満州事変や満州国の建国についての調査を行った「リットン調査団」の名前は、歴史で習って覚えている人も多いことでしょう。
(リットン調査団は、国際連盟により1932年に作られ、調査を行い、その年の10月に調査報告を出しています。)
この団長のリットン卿(伯爵、1876-1947) は貴族で、英国のハートフォードシャー州にある豪邸に住んでいました。
数々の公務をこなし勲章を得ている立派な人でしたが、実は、アレクサンダーからレッスンを受け、彼の親しい友人になり、支援を長年続けています。
リットン卿が最初にアレクサンダーからレッスンを受けたのは、インドでベンガル総督を務めていた1926年に、休暇でイギリスに戻ったときでした。
そのときのリットンは、インドの激務で頭痛や胃の障害を抱えていたそうですが、3週間毎日レッスンを受けて、それが良くなり、インドに戻る航海の途中でこう書いています。
「彼は私に新しい身体と、生きるための新しい哲学を与えてくれた...彼は...完全な健康は、ただ完全な心と体の協調状態にあると主張している...最初の日から、彼の治療から恩恵を得ていて、ロンドンに滞在していた間、生涯で今までなかった程に調子が良かった。アレクサンダーが効率的に動けるようにしてくれたことで、私はとても元気になり、色々な競技を今までよりうまく行うことができた。一日中動き回っても、疲れを感じなかったし、朝は元気に起きることができた...元気いっぱいに、インドに戻ることができると感じている。」
(マイケル・ブロッホ著「フレデリック・マサイアス・アレクサンダーの一生」より)
これを読むと、アレクサンダーのレッスンが、どのくらい強力だったかが分かります。
リットン卿は、インドから戻ってきた後にレッスンを受け続け、アレクサンダーにいろいろな支援を行いました。
一般に広げることを助けようと、新聞に載せるためのアレクサンダー・ワークを推薦する手紙を書きましたが、彼は英国で尊敬される人物だったので、効果がありました。
1929年の金融恐慌の後には、前回のブログで書いた「リトル・スクール」と、始めようとしていた「教師養成コース」の財政支援のために、アレクサンダーは「アレクサンダー・トラスト基金」を作ったのですが、リットン卿はその理事を務めました(もちろん寄付も行ったことでしょう)。
「リトル・スクール」を作ったアイリーン・タスカ―が南アフリカに渡ったときには、そこにいた友人の将軍に紹介状を書きました。
しばらく後の1939年の アレクサンダーの70歳の誕生日の晩餐会では、彼は司会を務め、アレクサンダーと親しく話している写真が残っています。
この日には、当時アメリカのボストンで教えていたアレクサンダーの弟のA.R.(アルバート・レデン)と、第一期教師養成コースの卒業生でA.R.の補佐をしていたマージョリー・バーストーも、そのお祝いを行っています。
リットン卿は、第二次世界大戦後もアレクサンダーの支援を続け、その後に起こる名誉棄損裁判が始まったときも彼を助けようとします。
そのため、1947年10月に彼が突然亡くなったことは、アレクサンダーにとって大きな痛手でした。
※2月11日(月、祝日)のレクチャーでは、これらの内容についても扱います。
興味のある方はぜひご参加ください。
「アレクサンダーの生涯とその教え方(2回目)」
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