これまで、まだアレクサンダー・テクニークが未成熟だった頃のオーストラリアでの様子(弟のアルバート・レデン(AR)、妹のアミー、親友へのロバート・ヤング)と、ロンドンに渡ってからの2人(エセル・ウェッブとアイリーン・タスカー)への徒弟的な訓練の状況見てきました。
いよいよ、正式な教師養成コースについてです。
1931年に始めた教師養成コースの概要
1931年2月に、63歳のフレデリック・マサイアス・アレクサンダー(FM)はようやく教師養成コースを開始しました。
「新しい職業」として、未来の素晴らしい可能性を宣伝します。
前年の7月には、「アレクサンダー教育基金」を作り、教師養成コースと既に始めていた「リトルスクール(子供たちのための学校で、この名前で呼んでいました。)のために寄付を集めていました。
1929年10月の世界金融大恐慌で、財政的に苦しくなったために始めたという意見もあるようですが、ウォルター・キャリントンは、それに賛成していません。
キャリントンは 「FMは、先生が必要になることに気づいていました。 特にアイリーン・タスカーが教えていたペンヒルでのリトル・スクールの成功に影響されたのだと思います。彼の著作から、FMが子供の発達に関心が深かったことは明らかですし、この分野の需要に答える必要があったのです。」
と言っています。
この頃にどのようなトレーニングを行っていたかについては、次の回に紹介することにして、今回は概要を示します。
FMが行ったトレーニングコースの概要
次の表は、各年毎に教師養成コースに入学した人数です。
カッコ内は、その中でトレーニングを最後まで終えた人数です。
1939年から45年の第二次世界大戦、その後の名誉棄損裁判、1947年12月のFMの脳卒中など、この期間には大きな出来事が多く、それがトレーニングコースにも大きな影響を与えています。
西暦 | FM年齢 | 入学人数 | 主な生徒 |
1931 | 62 | 9人(8) | マーガレット・ゴールディー(1905-1997) マージョリー・バーストー(1899-95) レスリー・ウェストフェルト(1898-65) ジョージ・トレビリアン(前教育大臣の息子1906-1966) アイリーン・ステュワート(1906-90) エリカ・シューマン(後にウィタカー)(1911-) |
1932 | 63 | 1人(1) | パトリック・マクドナルド(1910-91) |
1933 | 64 | 2人(2) | チャールズ・ニール(1917-58) マージョリー・メチン(後にバーロー)(1915-06) |
1934 | 65 | 1人(1) | マックス・アレクサンダー(1916-97 A.R.の息子) |
1935 | 66 | 1人(1) | |
1936 | 67 | 6人(4) | ウォルター・キャリントン(1915-05) |
1937 | 68 | 2人(1) | アルマ・フランク(1898-53) |
1938 | 69 | 7人(3) | エリザベス・ウォーカー(1914-13) |
1939 | 70 | 4人(1) | ウィルフレッド・バーロー(1915-91) |
1940 | 71 | 0人 | (戦時中) |
1941 | 72 | 1人 | (アメリカ) FP.ジョーンズ(1905-1975) |
1942 | 73 | 4人(4) | (アメリカ) |
1943 | 74 | (戦時中) | |
1944 | 75 | (戦時中) | |
1945 | 76 | 9人(8) | |
1946 | 77 | 10人(8) | アラン・ムレイ ペギー・ウィリアムス(1916-03) |
1947 | 78 | 7人(3) | ジョン・スキナー(1912-92) |
1948 | 79 | 2人(0) | |
1949 | 80 | 3人(0) | |
1950 | 81 | 1人(0) | |
1951 | 82 | 1人(1) | |
1952 | 83 | 1人(1) | |
1953 | 84 | 2人(1) | ゴッダード・ビンクリー |
1954 | 85 | 3人(1) | |
1955 | 86 | 5人(1) | ディリス・キャリントン(1915-09) |
(修了者の数には、FMの元での開始後、ARやキャリントンによって、トレーニングを終えた人も含みます。)
この表を見ると、FMの存命中にトレーニングを終えることができたのは、50人に満たない少人数であったことがわかります。
