「生きている上で変わらないこと」 F.M.アレクサンダー 1941年出版
一章「使い方は良くも悪くもいつも影響している」をヤスヒロ訳で載せます。
自分の身体の不具合 [ills] に対して、その責任がどのくらい自分にあるかを考える人は、わたしたちの中にほとんどいません。こう言えるのは、日々の活動と夜に眠るときに、間違った害を及ぼす使い方 [1] をわたしたちが自分に行っていることや、その間違った使い方によって誤ったディレクション [misdirection]、緊張 [tension]、エネルギーの浪費が起こっていることに、わたしたちは気づいていないからです。仕事でも、わたしたちが行う他の何でも、自分をとても良く使うことは当然できると、多くの人たちは思っています。
しかしながら、全てがうまく行っているわけではなく、少なくともある活動の分野で問題があることが最近は認められてきました。例えば工場労働の悪い影響は(工場の環境や労働時間、換気などを除いても)一般に認識され始めていて、労働者の障害に対処しようとする努力がなされるようになりました [2]。
残念なことに今までの所、それらの障害を改善しようと懸命に取り組んでいる人たちの努力からは、わずかに一時しのぎの措置しか出ていません。それは彼らが、この問題の解決に何が必要かを考えるときに、人の組織体の心身的メカニズム [psycho-physical mechanism] が行う役割りを、身体的で作業的と呼ばれる活動と、精神的で知的と呼ばれる活動との両方で、考慮に入れていないからです。それが
1.一般的な動きや移動を行うときに、腕や脚を使うことを要求する活動と、道具や器具を使うときに、手を使うことを要求する活動
でも、
2.それによって、考えたり、論理立てたり、理解したりするプロセスを働かせようとする活動と、それによって、それらのプロセスの結果を話したり書いたりすることで表現する活動(教育、宗教、政治、科学などで見られるように)
でも、その2つの心身的活動の分野で人の組織体が行なう役割は共通なのです。
「心身的」という言葉の使い方に関して、わたしが「建設的で意識的な個人のコントロール」(原著P.5)に書いたことを読者に引用します。
この本やわたしのワークのなかで、心身的という言葉は、人の組織体の働きを考えるときに「身体的」な働きと「精神的」な働きを分けることはできない、ことを示すために使っています。「人が受け継いでいる最高のもの」の中で「わたしの意見では、この2つは完全に相互依存していると考えなければならないものです。その言葉が示す以上に密接なものと言ってもよいでしょう。」と書きました。それゆえ、心身的な活動という言葉を、人が考えて行っている全てを指すために使い、心身的なメカニズムという言葉は、それを起こす仕組みのことを指すために使います。
しかし、関係するプロセスの心身的な活動には、いつも2つが同じ割合で存在する、と考えてはいけません。なぜなら、これはわたしが示したいと思っていることですが、人の発達の諸段階の歴史が明らかにしているように、ある段階では人の活動はいわゆる「身体的」な方が優って現れているし、他の段階ではいわゆる「精神的」な方が優って現れていたからです。
わたしは、議論を進める中で、「身体的」と「精神的」という言葉を使わざるをえませんでした。なぜなら、さまざまな段階における心身的な活動の現れ方を適切に表す言葉が、今は他に無いからです。決して「身体的」と「精神的」とに分れている、という意味ではありません。そのため、「精神的」という言葉を使うときは、一般に完全に「身体的」だと思われているもの以外の全てのプロセスや活動を表す、と理解してもらいたいし、「身体的」という言葉を使うときにはその反対で、一般に完全に「精神的」だと思われているもの以外の全てのプロセスと活動を表す、と理解してもらいたいことを、明らかにしておきます。
このことは、この本で「身体的」とか「精神的(または心的)」という言葉を使うときにも当てはまります。
生きている人は誰も「心と身体の単一体 [psycho-physical unity]」 で、素晴らしいメカニズムを備えていて、何かの望みや必要性という刺激があると、全ての反応はそれらのメカニズムを通して活動を始めます。そのためどの反応も、それらのメカニズムのある特定の「使い方 [manner of use] 」を伴いますが、その関係はとても密接なので、身体的であれ精神的であれ人の活動全てに、この「使い方」はいつも影響を与えます。
最初に作業や熟練仕事を行う人たちを取り上げます。これらの人の「使い方」は、その人の全体的な機能の仕方に良くも悪くも影響を与えるだけでなく、仕事で器具や道具を使うやり方にも影響を与えます。彼の全ての活動は、何かの刺激に対する特定の反応です。刺激は彼のある使い方を始めさせ、彼の反応の仕方はその使い方がどうなっているかで決まりますが、程度は少なくても、その刺激が強いか弱いかによっても影響を受けます。この例では、反応を引き起こす一つの刺激があり、それは、目的とする結果を得るための手段としてその道具や器具を使いたい、という彼の望みや必要性です。
