前回の、アレクサンダーが行った教師養成コースの生徒の印象についての続きです。

■マイケル・ブロッホのアレクサンダーの伝記

マイケル・ブロッホは、この初期のトレーニングコースの様子をより客観的に描いています。
「FMをどう考えていたかは、生徒によって大きく差がありました。マーガレット・ゴールディーのようにFMがやることを崇拝する人が片方の極端にいて、他端にはルーリー・ウェストフェルトのように、FMからの個人的な関心が少なく、彼を「欠点を持つ天才」とみなす生徒がいました。
時間が経つうちに、生徒達は2つのライバルグループに別れます。
片方のリーダーはジョージ・トレビリアンで、もう片方のリーダーはパトリック・マクドナルドです。
トレビリアンのグループには、マキネス兄妹、エリカ・シューマン,アイリーン・ステュワートがいて、マクドナルドのグループには3人のアメリカ人とマージョリー・メチン(FMの姪 後にバーローと結婚)がいました。
(ヤスヒロ注、3人のアメリカ人とは、レスリー・ウェストフェルト自身、マージョリー・バーストー、キャサリン・メトリックです。マージョリー・バーローの著書では、自分のグループは4人、と書いています。その中にはバーストーは含まれていません。エリカ・ウィタカーも、バーストーは中立的だったと言っています。)
概して、トレビリアンのグループは、FMを賛美し尊敬し続けましたが、マクドナルドのグループは、FMが生徒にいつもある程度距離を置いて接することと、詳しく説明してくれないことに苛立ち始め、もっと実際的に教えてくれるARの方を好みました。

マクドナルド自身は(彼は10歳のときからレッスンを受けていて、テクニークと共に育ってきたといえます)、FMを「偉大な実験家でアーティスト――もう一人のレオナルド・ダ・ヴィンチ――」だが、ひどい先生で「他の人の頭の中で何が起こっているかを理解できない」と考えていて、反対にARは「自分をもっと表に出す人で...人の感情や反応への洞察がある。」と考えていたのです。

一方、トレビリアンのグループはARを「いじめっ子(bully)」のようだと考え、彼のふるまいを糾弾する嘆願書を書きます。
(ヤスヒロ注:ARは、幾分威張ったようなところがあり、メルボルンにいたときに、母親のベッツイーはFMに不平を書いています。)

ARは、FMとの違いや、1933年の彼の妻の死などもあって、1934年にアメリカに行き、ボストンでのワークを再興します(ヤスヒロ注、ARは1945年までボストンで教えました。)」
(Michael Bloch 「The Life of Frederick Matthias Alexander」

■フランク・ピアス・ジョーンズ (1941年7月にトレーニングを開始)

第二次世界大戦でFMがアメリカに逃れていたときに、ブラウン大学の古典の教授だったF.P.ジョーンズ(1905-1975)が、30代半ばで教師養成トレーニングを受け始めます。
ジョーンズは1938年から、ARのレッスンを受けていました。
トレーニーは最初は彼一人だけで、後に彼の奥さんなど4人が加わりました。
トレーニングが始まって2年後にはFMはイギリスに帰ってしまったので、ARがトレーニングを引き継ぎ3年間でトレーニングを終了します。
ARはその直後(1943年8月)にひどい脳卒中で倒れ、1945年の夏にはイギリスに戻ることになったので、ARからのサポートを2年ほどしか受けられませんでした。

「ARは手の使い方について細かい指示はしませんでした。
重要なことは、自分自身と生徒を観察できるようになることで、特定の変化を得ようとするようなエンド・ゲイニングにならずに、自分の方法を見つけることだと考えていたのです。
誰かにワークしていると、ARはとどどきそれを見て、「引き下げている」というようなことを言ってくれますが、どこに手を置くように、というような指示はしませんでした。
これには最初は困りましたが、今では正しかったと思っています。アレクサンダーたちの教え方をほぼ正確に真似するかわりに、自分の言葉で生徒に伝えることができるようにアレクサンダーの原則の理解を深めなくてはならなかったからです。

