今回は、アレクサンダーのオーストラリア時代の親友ロバート・ヤングとその妻エディスについて書いてみます。
エディスは、ロバートの死後、アレクサンダーと結婚します。

ヤング夫妻との出会い

17歳から3年間のワラタでのスズ鉱山会社事務員時代(1886-1888)に、FMは劇団で公演に来ていたロバート&エディス・ヤング夫妻(1883年に結婚)と初めて出会います。
ロバート(1856-1910)は公務員でしたが、腕の良いアマチュアピアニストで、このとき劇団に同伴していました。
9歳年下の彼の妻のエディス(1865-1938)はとても美しい女優です。

アレクサンダーとの共演、彼のワークを学ぶ

彼らはタスマニアで最も大きな街ホバートに住んでいました。
FMは喉の障害を克服した後で、リサイタルを行いましたが、そのホバートでの滞在中(1894年)にさらに交流が深まります。
ロバートとエディスもアレクサンダーと共演しています。

1899年のロバートは健康を害して公務員を辞め、当時メルボルンに来ていた妻のエディスの所に来ました。
彼は、パフォーマーとして人気があり、それで生計を立てることにしたのです。
このときアレクサンダーも、彼らと同じ家で住むようになります。
とても幸せな生活を3人で過ごしていて、この年にメルボルンで数週間のエンターテーメント・ショーを3人で行っています。

1900年にFMがシドニーに移ると、ヤング夫妻もまもなくシドニーに移り、9月と10月にはメルボルンで行ったようなエンターテーメント・ショーを行っています。
1901年と1902年にFMがオーストラリを巡ってシェークスア劇を行ったときには、エディスはベニスの商人のポーシャや、ハムレットのオフェーリアなど主要な役を演じました。

ロバートは、シドニーでFMのテクニークの訓練を受けますが、彼は当初は、以前に彼がロンドンにいたときに学んだサンドウシステムという筋肉を発達させる方法を教える方に熱心でした。

アレクサンダーとエディスの渡英とヤングの死

1904年に、FMがロンドンに渡るとすぐに、エディスはロンドンでの女優としての成功を夢見て、後を追います。 ロバートは、それを送りだします。
シドニーに残ったロバ―トはFMのそこでの生徒を引き継いで教え、1910年9月に54歳で亡くなります。

彼はFMに、妻のエディスの面倒を頼んでいます。
エディスが成功することはなかったので、FMは、ずっと彼女をケアすることになりました。

アレクサンダーとエディスの結婚

その後1914年に、FMは初めての渡米前にエディスと籍を入れますが、当時既にFMは45歳、エディスは49歳でした。
FMは1924年までほぼ毎年、半年以上の期間をアメリカで教えていましたが、エディスは同伴することはなく、2人の結婚は幸せなものではありませんでした。

彼らには子供がありませんでしたが、1921年頃にエディスの妹メイの娘のペギー(1918年6月生)を養女に迎えます。
メイは、夫が亡くなり、ペギーに2人の兄がいるので、生活が大変だったからです。
FMは、ペギーと仲が良かったので、彼らの結婚生活はペギーに少し助けられたことでしょう。
彼らアシュリー・プレイスで一緒に暮らし、1925年に郊外の広大なペンヒルを購入した時に、そこに移り、FMはウィークデイをアシュリー・プレイスで過ごし、週末をエディスとペギーと共にペンヒルで過ごすようになります。

1929年(FM60歳、エディス64歳)に、2人は別居しますが、教師養成コースの最初の生徒だったルーリー・ウェストフェルトが、別居の前の状態についてこう書いています。
「アレクサンダー夫人がまだペンヒルに住んでいたときに、日曜日の夕食を共にするようにと、ときどきFMから招待された人たちがいました。
夫人は演劇人という風で、風変わりで、無愛想だったそうです。
夫人は会話に多くは加わらなかったのですが、加わるときは、彼女がFMのワークに反感を持っていることがわかるように話しました。

生徒も友人も秘書も、誰もが、FMはいつも夫人に対して模範的なふるまいをしていた、と言っています。
彼は多くのことを耐えなくてはいけなかったでしょうが、気品を持って実際に耐え抜き、夫人が亡くなるまでそれを続けました。」(Lulie Westfeldt「 F. Matthias Alexander The Man and his Work」)

エディスは1938年に、狭心症を患い72歳で亡くなりました。