表の最初の年の参加者の誕生年を見て下さい。開始する年齢もさまざまです。
トレーニングコースの3年目に開始したチャールズ・ニールや、4年目に開始したARの息子マックス・アレクサンダーは、17歳前後の若さでした。
トレーニングコースは3年間でした。
開始後10年以上を経た1945年のパンフレットによると、1年を2期に分けていました。
9月10日~11月30日の3ヵ月と1月20日~7月20日だったので、クリスマス休暇と夏休みを多めにとっていたのでしょう。
授業料の納入は6回(1年2回)に分けていて、それぞれ125ポンド、75ポンド、100ポンド、75ポンド、75ポンド、50ポンドでした。 合計だと500ポンドになります。 (為替の値は難しいところですが、300万円~400万円程度かと思われます。 1947年9月にトレーニングを始めたペギー・ウィリアムスは、500ポンドの授業料を「それほど高額でない」と言っています。)
最初の入学者は、アメリカに帰らなくてはならなかったマージョリー・バーストーを除いて、無料で追加の1年がありました。その年は、3年目の「ベニスの商人」に続いて、「ハムレット」の公演を行っています。
生徒はテクニークを実際に使う場面として、舞台に立つことが必須だったわけです。
「ハムレット」の翌年にコンサート形式で公演を行いましたが、その後の生徒達にはこの課題はなくなりました。
1947年12月の脳卒中後、FMはしばらく教えることができなかったので、このときもトレーニング期間を1年延長しています。
また1954年以降は、トレーング・コースをウォルター・キャリントンらに任せて、余り教えませんでした。
トレーニングコース開始時の8人の生徒
この写真は、1931年にトレーニングコースが始まったときの8人の生徒です。(写真⑨のARの息子マックスはこの3年後にトレーニングを始めました。)
①エリカ・シューマン(後にウィタカー)
エセル・ウェッブの姪、FMは彼女の脊柱彎曲を治している
②マーガレット・ゴールディー
フローベル大学で教員をめざして学ぶ。その際に虚弱な身体をFMのワークで改善し、課程を終えることができた。リトル・スクールですでに教えていた。
③ジーン・マキネス
リトル・スクールの生徒だった。
④マージョリー・バーストー(アメリカ)
1927年にFMからワークを6ヶ月受けている。
⑤アイリーン・ステュワート
マーガレット・ゴールディーのフローベル大学の級友
⑥ガーニー・マキネス
ジーンの兄 ぜんそくのため1927年にレッスンを受けている
⑦ジョージ・トレビリアン
当時の教育大臣の息子
⑧ルーリー・ウェストフェルト(アメリカ)
子供の頃小児まひを患った。トレーニングの前にレッスンを受けている。
ウォルター・キャリントンは、
「初期の生徒たち(すぐ後に加わるパトリック・マクドナルドやチャールズ・ニールも含めて)は、アレクサンダー教師になるという明確なビジョンがあったわけでなく、大学を卒業した後で自分が何をしていいかわからなかったり、もっとテクニークのワークに触れたいと思ったりなど、さまざまな動機で始めたと思う。」
と書いています。
第一期に後から加わった生徒
⑨キャサリン・メリック(キティ・ウィロポルスカ)--コースを始めた年(1931年)に参加。
ルーリー・ウェストフェルトの友人。ほぼ3年のトレーニングを受けるが精神分裂症を発症し断念。後に、パトリック・マクドナルドからトレーニングを受け直し、先生になる。
⑩パトリック・マクドナルド --1932年に参加
アレクサンダーの支持者ピーター・マクドナルド医師の息子。10歳の頃より、FMからレッスンを受ける。ケンブリッジ大学で歴史を専攻し、それを修了してからトレーニングに参加。
⑪マージョリー・メチン(後にウィルフレッド・バーローと結婚)–1933年に参加
アレクサンダーの妹、エイミーの長女。
⑫チャールズ・ニール --1933年に参加
喘息でアレクサンダーから個人レッスンを受けていた。第二次大戦後に、アレクサンダー・テクニークに他の技法を取り入れて独自の実践を始める。
FMは、その内容を肯定しなかったが、当時の大政治家スタッフォード・クリップスの支持を得るなど、成功を収めていた。
1958年に30歳代前半の若さで亡くなっている。
⑬マックス・アレクサンダー(上の写真では⑨) --1934年に参加
アルバート・レデン(AR)の息子、学校を終えて参加。
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