マージョリー・バーローの著書「An Examined Life」で、わたしの印象に強く残った部分を取り上げています。
3)使うこと、自分で試し、見つけること
「このワークを理解するためには、まず第一に、『自分に行い、実践する』ことです。」(P.20)
マージョリーがいたころの教師養成コースでは、FMからのワークの順番でないときは、自分にワークしていたそうです。
トレーニーたちは、イスから立ったり、座ったり、モンキーなったりしていて、それを同じ部屋にいたFMの監視下で行っていました。
もちろん、FMがいないときに自分にワークすることも重要だとマージョリーは言っています。
解剖学なども、行き過ぎて、自分にワークすることがおろそかにならないようにと、言っていました。
自分で見つけなければならいことについて、FMの言葉を伝えている部分を引用しましょう。
「アレクサンダーは『君は、自分のやり方を見つけなくてはならないんだ。誰も君を助けられない。君は、自分の真実を見つけて、それに従う必要がある。』と言っていました。
彼が初めの頃にわたしに言ったことで、最も驚いたのは、『君が信じていることで、自分のものは何もないんだよ。
自分の物だと思えるものは何一つ無い。
君が言ったり、やったりすることは、他の人や、君の育てられ方から来ているんだよ。
君がやらなくてはならないのは、君が考え、信じるものに、本当に自分のものを見つけることだ。』」(P.7)
アレクサンダーが1931年に始めた教師養成コースは不完全でしたが、後に名前の残る先生たち(パトリック・マクドナルド、マージョリー・バーロー、マージョリー・バーストー、ルーリー・ウェストフェルト)は、そこから生まれたことは興味深いことです。
その点でアレクサンダーの教え方は、成功していたと言えるかもしれません。
アレクサンダーがこのことを求めていることを、最初はトレーニーは理解していませんでした。
彼は、高いレベルの先生には、誰でもなれると思っていなくて、自分で試し、考え続けることができる人だけが、そうなれると思っていたようです。
そのため、誰も継承できなくても、彼の著書の「自分の使い方」があれば、後世で再発見してもらえるとも考えました。
このことは、教えるときにどこまで丁寧に生徒に与えたら良いか、という問題を投げかけます。
わたしは新設の大学・修士課程の一期生として大学時代を送り、高校教員のときは「電子機械科」の新設に加わり、トルコへの途上国援助で「自動制御学科」を立ち上げました。
何もないところから手探りで進めた体験は、自分を変える役に立ったとは感じます。
ただその分、道草が多く、とても効率が悪いものでした。
マージョリーは、FMがときどき大きな事を、自信を持って話していたことについて、こうも書いています。
「彼が自身を持てたのは、全て彼自身の体験に基づいていたからです。決して言葉だけではありませんでした。」(P.229)
4)間違いは友達
「『わたしたちは、決して正しくはできなくて、ただ間違ったことを見つけられるだけ』
ということを、はっきり分かる必要があります。
正しくしようとして、生徒が間違うことを恐れるようになるなら、進む道を誤っています。
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生徒は、間違うことを恐れるので、わたしが最初にやることは、間違うことが唯一の友人だと示すことです。唯一の友人なのです。その友人の他には、わたしたちには何もありません。その最良の友を、なぜ怖れねばならないのでしょう。
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理解してもらいたいのは、わたしたちは間違ってしまうので、その間違いに気づいて、それを抑制する何かを実行することだけしか、できないことです。」(P.47~48)
「間違い」についてのこの考えを、マージョリーはワークショップのDVDを始め、何度も言っています。
これは「間違って感じる、しっくりしない」ということではなく、本当に間違ってしまうことに対する、学びの態度です。
それが安心を与えてくれるだけでなく、「それでしか学べない」と言っているのはとても興味深いです。