BodyChanceのプロコースで教えるアレクサンダー・テクニーク教師ヤスヒロ(石田 康裕)のページです。テクニークの歴史や役立ち情報など多くを載せています。教育分野(学校の先生など)での応用にも力を入れています。ヤスヒロは、埼玉・東京でのレッスン、出張レッスンを行っています。機械工学修士で27年間、高校で教えました。

UCL「使い方は良くも悪くもいつも影響している」

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「生きている上で変わらないこと」 F.M.アレクサンダー 1941年出版

一章「使い方は良くも悪くもいつも影響している」をヤスヒロ訳で載せます。

自分の身体の不具合 [ills] に対して、どのくらいその責任が自分にあるかを考える人は、わたしたちの中にほとんどいません。こう言えるのは、日々の活動と夜に眠っているときに、わたしたちが間違った害を及ぼす使い方 * を自分にしていることや、その間違った使い方により誤ったディレクション [misdirection] や緊張 [tension]、エネルギーの無駄遣いが起こっていることに、わたしたちは気づいていないからです。仕事でも他でも、自分をとても良く使うことは当然できると多くの人たちは思っています。

* [脚注]
現在までの研究では、人は目覚めているときの悪い使い方 [harmful manner of use] を、眠っているときに大きくしがちだということが知られています。しかしまだ一般に認識されていないのは、確かに「生命を保つためのプロセスを担うメカニズム」を活動させる必要性は、目覚めているときほど大きくない(その機能は、普通はゆっくりそして穏やかに行われているので)とはいえ、それは眠っているときにもあり、目覚めているときの活動と同じ悪い使い方の習慣によって妨げを受けていることです。

 

しかしながら最近、全てがうまくいくわけではないことが分かってきました。少なくともある活動の分野、例えば工場労働の悪い影響(工場の環境や労働時間、換気などを除いても)は一般に認識され始めてきたので、労働者の障害を改善しようとする努力がなされるようになりました。

残念なことに現在まで、それらの障害を改善しようと懸命に取り組んでいる人たちの努力からは、わずかに一時しのぎ的な措置しか出てきていません。この問題の解決に何が必要かを考えるときに、人の組織体の精神-身体的メカニズムが行っている役割りのことを、身体的で作業的 [physical and manual] と呼ばれる活動と精神的で知的 [mental and intellectual]と呼ばれる活動の両方において、考慮に入れていないからです。それが、
1.一般的な動きや移動を行うための腕や脚を使う活動と、道具や器具の使用に手を使う活動
であれ、
2.考え、論理立て、理解するプロセスを働かせようとする活動と、それらのプロセスによる結果を、話したり書いたりして表現する活動(教育・宗教・政治・科学などで見られる)
であれ、この二つの精神-身体的活動の分野で人の組織体 [human organism] が行なっている役割は共通です。

「精神-身体的」という言葉の使い方に関して、わたしが「建設的で意識的な個人のコントロール」(P.5)に書いたことを読者に引用します。

この本やわたしのワークのなかでの「精神-身体的 [psycho-physical]」という言葉は、人間の組織体の働きを考えるときに「身体的 [physical]」な働きと「精神的 [mental] 」な働きを分けることはできない、ことを示すために使っています。「人が受け継いでいる最高のもの」の中で「わたしの意見では、この2つは完全に相互依存していて、相互依存という言葉以上に緊密な繋がりがあります。」と書きました。それゆえ、「精神-身体的な活動」という言葉を人間が行っている全てを指すために、「精神-身体的なメカニズム」という言葉は、それを起こす仕組みのことを指すために使います。

しかし精神-身体的な活動に、2つがどのプロセスにも同じ割合で存在する、と考えてはいけません。なぜなら、これはわたしが示したいと思っていることですが、人間の発達の諸段階の歴史が明らかにしているように、ある段階では人間活動はいわゆる「身体的」なものが優って現れているし、他の段階ではいわゆる「精神的」なものが優って現れていたからです。

