BodyChanceのプロコースで教えるアレクサンダー・テクニーク教師ヤスヒロ(石田 康裕)のページです。テクニークの歴史や役立ち情報など多くを載せています。教育分野(学校の先生など)での応用にも力を入れています。ヤスヒロは、埼玉・東京でのレッスン、出張レッスンを行っています。機械工学修士で27年間、高校で教えました。

ジョン・デューイ

  • HOME »
  • ジョン・デューイ

哲学者で教育学者のジョン・デューイ(1859-1952)は、ウィリアム・ジェームズ亡き後のプラグマティズム(実用主義)のリーダー的存在でした。

アレクサンダーにとって、世界的な思想家のデューイが長期に渡ってレッスンを受け、彼のテクニークとその内容を認めたことは、本当に大きなことでした。

(1)アレクサンダーとジョン・デューイとの関係

アレクサンダーは、第一次大戦の開戦(1914年)直後にアメリカに行き、その後10年間は、アメリカで秋から春にかけて8か月ほどワークし、夏をイギリスで過ごすという生活を送りました。

デューイとアレクサンダーが出会ったのはその間の1916年です。
デューイは57歳、アレクサンダーは10才年下の47歳でした。

デューイは、神経性の健康問題を抱えていて、眼精疲労や、背中の痛みが特にひどかったそうです。
デューイは、第一次世界大戦で、アメリカがドイツとの戦いに参戦することを支援しましたが、彼の哲学は戦争については考えたことがなく、戦争の残虐さは彼を苦しめていました。
彼のように影響力を持ち、直接に人間の問題を専門としている人にとって、戦争は身を切る問題だったことでしょう。

アレクサンダー(F.M.)と彼の弟のA.R.からワークを継続的に受けて、「50代のデューイは、年不相応に老けていたが、80代にはとても若いという印象を与えた。」と言われるまでになり、91才まで長生きしました。(Michael Bloch著 「The Life of Fredrick Matthias Alexander」より)。
彼は晩年、自分の健康について「90%をアレクサンダーに負っている」と言ったそうです。

(2)アレクサンダーのジョン・デューイへの影響

デューイの哲学「プラグマティズム」は、理念や理論はその有用性によって評価されるとする立場なので、人間の行動に対して科学的な(論理的な)手法を使って有用な成果を挙げているアレクサンダーの方法に心酔しました。

デューイ自身の著書の中では「Human Nature and Conduct 人間の特性と行動」(1922年)と、「Experience and Nature 経験と自然」(1925年)の二冊にアレクサンダーの名前が出てきます。

また、デューイは、アレクサンダーの著作4冊のうち3冊に文章を寄せています(最初に書いたものの訳を後に載せます)。

デューイが認めたということは、本当に大きなことでした。
世界的な哲学者がこのような本に序文を書くことの本人への悪影響を想像できることと思います。
実際にデューイは、それによって批判されていますし、2冊目のアレクサンダーの本「個人の建設的で意識的なコントロール」の序文で、
「自分を危険にさらしてもアレクサンダーを評価する」
ことについて書いています。
(この序文には、アレクサンダー・テクニークが、「現れては消える流行」とどのように異なるかについて書いてもいます。)

(3)デューイのアレクサンダー著書への文

1918年発行のアレクサンダー著「人が受け継いでいる最高のもの」のデューイの紹介文についてヤスヒロ訳を載せます。
第一次世界大戦後の混迷の時代に彼が書いたものです。
他にデューイは、アレクサンダーの2冊目の本「個人の建設的で意識的なコントロール」と3冊目の本「自分の使い方」に序文を書いています。

*******************************************************************
(訳 ヤスヒロ  不許複製)

紹介の言葉

ジョン・デューイ

 

1 動物時代の野蛮状態から現在の文明化社会へと変わってくる中で、人間の特性に「ひずみ」が生じたことを、多くの人たちが指摘しています。アレクサンダー氏ほどに、この変化の意味と危険性、可能性を、明確にそして完全に理解している人は誰もいないようにわたしには思えます。進化から生じた危機的状況についての彼の説明は、現代の生活のどの局面も良く理解させてくれます。一方で、脳と神経システムの間にある闘い [conflict] によって、他方で、消化器系・循環器系・呼吸器系の機能と筋肉システムとの間にある闘いによって、個人の身体的健康と精神的健康が危機的状況になっていることを、主に彼は説明しています。それでも、現代生活が不適切な、調整の悪いものになっていることについて、ここで扱われていないものはありません。

2多数の死者を出した今回の戦争について、それがわたしたちの文明の、まさにその中心と言えるものから生じたことを率直に認めることは快くはありません。このため、全体に対して向き合うことは稀です。わたしたちはそうせずに、出来事やエピソードをあたかも個別の出来事として扱い、一つ一つを別なものとして取り組むことを好みます。この戦いを見た人は、ほとんどたいてい、自然に戻って簡素な生活に逆戻りするか、神秘主義のおぼろげなもの [mystic obscurity] の中に逃げ込むか。のどちらかを対処法として提案します。アレクサンダー氏は、経験主義的な方法や一時しのぎの方法の基本的な間違いを明らかにしています。それが身体の働きでも、精神的な働き、社会的な働きであっても、何かの部分 [organs 器官、機関、組織] がバランスを失い、協調状態にないとき、治そうとする個別の限定的な試みは、すでに悪くなっているメカニズムを、ただ働かそうとするだけです。それらの試みは、一つの有機的な構造 [organic structure] を「改善」しようとする中で、犠牲としてどこかに調整不良状態を作り上げるのですが、それはたいてい、より見つけにくく対処が困難なものです。アレクサンダー氏が「身体訓練のメソッド」に対して行っている批判内容について、わたしたちの経済・政治の営みの全ての領域に類似点を見いだすことを、利口な人は困難に思わないでしょう。

