今回のブログから、アレクサンダーがワークを教える先生をどう育てていったかについて書いていきます。
最初は、オーストラリアでの教師養成についてです。

オーストラリアでの教師養成

オーストリア時代(1904年まで)に、アレクサンダー(FM)は、実質三人に訓練しました。
弟のAR(アルバート・レデン)、妹のアミー、親友のロバート ヤングです。
(ロバートの妻で彼の死後FMの妻になるエディスも訓練を受けましたが、すぐに教えることをやめてしまいました。 他にも、1900年までの3年間FMのアシスタントを務めたリリアン・トワイクロスが、唯一の有資格者だと宣伝して教えましたが、影響力はありませんでした。)

このときはまだ揺籃期だったので、教わる方も、このワークがどれほど素晴らしいものか最初はわからず、教えたとしても中身の薄いものだったことでしょう。

ARは、メルボルンで1896年にFMから訓練を受けて助手になりました。
仔馬から落馬し、その後遺症をFMに治してもらった妹のアミーも、回復した後に訓練を受け助手を務めます。
Rは6回のレッスンだけでFMのワークを理解し、FMからのハンズオンも無かった、と言われています。

しかし、1900年にFMがシドニーに行ってしまうと、メルボルンを任されたARは1901年2月に南アフリカのボーア戦争に志願します。翌年の4月まで帰ってきませんでした。
メルボルンでの活動は停止しました。

一方FMは、彼を追うようにシドニーにやって来た親友のロバート・ヤングに助手として教えられるように訓練します。
でも、ロバートは以前にロンドンで学んでいたサンドウシステムという身体鍛錬法を教える方に熱心でした。

ARは、ボーア戦争から戻ってきた後、しばしばアミーと共にシドニーのFMのもとに学びに行きます。
そのときに、FMが劇を行うためにシドニーを不在にすることの多かったこともあって、ロバートから教えてもらうサンドウシステムに興味を持ちます。
そしてARはアミーと共にメルボルンで1903年1月までに再び教室を始めたときには、最初はサンドウシステムを教えたのです。

しかし、FMが彼のワークと、それについての考えを発展させていくにつれ、ロバートもARもその内容に興味を持ち、サンドウシステムを教えるときに、FMのワークを使うようになっていきます。

FMがロンドに向かう1894には、ARは、呼吸法としてFMの方法だけを教えるようになりました。

FMがオーストラリを去った後は、ARとアミーは、メルボルンでFMのワークを教え続け、ロバートはシドニーでFMの残した生徒を教えることになりました。
ロバートにとって、FMのワークを教えることは大変だったので、ARは、定期的にシドニーに行きロバートを助けています。
ロバートにとって、まだワークを教えることは大変なので、ARの理解の深さが必要でした。

そしてFMは、ロンドンから毎週のように手紙を書いて指示を送り、新しい考えを発展させたときには、その内容を二人に送り続けます。

このように、アレクサンダーワークを教えることができるようになる過程は、当時も単純でなかったことが分かります。

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