わたしはここでも、また議論を進めるときにも、「身体的」と「精神的」という言葉を使わざるをえませんでした。なぜなら、さまざまな段階における精神-身体的な活動の現れ方を適切に表す言葉が、今は他に無いからです。決して「身体的」と「精神的」とに分かれているという意味ではありません。そのため、「精神的」という言葉を使うときは、一般に完全に「身体的』だと思われているもの以外の全てのプロセスや活動を表すと理解してもらいたいし、「精神的」という言葉を使うときにはその反対で、一般に完全に「身体的」だと思われているもの以外の全てのプロセスや活動を表す、と理解してもらいたいことを明らかにしておきます。」

このことは、この本で「身体的」とか「精神的」という言葉を使うときにも当てはまります。

生きている人間は誰も「精神と身体の統一体 [psycho-physical unity]」 で、素晴らしいメカニズムを備えていて、何かの望みや必要性という刺激があると、全ての反応はそれらのメカニズムを通して活動を始めます。そのためどの反応も、それらのメカニズムのある特定の「使い方 [manner of use] 」を伴いますが、その関係はとても密接なので、この「使い方」は、身体的であれ精神的であれ人の活動全てにいつも影響を与えます。

最初に肉体労働者や技能労働者を取り上げましょう。それらの人の使い方は、その人の全体的な機能に良くも悪くも影響を与えるだけでなく、仕事で器具や道具を使うやり方にも影響を与えます。彼の全ての活動は、何かの刺激に対する特定の反応です。刺激は彼のある使い方を始めさせ、彼の反応の仕方はその使い方がどうかによって決まりますが、割合は低いのですが、その刺激が強いか弱いかによっても影響を受けます。この例では、反応を引き起こす一つの刺激があり、それは目的とする結果を得るための手段としてその道具や器具を使いたい、という彼の望みや必要性です。

教育・宗教・科学・政治などの知的分野に携わる人たちにとっては、状況はそれほど単純ではありません。彼らは作り上げた理論やプランを道具や手段として使い、それによって他の人を自分の考えやアイデアを信じるように変えさせようとします。このとき、最も良いと考えられる「ミーンズ・ウェアバイ[means whereby それに至る手段)] があったとしても、結果を達成できるかは一つではなく、程度の異なるいくつかの刺激に対する反応の仕方に左右されます。例えば自分が述べたいと思っている「考え [idea]」という刺激があるし、「人を変えたい」という刺激があるし、「聴衆」という刺激などがあることでしょう。そのそれぞれの刺激に対して、人は自分の習慣的な使い方によって反応します。これら全てに加えて、行った手段が成功するかどうかを左右するのは、説得を受け、指示を受けている人たちの反応の仕方です。それが、新しい考えという刺激と、それを話している人の人間性や態度から来るときに強くときに弱い刺激によって、活動を始めるからです。

驚くべきことに、「反応」が使い方からの影響を「機能」と同じように受けていることを知っている人はほとんどいないし、それを知っている人たちでさえ、一人一人の自分の使い方「use of self] が、いかに密接な関係をもちながらその人全体の機能と反応を変化させるかについて、知る人はほとんどいません *

* [脚注]
明白なことにしばしば気づかなかったり、とても重要なことが身近に起こっているのに見過してしまうことを、わたしたち誰もが体験から知っています。新しくて不慣れな事実や体験に出会うとき、すでに自分が持っている関連した知識や体験を使おうとしないので、わたしたちは慣れたものとその不慣れなものを関係づけることができません。その結果、新しくて不慣れな体験を自分が知っているものに結びつけることができれば、得ることができる新しい知識を逃してしまうのです。このことが、わたしのワークを知っている人でも、使い方が機能と反応に影響するという特性や、自分の使い方が反応の仕方と機能の状態にとても密接に関連しているので、一つをコントロールすることは他のコントロールを左右するという真実を、ほとんどの人が十分に認識していないことの説明になります。しかしながら、この関連こそが、わたしのワークの知見と本に載せた研究内容から理解すべき、最も重要なものなのです。これが見過ごされてしまっていることは、長期間になされてきたわたしのワークへのさまざまな評価を、批評や新聞記事、著作での言及で読む誰にも明らかでしょう。有名な権威者たちがそれぞれの分野で、わたしの実践と理論の価値と正当性を支持する意見を述べています。しかし彼らが書いたものは、わたしがこれから強く述べようとしている、実践と理論での重要な真実を受け入れるときの裏に隠れているものに触れていません。それについて、重点的に扱います。