3 文明化した人間の出発地点である簡素な状況に戻ろうとすることに対して、彼は批判していますが、そこにアレクサンダー氏の哲学の本質的な特徴が表れています。そのような試みは全て、知性を放棄することで解決しようとしています。それらは実際に、「さまざまな悪は、意識的な知性 [conscious intelligence] が発達したために生じているのだから、治療法は知性を眠らせて、それが発達する元となった前知性 [pre-intelligence] を働かせることだ。」と主張しています。無意識や潜在意識を引き合いに出すときに、普通には陥ってしまう罠は、アレクサンダー氏の扱いの中にはありません。彼は、それらの言葉に、明確で現実的な意味を与えています。それが意味するところは、「考えようとする精神 [reflective mind]」 とは対極にある、「考えずに感覚を使う原始的な精神 [the primitive mind of sense, of unreflection]」 への依存です。アレクサンダー氏は、治療法は、低次元の力を働かせるために知性を捨てることとは考えずに、「知性の力を伸ばして、その機能をプラスとなる建設的なコントロール [positive and constructive control] に使うことだ。」、と考えたのです。専門家ではないので、身体という有機体に、知性によるコントロールをもたらし、多くの調整状態の悪さを治療し、予防もする彼のテクニークについて、その正当性を判断するようなことはわたしにはできません。しかし、彼はそのような意識的なコントロールを熱心に勧めただけではありませんでした。彼はそれを実現するための明確なメソッドを持ち、提供したのですが、それは、専門外の人でさえ具体的な事柄についてその有効性を証言できるものです。わたしも喜んで、それが有効だと証言します。

4 この文の著者は、「自制」や「自己コントロール」を称賛しているわけではありません。しかし、人に励ましや教訓を与えようとするときに、それらはまだ称賛されています。アレクサンダー氏は、人間有機体の科学的な知識に基づいて、明確なプロシージャ(手続き)を開発したのです。唯物主義 [materialism] のように聞こえるものを、それが何であっても恐れてしまうことは、人間に重荷を負わせました。人は、広大な宇宙の中で最も驚嘆すべき構造物である人間の身体を恐れたのですが、その自分の恐怖に気づくことさえありませんでした。人は、身体についてまじめに注意したり考えたりすることが、人間の高次の生活に対して、何か不誠実なことをしていると思うように仕向けられたのです。アレクサンダー氏の考察は、わたしたちが生活――わたしたちが少々無意味に「身体的生活 [bodily life]」 と呼んでいる生活と、「精神的な生活、道徳的な生活」[life mental and moral] ――を行うための素晴らしい道具に対して、畏敬の念を表しているのです。身体に対するそのような敬虔な態度がもっと一般的になれば、促されている意識的なコントロールを持つことに対して、好意的な状況が現れることでしょう。

5 教育という言葉を最も広義にとらえると、この本全体は、教育に関わるものです。しかしこの文の著者は、アレクサンダー氏が狭義の教育に触れている部分に、あたりまえですが特に惹きつけられます。抑圧的な学校と、その反対の「自由表現」の学校を批判している部分以上に、彼の原則の意味が良く表れている所はありません。学校での訓練として通用している子供への不自然な抑圧から、しばしば異常や変形が起こっていることを、彼は知っていました。彼はまた、その対処法を、全てのコントロール(気まぐれな動きと、周囲の状況からの偶発的なコントロールは除いてですが)を無くして盲目的に反応することに求めてはいけないことも知っていたのです。人々は、アレクサンダー氏がとても極端で稀な「自己表現の [self-expressive]」学校をこの国で見ただけだと言って、眉をひそめます。しかし、教育改革に関心を持つ人の全てが、「身体動作の自由と感情の自由な表現」は手段であって、目的ではないこと、そして、それらは手段であるので、正当なものとして認められるのは、知性の力を発達させようとして使われるときだけだ、ということを思い出すことでしょう、知性によるコントロールは、外部の権威によるコントロールの代わりとなり、「コントロールしない」という原則や、感情の突風の突発性に任せる原則とは違って、教育改善の唯一の基礎になります。知性を持つようになることが、自由への唯一の人間の証しなのです [to come into possession of intelligence is the sole human title to freedom]。子供時代の自発性は喜びを与えてくれる大事なものですが、その最初の純真な形は消えていかざるを得ません。感情は啓発されることがなければ、歪められてしまいますし、歪んだ感情の表れは、いかなる意味でも、真の自己表現とは言えません。これらは、真の自発性は生まれながらの特性ではなく、学び取るもので、征服の地、技術 [an art] です。アレクサンダー氏の本が、説得力をもってわたしたちを招待している意識的コントロールについて、それを熟達の域にまで到達させる技術です。

 

PAGETOP
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.