フレデリック・マサイアス・アレクサンダー(FM)の3つ年下の弟アルバート・レデン(AR)は、1931年に始めた教師養成コースを一緒に教えるなど、FMが最も信頼するアレクサンダー・テクニークの教師でした。
二人は、食べ物にうるさかったり、賭け競馬狂いだったことなど、共通な点がありますが、性格や態度はかなり違っていましたし、緊張もあったようです。
同じアレクサンダー・テクニークを教えていながら、その教え方もかなり異なっています。
それでもFMは、ARを信頼していました。
オーストラリアのAR
アルバート・レデン・アレクサンダー(AR 1874-1949)は、三男でFMより5歳下でした。
彼らの間には、父親の後を継ぐことになる二男アーサーと、他に長女のアグネスがいます。
ARは、16歳の時に金鉱での攫千金を夢見てオーストリア西部に行きますが、重い腸チフスを患いワインヤードに戻ってきます。病により眼の障害がずっと残りました。
ARはその後、騎手として馬に乗り、何度もレースに出場して、ときどき勝ったりしています。
ARは22歳(1896年)のときに、不況で良い職のないタスマニア島を出てメルボルンに行き、FMからアレクサンダー・テクニークの訓練を受けました。
ARは「6回のレッスンで理解した」と後にフランク・ピアス・ジョーンズに言っていたし、マージョリー・バーローには、「FMに手で触れられたことはなかった」と言っていたそうです。
ARはそれからFMの助手を続けますが、1900年にFMがシドニーに行った後には、メルボルンを任されたのに、違う活動を求めて1901年2月に南アフリカのボーア戦争に志願します。
戦争に参加し、翌年の4月まで帰ってきませんでした。
戦争から帰ってきたARは、FMの親友ロバート・ヤングから教えてもらったサンドウシステムを好み、1903年1月にはメルボルンでそれを中心とした身体鍛錬を教え始めます。
でも、3月のパンフレットには、FMのフルチェスト・ブリージングを学べると宣伝し、その年の終わりまでには、FMのワークを主に教え、補助的にデルサルトシステムとサンドウシステムを教えるようになりました。
その後は、FMのワークを、ロンドンに渡るまで教え続けます。
その間ロンドンに行ったFMに代わって、財政的にも母親や兄弟姉妹を支えることになります。
1912年にARは、姉のアグネスと婚約者のグレースとで、FMのいるロンドンに渡り、その後すぐに結婚します。このときARは既に38歳です。 (その少し前に、母親のベェツィーと妹の二女アミーは、既にロンドンに行っていました。
イギリスに渡ったAR
FMのメインの助手として教えていたARは、1914年に第一次世界大戦が始まるとFMが夏を除いた1年の半分以上の期間を毎年アメリカで教えていたので、アシュリー・プレイスで中心となって教えました。
(大戦が始まって、生徒との数はかなり減ってはいました。)
1918年に、ARがハイドパークで馬に乗っているときに、オートバイが横を通り過ぎたことで、馬が動転し、彼は馬から投げ出されます。
脊椎の下端を複雑骨折し、医者に二度と歩けなくなると言われました。
フランク・ピアース・ジョーンズはこう書いて言います。
「18ヵ月の間、暗い部屋でやることもなく(本を読むこともできなかった)横たわり、「抑制」と「方向性の指示」を使うことしかできなかった。」(F.P.Jones Freedom to change)
(ヤスヒロ注:1918年の初めの頃に落馬し、その年末にはアメリカに行っているので、この期間は18ヵ月ということはないと思われます)
事故のときは、FMはアメリカにいる期間だったので、自分で対処しなくてはならなかったわけですが、この期間はテクニークの理解をさらに大きく深めたことでしょう。
(1931年~1932年にマージョリー・バーストーが撮ったフィルムに、ARが自分の家のテニスコートで、プレイを見ていたり、犬に芸をさせるシーンがあります。 彼自身のテニスのプレイは撮られていませんが、他の動きを見ると、少し歩き方に後遺症があるほかは、普通に動いているように見えます。)
落馬した年の1918年の年末には、ARは、その年のアメリカで教えていたFMに加わります。
それ以降、2人で交代しながらイギリスとアメリカで教え、ARは夏の期間をニューヨークとボストンで教えます。 それは、イギリスでの生徒が増えた1924年まで続きました。
FMがペンヒルを購入した1925年頃に、シドカップ駅を挟んだペンヒルとは反対側に、ARは大きなテニスコート付きの家を購入します。
ペンヒルからは3kmほどの場所です。 彼らは、シドカップ駅を使って汽車に乗りビクトリア駅まで行き、アシュリー・プレイスで教えました。
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