 

日常活動でのわたしたちの機能と反応に関係する「使い方の特性 [nature of use]」について考えるときに、解決すべき問題があります。稀な例外を除いて、「自然 [Nature]」はこの点で、既にそれに対する備えをわたしたちに行っている、とほとんどの人が思っていることです。そのため、「なぜわたしたちの使い方は悪くなってしまったのですか? 何が原因ですか?」等々と、わたしはどのくらい質問を受けたことでしょう。

それらの問いには、わたしの他の本で十分に答えました。「自分の間違った使い方を防ぐ手段を論理的に考え出す」という潜在的な力を「自然」が準備したことは確かですが、そうできるための「予防的な手段 [preventive measures]」を、わたしたちは発達させていないのです、それは、自分の使い方が悪くなり、自分をしくじらせるようなことは起こり得ない、と大きく間違って思い込んでいるからです。

でも今や、自分の使い方の影響が生活のどの瞬間にも良くも悪くも絶えず影響していることを示せるので、そう思うことは不合理です。自分の良い使い方は、全体的な機能に良い影響を与えますが、それは絶えず影響するだけでなく、時を経るにつれてますます強くなって行き、機能を良くするように、そして反応の仕方を改善するように「定常的に」作用します。一方、自分の悪い使い方は、全体的な機能を低下させて、悪い影響を絶えず与えてしまい、自分の内側と外側からの刺激に対する反応から起こる機能的な活動の何に対しても、「定常的に」妨げを行い、全ての反応の仕方に悪い影響を及ぼします。

使い方が機能と反応にどのくらい影響するかを判断するときに、考えるべき重要な点は、それが断続的か定常的かということです。それがもし断続的なら、機能の特性にわずかな影響しかしか与えないでしょうが、普通そうであるようにそれが定常的だったら、その機能への影響は時を経るにつれてより一層強くなっていきます。

毎日の生活で自分が行なっていることにいつも注意を向けていれば成功に結びつくことや、あることにエネルギーを持っていつも取り組めばそれは求める結果を生み出す最も効果的な方法であること、与えられた仕事にいつも取り組めば鈍重でゆっくりしか仕事に取り組めない人も成功するが、突発的にしか取り組まなければ聡明で俊敏な人でも失敗すること、水滴がずっと落ち続ければ石をも穿(うが)つこと、身体のある部分にいつも力が生じていると炎症や痛みを作り出すこと、ある音を一定間隔で繰り返し聞かせたら人を狂わせてしまうこと(実際にその目的で使われています)、悪い習慣をいつも続けていると遅かれ早かれイラつきや、興奮しやすさ、欝(うつ)状態、やる気のなさを引き起こしときに狂気に至せることを、わたしたち全てが知っています。

このために、わたしたちの使い方が機能に与えるこの種の定常的な作用はとても重要です。もしそれが全体的な機能を改善するものなら、良い方に定常的に作用しますが、低下させるものならば、悪い方に定常的に作用します。実際に、習慣とは、定常的なものの表れだ、と定義できるでしょう。

この理由から、良い使い方を定常的なものとして確立するためのミーンズ・ウェアバイを、わたしたちは知り、使えるようになるべきです。「自分の使い方」の読者は、声の器官の機能を改善しようとして自分を使ういろいろな方法を試したときに、「首との関連での頭のある使い方」と「胴体や人の組織体の他の部分との関連での頭と首のある使い方」を意識的に連続的使ったならば、わたしの例が示すように、自分の全体としての使い方を確立してくれて、それが様々なメカニズムや器官やシステムの機能を良くするベストな状態を与えてくれる、ことを発見したと思い出すでしょう。わたしは実際に、「首との関連での頭の使い方」で始まる各部分のこの使い方が、メカニズムを全体として働かせるためのプライマリ・コントロールであり、それはプロセスの中で人の組織体全体のコントロールも行うものであること、そして、使い方のプライマリ・コントロールの働きを妨げるとき、いつもわたしの全体的な機能のレベルを低下させていることを見つけました。これから気づいたのは、使い方が全体の機能に負の効果を与えるか、その反対かを判断するための方法をわたしが見つけていたことです。その基準は、その使い方がプライマリ・コントロールの正しい *使用を妨げているかどうか、ということです。

