アレクサンダー晩年のアシュリー・プレイスでのレッスンの形
初めての生徒は、最初にアレクサンダーからの15分ほどの面談を受け、彼はレッスンを続けることが役立つかなどの判定を行いました。。
1回目のレッスンはアレクサンダー自身が行い、その後は彼がレッスンを行う場合もあるし、他のアシスタント教師が行うこともありました。
第1期の教師養成コースを終了した後では、多くの修了生がアシスタントとして残ったので、アシスタントがレッスンを行うケースが多くなりました。
アレクサンダーかどうかで、料金が違っていました。
エヴァ・ウェッブによるアレクサンダー・テクニークのレッスン日記
エバァ・ウェッブの日記も前回紹介した「賢者の石」に中にあり、20頁の長さです。
彼女は自分を「忙しい主婦」と言っていますが、とても普通の主婦とはいえず、アレクサンダーの著作を始め、手に入る資料はできるだけ読んで調べた後にレッスンを受けています。
何が行われるかや、どのような効果があるかを知識の上では十二分に知っていて、その内容に確信を持った後で開始しました。
ウェッブがアレクサンダーとの面談を行ったのは、第二次大戦が終わった2年後の1947年5月でした。
日記には、そこから8月までのアレクサンダーが連続して受けることを要求した「30回」のレッスン記録になっています。
追加もあったのでここには33回分の記録があり(記述が長い日も短い日もありますが、全体で20頁なので、1回の平均は2/3頁ほどです)、何を行ったかとそのプロセスでどのような改善があったかが分ります。
アレクサンダーは、既に78歳で、その年の12月には名誉棄損裁判の疲労から脳卒中で倒れていますが、このころはまだ元気なようです。
ウェッブの日記がユニークなのは、彼女が2回目からの全てのレッスンをアレクサンダー以外の教師から受けていることです、そのアシスタント教師たちの具体的な言葉を書いていることで、第Ⅰ世代の教師たちが、どのような狙いをもってレッスンを行っていたかを知ることができます。
メインはアイリーン・スチュワートでしたが、パトリック・マクドナルド(3回)、マーガレット・ゴールディー(5回)、マックス・アレクサンダー(4回)などが登場します。
1947年のアシュリー・プレイスでのアレクサンダー・テクニーク・レッスン
エヴァ・ウェッブの第1回目のレッスンの終わりに、アレクサンダーはアイリーン・スチュワートに「テーブルで多くワークする必要があるね。」と言いました。
(アレクサンダー自身がテーブル・ワークを行うことが無いことは有名は話ですが、彼は自分のレッスンの後にアシスタントたちにそれをさせていました。
テーブル・ワークはいろいろな呼び方があり、例えばアイリーン・タスカーは、「インヒビション・ワーク」と呼んでいます。)
それもあって、ここではテーブル・ワークが多く出てきて、それが何を狙っているかの理解の助けになります。
またウィスパード・アーも何回か行われていて、他の資料では得られない情報があります。
もちろんチェアは頻繁で、記録の残っているアレクサンダーの 3つのレクチャーで彼が言っていたことと、関連させることができます。
この日記により、主に担当したアイリーン・スチュワートの教え方を知ることはもちろんですが、他の教師たちもそれぞれユニークさが出ていることが分ります。
A.R.の息子のマックス・アレクサンダーのレッスンでは、彼は「待つ」ことの重要性を言いました。マックスは、教師養成が終わってからアメリカのボストンにいた父親の元で教えました。そのため彼の教えている内容は、A.R.からの影響があるかもしれません。
(A.R.は体調を悪くして、第二次大戦後にイギリスに戻ってきていて、エヴァ・ウェブがレッスンを受ける少し前、1947年4月に亡くなっています。)