アレクサンダー兄弟の両方から教えてもらったトレーニングコースを振り返ってみると、構成が良くなかったと強く思います。2,3時間のクラスを受けた後で、全ては「成長と発達 growth and development」のためにあるとされてしまうのです。
テクニークは確かにノン・エンド・ゲイニングですが、それは、エンド・ゲイニング(結果志向)の世界で使う必要があります。
そのギャップを埋める助けをもらえませんでした。
トレーニングコースの終わりころ、ペンシルバニア軍大学での軍プログラムで、英語をアルバイトで教えました。それが実生活の問題をいろいろ起こしてくれるちょうど良いストレスなりました。初めて英語を教えたからで、アレクサンダー・テクニークがその解決を助けてくれたのです。

ARは、ジョーンズにティーチングについて「ゆっくり進んで、原則に忠実でありつづけるように。」とアドバイスし続けていて、ジョーンズへの最後の手紙ではそれを繰り返し、「ゆっくり進むことで自分を苦しめないように。ゆっくり進むことは必要です。」と書いたそうです。」
(Frank Pierce Jones 「Freedom to Change」)

 

■ペギー・ウィリアムス(1947年9月にトレーニングを開始)

訓練を始める前に、感情面でも、身体面でもつらい状況にあったペギー・ウィリアムスはトレーニングにも5年をかけました。
彼女は、トレーニングについて次のように書いています。

「でも、FMがわたしに行っていることは正しくて、わたしは学ばなければならないことを知っていました。
そこには、わたしが学ばなくてはならないことがあって、わたしは学ばなくてはならないと知っていました。
また、わたしは自分の学びを妨げているものを見つけたいとも思っていました。
ある日、家で横になって、どうにもうまくいかないと感じていたときのことです。急に「手放す」気になったのです。
自分自身を手放そう、自分を苦しめることもしない、という気になりました。
すると、急に気分が良くなったのです。

そこで考えが浮かびました。わたしが自分を完全に静かにして、何もやらずに、自分がやれる限りで静かでいることを続けたらどうだろう。
そうすれば、やがて自分に「もうそこで大丈夫。止まったままでいる必要はないよ。」と言える瞬間が来るのではないか、という考えです。
わたしはこれをアレクサンダーからワークを受けているときに使ってみましたが、それは成功でした。

彼は、「そうだ。」と言いました。

(質問者)それにはどのくらいかかりましたか。
ほぼ18ヵ月です。
(質問者)彼のそれまでの説明が悪かったということですか。
彼は、全く説明しませんでした。彼は自分で見つけ出すように望んでいたのです。
そして、わたしは、そうできました。わたしの理解からこなくてはいけないものなのです。」
(Glen Park 「AN INTEVIEW WITH PEGGY WILLIAMS」より)

ペギー・ウィリアムスは、後に有数のアレクサンダー教師になりますが、特に手のパワーが強かったことで知られていました。 その彼女がとても苦労して学んでいたことは興味深いです。

上記のインタビューで、次のようにも言っています。
「トレーニングの最初の18ヵ月は、全く苦悶といえるものでした。 トイレに行き、ほぼ毎日泣いていました。
ときどきとても動転してしまって、お昼休みの間中、消耗しきっていることがありました。
でも、トレーニングを何の問題もなくこなす人もいます。
特に今、一人の人を思い浮かべているのですが、彼女は、とても冷静で、穏やかでした。でもアレクサンダー教師にはなりませんでした。」

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マージョリー・バーローが書いていたことで締めくくりましょう。
「わたしたち全員が、覚えておかなくてはならないことは、完全なトレーニングコースは無いということです。どの卒業生も、受けたトレーニングの特異性によるハンディキャップをもっています。でも、それは大丈夫です。

トレーニーは自分が入ることを決めたトレーニングコースを全うします。
でも、自分が持っているトレーニングへの期待を、正しいもので望ましいものだ、とは思わないでください。 また、自分が出席するコースを、「完全」なものとして守ろうとはしないでください。
ワークを行い、本(ヤスヒロ注:FMの本)を読むことです。」
(Marjorie Barlow 「Examined life」)

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