* [脚注]
わたしの書いたものの中で、「正しい [correct]」「適切な [proper]」「良い [good]」「悪い[bad]」「満足な[satisfactory]」という言葉が、「プライマリ・コントロールの使用 [the employment of the primary control]」や「使い方 [the manner of use]」などとの関連で使われた場合は、人の組織体の全体としての働きがベストになるような精神-身体的機能の状態と理解してください。

 

残念なことに、文明社会の大多数の人々が自分が行っていること全てにおいて、多かれ少なかれ「使い方のプライマリ・コントロールを正しい用い方 [the correct employment of the primary control of their use」に妨げを行っていて、それはいつも彼らにマイナスに作用し、自分の身体の機能を低下させ、外の世界での成果も低くさせています。

このマイナスの作用は、内科や外科や他の形の治療を受け、何かの障害を「治癒 [cure] 」し軽くしようとしている患者の場合にも働きます。なぜなら、それは彼らの全体的な機能をいつも低下させていて、それは治療のだけでなく、終わってからも続くからです。そしてこれは、何かの治療にその処置がとても良い結果を出していてもあてはまることです。これは、人の活動の全ての分野に当てはまり、いかなる教育でも、それを受けている生徒にも当てはまります。人が学校の授業で、例えば数学やフランス語の指導を受けていても、スポーツや運動競技のコーチを受けていても、何かの芸術や技巧の技術を教わっていても、自分の使い方のプライマリ・コントロールの正しい使い方に対するいかなる妨げからのマイナスの作用も、機能と成果の質をいつも低下させます。

一方、その人の使い方がプライマリ・コントロールの正しい使い方を妨げない場合は、その影響はいつも彼にプラスに働き、外側での活動も眠っているときも、自分の内部の機能をいつも高めます。

使い方を変えようとしてわたしのテクニークをいつも使う体験を持った人には、このことの真の重要性は明らかです。それはプライマリ・コントロールの使い方への妨げを防ぐ間接的な方法によって行われていて、その体験は、わたしたちの使い方は、自分の全体的な機能にいつも作用していて、それは良い方に向けてのこともあるし、悪い方に向けてのこともある、ことを実際的に示しているからです。

これが意味することをわたしたちが一度受け入れれば、全般的な精神-身体的な能力低下と健康状態の低下に悪い使い方が果たす役割と、その反対に、精神-身体的な高い能力と良い健康状態を回復し維持するときに改善した使い方が果たす役割を、認識できます。さらに、わたしたちの誰もが、使い方によって自分の機能が何かの面でどのくらい影響を受けているかを知り、そうすることで自信を持って間違った方向への影響を阻止するようになることが、わたしたちの誰にとってもいかに重要かが分かります。まとめると、使い方が全般的な機能に与える影響を評価する能力が、判断 [diagnosis] を行うための基礎になる、ということです。

判断のこの基準を受け入れれば、自分の困難を解決しようと思ったり、自分の考えや行動を変えようとする人は、その見方を変えなければならないことになります。自分を良くしようとどんな手段を使っていても、つまり伝統的または非伝統的な治療法や自己鍛錬等のどんなものを使うにせよ、目的を果たすために最も強い力になるのは、改善した使い方がいつも作用するようにすることです。それが全ての活動において人の機能を徐々に良くしていき、人の全ての反応に良い影響を与えます

