第二次大戦が終わった年の1945年8月に、アレクサンダーは南アフリカ政府の体育教育責任者のヨーケル博士に対して、彼が書いたテクニークへの中傷記事の名誉棄損裁判を起こしました。
 アレクサンダーは簡単に終わると考えていたのですが、それは約4年の長期に渡り、彼にとても大きな影響を与えることになりました。(南アフリカの法律で、名誉棄損裁判は、起訴者が記事を読んでから1年を経つと訴えられなくなるために、急ぐ必要がありました。)

アレクサンダーが、本裁判になる前に解決すると思っていたのは、彼には内閣閣僚の1人スタッフォード・クリップスと、リットン卿という有力な後ろ盾がいたからです。
さらに、生理学の超大御所チャールズ・シェリントンが彼を称賛していました。 

この裁判の内容がとても興味深いのは、ヨーケルの記事はアレクサンダーの著作の内容を批判していたので、4冊の本で書いていた内容が本当かどうかが法廷の席で争われたからです。
アレクサンダーの著作を読んで、言い過ぎだと思うような内容があったら、この裁判でも争われているかもしれません。
(この裁判の記録は、Mouritzによって3冊の本になって出版されています)

ルドルフ・マグナス博士の研究の結果と、アレクサンダーの発見内容が同じと言えるかどうも、議論されました。 

証人のほとんどがイギリスに住んでいたため、証言はロンドンの特別委員会で1947年7月2日から6週間続きました。本裁判は南アフリカで、1948年2月に3月5日まで続きました。
双方の証人には、そうそうたる顔ぶれが並んでいます。 
[アレクサンダー側の主な著名人]
リットン卿、スタッフォード・クリップス卿、ピーター・マクドナド博士(英国医師会会長) 
[ヨーケル側の主な著名人]
ノーベル章受賞2人、英国外科医医師会会長、ロンドン大学生理学教授

  この心労があり、アレクサンダーは1947年12月(彼は78歳です)に脳卒中で2度倒れます。
そのため南アフリカでの本裁判には彼の代わりに、医師でアレクサンダー教師のウィルフレッド・バーローが行きました。

ほぼ回復して、翌年の春には教師養成コースを教え始め、秋には業務は完全に戻りました。

裁判は、1948年4月にようやく勝訴しますが、その後控訴があり最終的に決着したのは1949年6月でした。勝訴はしたものの、アレクサンダー側の費用は8000ポンド(おそらく数千万円)かかったと言われています。 

4月29日(月、祝)の池袋レクチャー「アレクサンダーの生涯とその教え方の変遷」第3回では、この裁判で論点になった内容について扱います。
資料として、裁判の概要と、主な論点の抜粋を準備します。
興味のある方は、ご参加下さい。

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