1986年の第1回のアレクサンダー・コングレス(ニューヨークで開催)のインタビューで、当時87歳のマージョリー・バーストー(マージ)は、「あなたが行ったアレクサンダー・テクニークへの最も大きな貢献はなんですか?」、と尋ねられました。
(マージがどういう人かは、少し前のブログに書いています)

マージは、チェア・ワーク(とテーブルワーク)主体の一対一で行う伝統的なレッスンを、アクティビティ・ワーク主体のグループレッスンに変える、という大改革を行っていたので、思うに質問者は、それらを答えとして期待していたのだと思います。
ところがマージは
「自分を見ることと、そのときのコーディネーションの状態を見ることを学ぶようにさせたことです。
それを学び、その状態を知ることができたら、次にそれをそのままにするか、変えたいかを決めます。
テクニークで主に行うことは、自分を助け、良くすることです。
そのためには自分を『見る』必要があるのですが、そのためには少しノウハウが必要です。」
と答えました。

ちょうどこのインタビュー・ビデオを学び直していたときに、キャシー・マデン(長年マージから学んでいた)を通訳するクラスがあったので、彼女にマージのその言葉について何かコメントかあるか、と聞いたところ
「確かにマージは、見るとか気づく [notice] ことを言っていて、見るときは実際に見ることを強調していた。」
と、答えてくれました。

このことは、マージは1990年(ということは彼女は91歳です)のワークショップでも参加者に要求しています。
(WSビデオには、彼女に「見る」ように言われた参加者が、実際に「見る」ことなのか、「気づく」のかに混乱している様子が映っています。おそらく、その両方を言っていたのでしょう。)

アレクサンダーの児童研究協会レクチャー

実はアレクサンダー自身もそのようなことに言及していました。
ちょうど「アーティクル・アンド・レクチャーズ」の中の「児童教育研究会レクチャー」の訳を見直していて、その中に次の文を見つけました。

「自分自身と他の人に「欠けているもの」 があることを、確実に理解したのです。それが欠けていることが、生活のすべての行動に影響を与えていました。それは「感覚による意識」 と、「活動しているときの自分を感覚により観察する力」です。それらの能力のことをわたしは著書の一冊で「感覚認識」と呼びました。」

アレクサンダーは、起きていることに気づく能力を「感覚認識」と呼んでいたのですね。
「感覚認識」という言葉は、彼が最も重要な本と考えていた2冊目の「個人の建設的で意識的なコントロール(CCC)」で主に扱いました。
CCCは4つのパートに分かれていて、どのパートのタイトルにも次のように「感覚認識」が入っています。
パート1「感覚認識と人の進化的な発達との関係
パート2「感覚認識と、学ぶことと何かをすることを学ぶこととの関係
パート3「感覚認識と人の必要性との関係
パート4「感覚認識と幸福との関係
(CCCをアレクサンダーは、1冊目の「人が受け継いでいる最高のもの(MSI)」の続編と考えていました。このMSIで「意識的なコントロール」とは何かをつかんでから、CCCを読むと良いと思います。)

感覚認識のパラドックス

みなさんの「感覚認識」はいかがでしょうか?
この問いには、パラドックスがあります。
「感覚認識」がまだ低いという人は、その内容が明確でないとしても、何かが足りないことに気づいてはいます。
逆に、一般の人の大多数は「感覚認識」に問題がないと思っているわけです。「存在することにさえ気づいていないもの」は認識できません。

アレクサンダーを学び始めても、今まで知らなかった感覚認識に気づくにはかなり時間がかかります。
最初のうちは経験していても、感覚はまだ一部しか捉えてくれないからです。
レッスンを長期的に続ける意味がここにあります。