.M.はワークと、演劇クラスを教えることに専念する |
「Sydney Dramatic & Operatic Conservatorium Prospectus」 |
1903 | 34 | 1月 A.R.とエイミーは再びメルボルンでフルタイムで教える当初A.R.はロバートから指導を受けたシャンドウ・システムを教えたが、徐々にF.M.のテクニークを教えるようになる。
再びシェークスピアツアーを行う 8月 F.M.は再び指導に専念する ロバートも次第にF.M.の方法を学び指導に取り入れるようになる。F.M.がロンドンに発った後は、彼が指導を続けた。 |
「The Prevention and Cure of Consumption」 |
1904 | 35 | 競馬で大穴を当てた資金(750ポンド)で、父親が負っていた負債を払い、4月19日にロンドンに向けて出航。 |