この事実が知られ始めたのはわずかにこの40年間なので、自分の機能や刺激への反応の特性にわたしたちの使い方が何かの関係を持つことや、わたしたちの身体-精神的に良い状態 [well-being] というものが、眠っているときと目覚めているときの自分の使い方にどのくらい依存しているかは、今日のかなり少数の人にしか認識されていません。残念なことに、その妨げがわたしたちの機能を低下させているのに、自分の良い状態 [well-being] と自分の使い方に関連があることを意識していないのです。とはいえ、わたしたちは「体調が優れない」「元気とはいえない」「気分が悪い」と言って、体温や、害になる緊張、身体の痛みや不具合などからの妨げを意識してはいます。そのような状態のときには、「良い気分だ。」とか「元気だ。」と言うときとは、与えられる刺激に違った反応をしがちなことを知っています。わたしたちはイラ苛立ちや、気難しさ、強情、短気といった兆候を見せるのですが、それを自分の使い方が妨げられて機能が低下したことで状態が悪くなったことの表れだ、と認識していません。「調子が悪い。」というような症状が見られなくても、機能だけでなく反応の仕方にもいつも有害な作用を及ぼす自分の使い方を、今日の大多数の人が作ってしまっていることを認めれば、個人の欠陥や特異性、間違った考えや、全ての種類の不具合、そして今日の社会で顕著な内面の安定さや不幸の原因が、この間違った使い方にあることが分かるでしょう。わたしの長い経験から、個人と社会の諸問題の根底にある原因は、わたしたちが「ミーンズ・ウェアバイ」を採用するまでは残ることを、自信を持って断言できます。そのミーンズ・ウェアバイは、今日と将来の子供たちが、自分の行うこと全てにいつも悪い作用を行う使い方を作ってしまうことを防ぐだけでなく、有害な状態が既に存在している場合にも、いつも良い方向に作用を及ぼす使い方を回復させるものです。それらの悪い状態を良くするために別の手段が採られたとしても、このことは言えます。

誤った使い方 [faulty manner of use] は、生来のものでも発達させたものでも、時を経るにつれてより一層堅固に確立した習慣になり、そのため変えることがより難しくなります。それとは反対に、全般的な精神-身体的な機能を徐々に改善して行く(それは人間の発展にいつも良い作用を行います)使い方を、培って用いて行く利点を思い描くことは簡単でしょう。

 

「エンド・ゲイニング」と「ミーンズ・ウェアバイ」

これらの言葉は、二つの異なった、いや全く反対の考えと二つの異なったプロシージャ(手順)を表しています。1番目の「エンド・ゲイニング」という考えでは、ある結果を望んだとき、その結果を得るために必要な動きの実行には、自分の感覚が命ずるままに、人の組織体の異なった各部分を使うことが全てです。そのとき、そのプロセスを行う間に自分の間違った使い方を行ってしまい、害を及ぼすことになっても気にしません。その結果達成のために必要な活動を実行するにあたって、考えたり論理付けを行う自分というものが、本能的なガイダンスとコントロールの気まぐれに対して従属的になっていることを、この考えは意味しています

そのためエンド・ゲイニングは、結果に直接的に向かうという考えのプロシージャで、その「ミーンズ・ウェアバイ」が目的のためにベストなものかや、新しくて改善した「ミーンズ・ウェアバイ」(それを使えば必然的に自分の使い方を変えることになります)に変える必要があるかを考えません。このエンド・ゲイニングのプランは試行錯誤的なやり方の一つで、人の自分の使い方が満足なものであれば、かなり成功します。でも文明化の体験の中で、この自分の使い方が多かれ少なかれ害を持つ(この事実を示すことができます)ようになっているので、エンド・ゲイニングのやり方は、もはや個人の必要性を満たしません。

2番目の言葉が示す「ミーンズ・ウェアバイ」の考えでは、この事実が認識されています。そのため、ある結果を望んだときに、自分の使い方がもはや満足なものでなく、活動のディレクションの間違った関連メカニズムは、望んだ結果を得るための必要性を充たしていないことを、このプロシージャでは考えます。そうすると、新しくて改善された「ミーンズ・ウェアバイ」を考え出さなくてはならないことになります。それは自分の使い方で、関連するメカニズムが誤ったディレクションを持たないようにするもので、結果を達成する障害にならないものです。

これは間接的なプロシージャで、既に示したように習慣的な慣れた動きを行う慣れたメッセージを、インヒビション(抑制)して新しくて不慣れな動きを行う不慣れなメッセージに変えます。

理解してもらいたいことは、わたしの著作の中の「意識的なガイダンスとコントロール」という言葉は、何よりも到達すべき次元を示していて、そこに至る方法を示してはいないことです。 (「個人の建設的で意識的なコントロール」P.10の注釈を参照のこと)

 

 

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