「賢者の石」にあるアレクサンダー・テクニーク・レッスンの記録

ジーン・O.フィッシャーが編集した「賢者の石――F・マサイアス・アレクサンダーとのレッスンの日記」(1998年出版)には、副題にある通りアレクサンダーからレッスンを受けた人たちの日記が収められています。

1.「賢者の石」ジェームズ・ハービー・ロビンソン
2.エヴァ・ウェッブの日記
3.フランク・ハンドとグレース・ハンドの日記
4.奇跡の記録――「ミス.G.R.」の日記
(これはルイス・モーガンの著書からの抜粋で、池袋レクチャー第3回の資料の中の「4」FM.アレクサンダーの教え方の中に全訳があります。)

5.ジョージ・トレヴィリアン卿の日記
6.「なぜわたしがアレクサンダーのレッスンを受けるようになったか」アンソニー・ルドヴィッチ

このブログでは、5.の「ジョージ・トレヴィリアン卿の日記」を紹介させていただきます。

ジョージ・トレヴィリアンとアレクサンダー・テクニーク

ジョージ・トレヴィリアン(1906~1996)は、アレクサンダーの第1期教師養成コースの生徒でした。

父親は教育大臣を務めたほどで、富裕の出身です。
ケンブリッジ大ではフェンシングや登山をやっていましたが、アレクサンダーのDVDには彼がテニスを行うシーンがあり、テニスの腕もかなりのものです。
彼は1928年、学生だったときに、自分の身体をもっと良くできるのではないかと思いアレクサンダーの所にレッスンを受けに行きました。

1931年に始まった第1期の教師養成コースのトレーニーは、途中で2つのグループに分かれたと言われています。1つは、パトリック・マクドナルド、マージョリー・バーロー、ルーリー・ウェストフェルトなどで、もう一つのグループのリーダーはトレヴィリアンでした。

パトリックのグループはF.M.の教え方は悪いと批判しましたが、トレヴィリアンのグループはそうは感じなかったようです
逆に彼のグループは訓練コースでのA.R.の教え方を批判し、その他のこともあったと思いますが、A.R.は、1933年にはロンドンを離れて、1945年までアメリカのボストンで教えることになりました。

トレヴィリアンは、この日記の後しばらくしてテクニークを教えることやめ、学校の校長になりました。第2次大戦までそれを続け、その後、「成人教育」の学校を作り、四半世紀ほど取り組みました。その後は、精神世界を扱う財団を作りその活動を行っています。

彼は第2回のアレクサンダー・コングレス(1988)でレクチャーを行なっています。

ジョージ・トレヴィリアン卿の日記

「賢者の石」に載っている彼の文章は、2つの部分に分れています。
最初の部分は彼の1928年の最初のレッスンについてで、10年ほど後に振り返ったものです。
「なぜわたしがアレクサンダー・ワークを始めたか」とうタイトルの節で始まる書籍で8ページのこの巧妙な文章は、テクニークが何かを良く理解させてくれます。
アレクサンダーがトレヴィリアンへの1回目のレッスンを、具体的にどう教えたかも分ります。

後の28ページは、彼の1936年12月から1938年の彼の日記です。
教師養成コースは1935年に修了しているので、その2年ほど後から書かれたものです。
この時期彼は、教師養成のクラスに出席しました。
日記の内容は、クラスでアレクサンダーが教えたり、言ったりしたことが中心です。
トレーニーとしてではなく、訓練を開始して10年を経た経験者の視点からという点も興味深い所です。

「賢者の石」の編集者J.O.フィッシャーは解説で次のように書いています。
「ジョージ卿の日記が記録として稀な点は、多くの詳細について書いていることです。手の使い方などについてですが、それはアレクサンダーの教えの特徴です。さらに、アレクサンダーの率直な発言を記録していて、テクニークの背景となっている彼の人物像についての情報を与えてくれます。」

前もって何が起きるかを知ろうとしないこと

この日記の2日目の記述の一部を紹介します。トレヴィリアンの日記には、このようなF.M.のシンキングに関する情報も多くあります。

F.M.は、「我々は何かを止めることに取り組んでいて、それにより何が起こるかを見つけようとしている。自分が何をするかを事前に知ろうとするなら、我々は迷い込む。生徒がシンキング行えば、彼の前の状態には戻らない。だが問題なのは、行うべきことがただ考えることで、首が自由になるという願いが事を起こすことを、生徒の誰も信じないことだ。」と言った。