1.4冊の著書と「アーティクルズ・アンド・レクチャーズ」

アレクサンダーは、1910年(彼は41歳)に1冊目の「人が受け継いでいる最高のもの(略称MSI)」を出してから、1941年(歳)に最後の「生きる上で変わらないもの(UCL)」まで、合計4冊の本を出版しました。
それぞれ改訂がなされていて、現在でも出版されています。

彼は、4冊の著書以外にもいろいろ書いていて、モーリッツ(Mouritz)の書籍「アーティクルズ・アンド・レクチャーズ」は、それ等を集めたものです。
特に、最初の本が出版されるまでの初期のものは「アーティクルズ・アンド・レクチャーズ」の中心ですし、テクニークがどのような経過を経て完成して行ったかを知る上で貴重な資料です。
今回は、「アーティクルズ・アンド・レクチャーズ」にある初期の16個の記事を追います。
アレクサンダーが、何を売り物にしていたかも見ることができます。
(下記に挙げてある頁数は、(3)を除き「アーティクルズ・アンド・レクチャーズ」のものです。)

2.オーストラリア時代の新聞投稿と小冊子

(1) 1894年「雄弁術を身につける」

(7月9日タスマニアの新聞への寄稿 3頁)

アレクサンダーは1894年に25歳で仕事をやめて、朗誦家としてのキャリアを始めると同時に教え始めました。
1年目は生まれ故郷のタスマニア島で公演を行い、この新聞への最初の寄稿はそのときのものです。

(2)1895年「スピーチの訓練と雄弁術」

(7月20日ニュージーランドの新聞への寄稿 6頁)
タスマニア島で成功したアレクサンダーは、2年目にニュージーランドを回りとても人気を博しました。政治家や聖職者を多く教えたと言われています。
これは、そのときのものです。

(3)1900年「歌とスピーチの声を新しい方法で作る」

(シドニーでのチラシ 小冊子は32頁

アレクサンダーは、ほぼ1年間ニュージーランドで公演を行いそこで教えた体験から、彼のテクニークの可能性に気づき、1896年には朗誦家をやめてメルボルンで教えることに専念しました。
1900年には、メルボルンを弟のA.R.と妹のエイミーに任せ、シドニーに行きますが、それまでの4年間で、教えるときのテクニークの基礎を作り上げたことでしょう。
それを基に作った宣伝用の小冊子ですが、残念ながら一部しか残っていません。

(4)1903年「肺病の予防と治療」

(1903年12月12日 シドニーの新聞への寄稿 8頁)
それまでスピーチや歌など声を対象にしていたアレクサンダーが、呼吸器系の病気の予防と治療という分野での応用について書きました。
医師では無いアレクサンダーが、このような内容では普通は評価されないのですが、彼は、シドニーのとても有力なマッケイ医師に認められていました。

3.ロンドンに渡ってから
の新聞投稿と小冊子

アレクサンダーは1904年にオーストラリアを離れロンドンに渡り、それ以降生まれ故郷のオーストラリアに戻ることはありませんでした。
次に挙げる小冊子やMSIを書いたロンドンに渡ってからの6年間、さらにMSIの続編を書いたり、2冊目の本CCCを書いたほぼ10年間はアレクサンダーは多産で、彼の考えが大きく発展した時期と言えます。
ここでは小冊子のタイトルと簡単な説明に留めておきますが、タイトルだけ追っても興味深いと思います。
(これらの位置づけや背景は8月10日の池袋レクチャーのレジメの中で、またそこに現れている用語の変遷については、レクチャーの別資料で触れますので、興味のある方はレクチャーにご参加下さい。)

(5)1905年「呼吸の方法」

(宣伝用 3頁)
ロンドンでの宣伝用

(6)1906年「訓練された歌い方と心臓疾患」

 (1月12日「メディカルプレス・アンド・サーキュラー」への書簡 1頁)

(7)1906年「アレクサンダー氏による呼吸と声の再教育の新しい方法」

(1月 小冊子 5頁)

(8)1906年「呼吸と声の再教育の新しい方法の紹介」

(小冊子 10頁)
アレクサンダーがテクニークについて、初めて詳しく扱っている

(9)1907年「呼吸の再教育の新しいメソッドの理論と実践」

(小冊子 16頁)
MSIに収録 (8)の改訂版だが、大きく変更が加えられている)

(10)1908年「危険なディープ・ブリージング」

(3月14日 ロンドンの新聞への寄稿 2頁)

(11)1908年「なぜディープ・ブリージングと身体鍛錬が役に立たずに害になるか」

(11月小冊子 5頁)

(12)1908年「運動感覚システムの再教育」

(12月 ロンドンの新聞への寄稿 小冊子7頁)
この小冊子で初めて、呼吸は協調状態が良くなることによって起こることになり、中心ではなくなる。

(13)1909年「呼吸とガン」

(10月19日 2頁)
スパイサー博士の論文への反論その1

(14)1909年「「なぜわたしたちは間違った呼吸を行うか」

(11月 小冊子 10頁)
スパイサー博士の論文への反論その2

(15)1910年「運動感覚システムの再教育 補遺」

(4月28日小冊子3頁)
イスのエクササイズ、ドアのエクササイズ、声を出すとことに、ついて書いている。

(16)1910年「スカーネス・スパイサー博士のレクチャーへの抗議」

(4月 小冊子12頁)
スパイサー博士の論文への反論その3

8月10日(土)池袋レクチャー

8月10日(土)の池袋レクチャー第4回「アレクサンダーの著作からテクニークが何かを考える」では、これらの小冊子と彼のレクチャー、4冊の本の内容を追い、教えている用語や内容がどう変わっていくかなども見て行きます。

なお、次のように紹介した小冊子の(8)以降については、このレクチャーの資料で全ての訳が揃うことになります。

(8)1906年「呼吸と声の再教育の新しい方法の紹介」 (第1回レクチャー資料)
(9)1907年「呼吸の再教育の新しいメソッドの理論と実践」 (MSIに収録)(10)1908年「危険なディープ・ブリージング」 (今回資料)
(11)1908年「なぜディープ・ブリージングと身体鍛錬が役に立たずに害になるか」 (今回資料)
(12)1908年「運動感覚システムの再教育」 (第2回レクチャー資料)
(13)1909年「呼吸とガン」 (今回資料)
(14)1909年「「なぜわたしたちは間違った呼吸を行うか」 (第2回レクチャー資料)
(15)1910年「運動感覚システムの再教育 補遺」 (今回資料)
(16)1910年「スカーネス・スパイサー博士のレクチャーへの抗議」 (今回資料)