教師養成コース以降のAR

1931年に教師養成コースが始まったときに、アルバ―ト・レデン(AR)は、兄のFMと一緒に教えます。
ARは、兄のFMとは違った活気を生徒たちに与えますが、パトリック・マクドナルドのグループを応援していた彼は、ジョージ・トレビリアンのグループから教えるときの態度に非難を受けます。
教師養成コースのあるアシュリー・プレイスがそのように居心地の良い場所でない上に、1933年に奥さんのグレースが亡くなったこともあり、翌1934年に60歳のARはアメリカのボストンに行き教えます。

ボストンには、1924年までアメリカで教えたときの生徒がいたこともあって、すぐに順調に行ったようです。
亡くなる前の10年ほどウィーウデイをボストンで、週末をニューヨークでというように教えます。

ARがアメリカに行った理由を、ウォルター・キャリントンは、そうしなければARは十分に稼げなかったからだ、と言っています。(Walter Carrington 「Personally Speaking」)
彼の家には、夫を亡くした妹のアミーが住むことになり、息子のマックス(1916-1997)は18歳で学校を終え、アレクサンダーの教師養成コースで学び始めていて、行くための条件が整ったからでもありました。

ボストンでは、最初の教師養成コースのメンバーで3年のトレーニングの後にアメリカに戻っていたマージョリー・バーストーがARに加わります。
彼女は、冬の期間をボストンでARの助手として教え、夏はネバラスカ州リンカーンで家の農場の面倒を見ました(1942年まで)。
ARはときどきイギリスに帰ってきて、アシュリー・プレイスに顔を出しています。

1939年に第二次世界大戦が始まって、FMがアメリカに逃れたときには、ARはボストンを拠点にしながら、FMのティーチングを助けました。
1943年7月にFMがイギリスに戻った後は、ARは教師養成トレーニングを引き継ぎます。 しかし、1944年6月にフランク・ピアース・ジョーンズがトレーニングを修了した直後の8月にARは脳卒中で倒れてしまいます。

その後回復した彼は、1945年の夏にはイギリスに戻りますが、2年後の1947年の4月に73歳で亡くなりました。

ARの性格と態度

FMは痩身でしたが、ARは骨太で、かなり印象が違って見えます。
2人の身長はほぼ同じで、余り高くはなかったようです。

ARは強い印象を与えるタイプのようで、ウォルター・キャリントンは 「ARはとても強い存在感を持っていました。人ごみの中でも、FMに気づかないわけにはいかなかったのですが、ARもそうだったと思います」(Walter Carrington「Personally Speaking」)
と書いています。

ARの性格は、前に書いたように、若くして金を求めて家を飛び出したり、FMからテクニークを学んでからも南アフリカでのボーア戦争に参加したりと、おとなしく言われたことに従うタイプではなく、独立心を強く持っていました。

ふるまいについては、bossy(偉そうに指示する)とかbully(弱いものいじめ)と、いろいろな人たちが同じように言っているので、かなり特徴的だったのでしょう。
例えば、母親ベッツィーは、ARが弟のボーモントや妹のアミーにbossyで、しょっちゅう喧嘩をしている、とロンドンのFMへの手紙でこぼしています。

また、姪のマージョリー・バーローも
「ARは、基本的に少しbully(弱いものいじめ)で、わたしの妹は、彼を怖がっていたくらいです。

FMとARの教え方は違っていて、ARはbullyになるときがありました。生徒が怖れと不愉快さを感じてしまうため、彼に不平がでたのだと思います。」
と書いています。(Marjorie Barlow 「An Examined Life」)

そうでいながら、ARには陽気で人付き合いの良いところがあり、静かで、いつも生徒や大人たちとは距離を置く静かなFMとは、好対照でした。パトリック・マクドナルドと仲が良く、いつも2人でパブに行っていました。(Moarjorie Barlow 同上)

  • ニューヨークのルーリーに手を貸さなかったAR

1935年にトレーニングを終えたルーリー・ウェストフェルトは、ニューヨークで教え始めましたが、ARは彼女を先生として信用せずに、協力することはなかったそうです。
そのためルーリーは、とてもガッカリし、将来の競争相手になることを恐れたのだろう、と書いています。(Lulie Westfeldt 「F.Matthias Alexander The Man and his Work」)

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