アイリーン・タスカーは教師でしたが、1917年に FM アレクサンダーの助手になり、それ以降の彼女の活動は、アレクサンダー界の本流とは別の所で大きな影響を残しました。

マージョリー・バーストー(マージ)の次の言葉を、彼女の生徒だったブルース・ファートマンがブログで紹介しています。
「アイリーン・タスカーは、わたしたちがトレーニングを受けていた当時、私たちが思っていた以上の意味をもっていました。彼女がわたしに行ってくれたことを、今ではより一層感謝しています。」

マージがアレクサンダーのトレーニング・コースで学んでいた頃(1931-1934)、アイリーン・タスカーは少人数の児童に、テクニークに基づきながら普通教育を行っていました。

それは「リトル・スクール」と呼ばれています。
アレクサンダーが教えていたアシュリー・プレイス16番地には、彼が教えていた部屋、トレーニングを行う部屋(クラスがないときはA.R.が教える部屋)、リトル・スクールの部屋があり、訓練を受けていたトレーニーはリトル・スクールの教育活動にもときどき加わりました。

 

アイリーン・タスカーの功績と「コネクティング・リンクス」

アイリーン・タスカーが、残したものはとても大きいのですが、それには以下のものが挙げられます。

アレクサンダー・ワークに基づいて子供たちを教える「リトル・スクール」を作ったこと

(最初これは、障害児教育でした。)

「アプリケーション・ワーク」を始めたこと(伝統的な家やワークスタイルではなく)

FMの著作「人が受け継いで最高のもの」(1918年改訂版)、「個人の建設的で素敵なコントロール」「自分の使い方」の3冊の著作に関わったこと 

4)南アフリカの教育界にアレクサンダー・ワークの重要性を認識させたこと。

 

アイリーン・タスカーは、1967年(彼女が80歳の頃)に、「コネクティング・リンクス」と題して講演を行いました。その中で、彼女の様々体験の経緯を、簡単な言葉で興味深く詳しく述べています(とても内容の濃いもので、A4で20頁ほどになっています。)

この講演は、アレクサンダー・テクニークの原則的な考え方(特にインヒビション)や、具体的な歴史を知る上で、さらには、F.M.アレクサンダー自身の言葉を知る上でも、とても貴重な内容です。

 

アイリーン・タスカーの教師としての背景とモンテッソーリ

アイリーン・タスカーはケンブリッジ大で古典(ラテン語やギリシャ語の文学)を学び、公立学校の教師になるつもりでしたが、その募集が無かったために、ある家庭の子供たちにホーム・スクールの形で2年間教えました。

その後イタリアに行きモンテソッーり・メソッドをモンテッソーリから直接学び、イギリスに戻ってからはそれを広める活動を行い、彼女の本の翻訳も行いました。
タスカーはローマのその学校で、F.M.からレッスンを受けていて後に秘書になるエセル・ウェッブに出会いました。
ウエッブから、アレクサンダー・テクニークのことを聞き、F.M.の著書を借りて読み、とても感銘を受けています。

彼女は、イギリスに戻ったときにF.M.からのレッスンを受けました。

その後、第1次大戦が始まり職を失ったタスカーは、ニューヨークでモンテッソーリを教えないかと誘われ、アメリカに行くことになりました。

タスカーが教えていた学校の扱いにくかった生徒が、冬の間にF.M.(彼も当時ニューヨークに行っていました。)のレッスンを受けてとても変わったことで、教育におけるこのテクニークの大きな意義を感じました。

彼女がそれを、F.M.に手紙で書いたところ、助手にならないかと誘われたことで、タスカーの運命は大きく変わりました。

「アプリケーション・ワーク」

助手になっても、教師としてのトレーニングを十分に受けていたわけではありませんでした。
そのため、特にF.M.がイギリスに戻っている間は、子供たちに実際の活動の中で、インヒビションを教えるなどを行いました。
それを彼女は、「アプリケーション・ワーク」と呼んでいます。

第一次大戦で、女性の航海が禁じられていたので、彼女がイギリスに戻れたのは1922年でした。

「リトル・スクール」

8歳の障害児の面倒F.M.から頼まれたタスカーが、テクニークのレッスンの内容を学校の教育内容に結びつけたいとF.M.に提案したことから、この活動が始まりました。

タスカーのそれまでの体験を踏まえた活動は、親たちから大きく評価され、生徒の数は10人程度にまで増えていきました。

アシュリー・プレイスでの「リトル・スクール」を見学したジョン・デューイは、「何を意図しているかがとても明確で、わたしもここの生徒だったら良かったと思う。」と言っています。

南アフリカの教育界への影響とF.M.の名誉棄損裁判

1935年に南アフリカに渡ったタスカーは、その後教育界で大きく評価され、アレクサンダー・テクニークを学校教育に取り入れようとする動きまで起こりました。

それに対して危機を感じた南アフリカ政府の体育教育担当者が、1944年の政府広報に、テクニークの批判を載せました。
それを名誉棄損で訴えたことが、晩年のF.M.に大きな影を落とすことになった裁判の始まりです。
その心労があって、1947年12月に彼は2回の脳卒中を起こしています。

その裁判にはタスカーも出廷して証言していますが、彼女にも大きな傷を残しています。
「コネクティング・リンクス」の中では、彼女は裁判には全く触れていません。

 

■2019年10月14日(月、祝)池袋レクチャー第5回

池袋レクチャー第5回第1世代の教師を知る&アイリーン・タスカー」を、10月14日10:00~行います。
第1世代教師についてや現在の代表的な系統、その代表的な著作を紹介し、アイリーン・タスカーとその「コネクティング・リンクス」について扱います。

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