わたしたちの現在の文化では、日常に使う言葉の比喩は「工業製品の製造業」から多く来ている、とパーカーは「自分の生き方に語らせる」の5章「季節がある」で書いています。

工業製品は、簡単には朽ちず、均質なものを大量に作ることができるので、一つ一つの個性は重要ではありません。
もし人を、そして自分をそのように見てしまうならば、それはわたしたちの行動にも大きな影響を与えることでしょう。

パーカーは、自然の営みを使った「農業」からのイメージを紹介します。
最近は工業生産的な農業も行なわれるようになってきましたが、パーカーの「農業」は、自然の中で行う農業で、それは、
「どうすることもできない季節のサイクルに依存し、
共に何かをすることができるが、
決してコントロールすることができない力との営み」(本文より)
です。

これは、他の人と異なる「特質」を持ち「可能性」と共に「制約」を持つ自分の人生が、望むままに「思い通りコントロール」できるわけでないことの比喩になります。
理想を掲げて、そこに向かおうとし過ぎて、自分の「制約」を超えて苦しむ必要がないことです。

パーカーは、自然は最適化や効率化を望まず、秋には豊富に種を撒き散らし、春には木や花は絢爛といえる装いを纏う、と書きます。
そして、必ず「死」があります。
工業製品の比喩では、「死」は無くなるだけですが、農業の比喩では、秋や冬の「死」は、春や夏の「生」への準備です。
それを知っているので、自然は悲嘆にくれたりしません。

自然のそのサイクルは、ただ単調な繰り返しというわけでもありません。
「失う」ことの後には、前年と違った生命が生まれ、年ごとにその装いは異なります。

でも、自分が弱り苦しんでいるときには、「変化」は「死」があるから起こることを、なかなか信じられないものです。
しかしそれでも、どこかにその可能性があると思えるだけで、全くの絶望より良いと思います。

パーカーは、冬の凍った川のイメージを詩人の言葉から引用し、表面上の動きのない固まった外観にも関わらず、その下には川が流れ、命の営みが続いていることも示しています。

脳科学では、脳は、内部のネットワークで複雑な神経パルスのやりとりを行っていることを明らかにしていますが、
それは、その瞬間瞬間だけでなく、「変化に必要な時間」という要素もあることでしょう。
自分の神経回路が新しく変わり、違う認識を持つためには、既存の回路がうまく動かない時間をある程度経験する必要があるのかも知れません。

「学ぶ喜び」ということを深い所で考えると、自分が本当に変わるための学習は、「知る喜び」とは異なるところにあるのでしょう。

パーカー・J・パーマーは、この6月に新しい著書を出し、そこには「老い」が含まれるそうなので、彼がどのように描くか、興味深いところです。

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