フレデリック・マサイアス.アレクサンダー(F.M.アレクサンダー)の一生を辿る年表の後半を作りました。
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ロンドンに渡った35歳のアレクサンダーの歩みを、亡くなるまで辿っています。

この期間も、手短に追ってみます。

(3)ロンドンでの発展

1904年に競馬で大金を得た35歳のアレクサンダーは、希望していたロンドンに渡ります。 すぐに耳鼻科のスパイサー医師に認められ、彼は、自身も家族もレッスンを受けました。
スパイサーが、患者も送ってくれたことから、順調にスタートを切ります。 「ブリージングマン(呼吸の人)」として知られるようになりましたが、1910年に出版された「人が受け継いでいる最高のもの(MSI)」で、アレクサンダー・テクニークの範囲を「呼吸と声」から人間全体に広げます。

(4)第一次世界大戦とアメリカ(1914-1929)

1914年に始まった第一次世界大戦は、アレクサンダーにとってはアメリカに進出する良い機会になりました。
以前に生徒だったマーガレット・ナウンブルグが、「アメリカに来れば生徒を集める」と言ってくれていて、開戦直後の9月に単身ニューヨークに行きすぐに成功を収めます。
その後の10年間は主にアメリカで教え、夏(4月か5月から9月か10月)にイギリスに戻る生活を送ります。
アレクサンダー・テクニークにとって大きな出来事は、アメリカの世界的な哲学者・教育者のジョン・デューイが生徒になったことです。 MSIで人間についての考察を行ったアレクサンダーは、デューイと親しく接することで、教育的な観点も得ながら、その考察を一流のものにしていきます。
デューイの勧めもあって書いた2冊目目の著書「個人の建設的で意識的なコントロール(CCCI)」(1924年)は、内容の全てをデューイと確認しています。

(5)世界大恐慌と教師養成コース(1929-1939)

大恐慌は、イギリスのアレクサンダーにも影響を与えました。資産が減り、生徒の数も減少します。
そのため、教育基金も作り資金を集めました。
特筆すべきことは1931年62歳のときに教師養成コースを始めたことです。
それまで、周囲に勧められても渋っていたアレクサンダーはようやく開始しました。
第1期の生徒には、マージョリー・バーストー、パトリック・マクドナルド、マージョリー・メチン(後にウィルフレッド・バーローと結婚)がいます。
1932年には、どのようにテクニークを作っていたかが書いてある3冊目の著書「自分の使い方」を出版します。 リトル・スクールをペンヒルに移します。

(6)第二次世界大戦、晩年(1939-1955)

大戦開始の翌年にはドイツのイギリスへの進行が現実味を帯びてきました。
アレクサンダーは、リトル・スクールの生徒達とアメリカに逃れ1943年までアメリカで教えます。
でも、アメリカでの生活に嫌気がさしたアレクサンダーは、戦時中にも関わらずイギリスに戻ります。
その後は、弟のA.R.やエセル・ウェブなど親しい人の死が相次ぎました。
アレクサンダー・テクニークを批判した南アフリカの記事に対して起こした裁判は長引き、高額の費用がかかりアレクサンダーの心身をむしばみました。また近しい弟子たちとの軋轢も生まれました。

アレクサンダーは1947年末に脳卒中で続けて2回倒れています。 そこからは回復しますが、1955年10月、軽い心臓発作から回復していく途中で、亡くなります。