1904年に35歳でロンドンに渡ったアレクサンダーですが、その前後は自分のメソッドを「フル・チェスト・ブリージング・メソッド(胸全体を使った呼吸法)」として宣伝しました.。
当時流行っていたいろいろな呼吸法と比べて、それは「自然が意図した」(つまりわたしたちの身体の設計にあった)唯一の呼吸法だと説明しました。

彼が教え始めた2年目の1895年は、ほぼ1年間を、朗誦の公演等でニュージーランドにいたのですが、その原住民のマオリ族の呼吸に感嘆し、人間の可能性の大きさ気づいたことが呼吸法を考える要因になっていました。
その翌年の1896年からは、朗誦の公演をやめ、メルボルンに戻り彼のメソッドを確立し教えることに専念したからです。

注目すべき点は彼の方法により呼吸の改善が著しいために、医師が大きく評価をして患者を送ったことです。

ロンドンに渡る前にアレクサンダーはシドニーで教えていましたが、そこのマッケイというヨーロッパ帰りの有力な医師が、「君の教えが正しければ君に協力しよう。そうでなければ君を破滅させる。」と言って、彼の生徒になりました。

マッケイはその内容を理解して評価し、友人になって医学的な見地からアレクサンダーの教える内容の改善にも貢献しました。アレクサンダーのその後の服装や食べ物・ワインの嗜好などマッケイが手本だと言われています。
彼がアレクサンダーに世界で評価されるためにロンドンに行くべきだと勧めました。

現在ではアレクサンダー・テクニークはそれほど呼吸法と関連させて扱われることはありませんが、最初は呼吸の改善が最も重要な目的だったわけです。
つまり、わたしたちが知るこのテクニークの多くは、当時に始まりがあるわけですが、それらは呼吸の改善にはっきり効果を上げるものなのです。

アレクサンダーがいつも生徒の呼吸の状態に注意を向けていたことは、彼に直接指導を受けた第1世代の先生が指摘をしています。
また、アレクサンダーが教えているときに生徒の腹部に手を当てている写真がありますが、頭-首-背中の関係性だけでなく、他の部分にも直接ワークすることがあったことを示しています。

その初期のアレクサンダーが何に注目していたかを、1906年と1907年の小冊子で見ることができます。
1907年の小冊子内容は彼の一冊目の本「人が受け継いでいる最高のもの」の最後の章に僅かな変更だけで使われています。

1906年の小冊子は1907年と重なるところも少しありますが(改訂版なので当然です)、特に「ウィスパード・アー囁き声のアー」について、彼がどう考えて教える内容に取り入れたかが詳しく書いてあります。
彼が初期の頃にどう呼吸を考えていたかを知ることができる貴重な資料です。

************
この11月10日(土)に池袋で行うレクチャーでは、この1906年の小冊子(A4の訳(A4版9ページ)を資料として配布します。(資料だけの購入もできます)
興味を持たれた方はぜひ、ご参加ください。
「アレクサンダーの生涯とその教え方(前半)」