教育、宗教、科学、政治などの知的分野に携わる人たちにとって、状況はそれほど単純ではありません。彼らは作り上げた理論やプランを道具や手段として使い、それによって他の人を自分の考えやアイデアを信じるように変えさせよう、とします。このときに、最も良いと考えられる「ミーンズ・ウェアバイ [means whereby 手段]」 があったとしても、結果を達成できるかは、強さの異なる一つではない幾つかの刺激に対する反応の仕方に左右されるのです。例えば、自分が述べたいと思う「考え [idea]」という刺激があるし、「人を変えたい」という刺激があるし、ある場合には「聴衆」という刺激等があることでしょう。そのそれぞれの刺激に対して、人は自分の習慣的な使い方によって反応します。これら全てに加えて、行った手段が成功するかどうかを左右するのは、説得を受けたり、指示を受けている人たちの反応の仕方です。それが、新しい考えという刺激と、それを話している人の人間性や態度から来る、ときには強くときには弱い刺激によって、活動を始めるからです。
驚くべきことに、反応が使い方による影響を機能の仕方と同じように受けている、ことを知っている人はほとんどいないし、それを知っている人たちでさえ、一人一人の自分の使い方 [use of self] が、その人全体の機能の仕方と反応をいかに密接に変化させるかを、知る人はほとんどいません [3]。
日常活動でのわたしたちの機能の仕方と反応に関係させて「使い方の特性」について考えるときに、解決すべき問題があります。稀な例外を除いて、「自然 [Nature]」はこの点で、既にそれに対する備えをわたしたちに行っていると、ほとんどの人が思っていることです。そのため、「なぜわたしたちの使い方は悪くなってしまったのですか? 何が原因ですか?」等々と、わたしはどのくらい質問を受けたことでしょう。
それらの問いに、わたしの他の本で十分に答えました。自分の間違った使い方を防ぐ手段を論理的に考え出す、という潜在的な力を「自然」が準備したことは確かですが、そうできるための予防的な手段を、わたしたちは発達させていないのです。それは、自分の使い方が悪くなり、自分をしくじらせるようなことは起こり得ないと、ひどく間違って思い込んでいるからです。
しかし今や、自分の使い方の影響が生活のどの瞬間にも良くも悪くも絶えず影響していることを示せるので、そう思うことは不合理です。自分の良い使い方は全般的な機能の仕方に良い影響を与えますが、それは絶えず作用するだけでなく、時を経るにつれてますます強くなり、機能の仕方を良くするように、そして反応の仕方を改善するように、「いつも」作用します。一方、自分の悪い使い方は全体的な機能の仕方を低下させ、悪い作用を絶えず与えてしまい、自分の内側と外側からの刺激に対する反応で起こる実際の活動の何に対しても「いつも」妨げを行い、全ての反応の仕方に悪い影響を及ぼします。
使い方が機能の仕方と反応にどのくらい影響するかを判断するときに、考えるべき重要な点は、それが突発性のものか定常的かということです。それがもし突発的なものなら、機能の仕方の特性にわずかな影響しか与えないでしょうが、普通そうなっているようにそれが定常的だったら、機能の仕方へのその影響は、時を経るにつれてより一層強くなります。
いつも毎日の生活で自分が行なっていることに注意を向けていれば、成功に結びつくことや、いつも特定の方向に自分を活性化させていれば、それは求める結果を生み出す最も効果的な方法であることを、わたしたち全てが知っています。与えられた仕事にいつも取り組んでいれば、鈍重でゆっくりしか仕事に取り組めない人も成功しますが、突発的にしか取り組まなければ、聡明で俊敏な人も失敗すること、水滴がずっと落ち続ければ石をも穿(うが)つこと、身体のある部分にいつも力がかかっていると、炎症や痛みを作り出すこと、ある音を一定間隔で繰り返し聞かせたら、人を狂わせてしまうこと(実際にその目的で使われています)、悪い習慣をいつも続けていると、遅かれ早かれイラつきや興奮しやすさ、欝(うつ)状態、やる気のなさを引き起こし、狂気にさえも至らせることも、知っています。
それゆえ、わたしたちの使い方が機能の仕方に与えるこの種の定常的な作用は、とても重要です。もしそれが全体的な機能の仕方を改善するものなら、良い方に定常的に作用しますが、低下させるものなら、悪い方に定常的に作用します。実際に、習慣は定常的なものの表れ、と定義できるでしょう。
この理由から、良い使い方を定常的なものとして確立するための手段を、わたしたちは知り、使えるようにするべきです。「自分の使い方」の読者は、声の器官の機能の仕方を改善しようとして、いろいろな方法で自分を使う方法を試したときに、「首との関連での、頭のある使い方」と「胴体や人の組織体の他の部分との関連での、頭と首のある使い方」を意識的に連続的に用いたときに、わたしの例が示すように、自分を全体として使えるようにしてくれる、ことを見つけたと思い出すでしょう。それが、様々なメカニズムの器官やシステムの機能の仕方が良くなるように、ベストな状態にしてくれました。わたしは取り組みの中で、「首との関連での、頭の使い方」で始まる各部分のこの使い方が、メカニズムが全体として働くためのプライマリ・コントロール [4] で、それは過程を行う中での人の組織体全体のコントロールも行うこと、そして、わたしの使い方でのプライマリ・コントロールの用い方に妨げを行うときには、自分の全体的な機能の仕方のレベルがいつも低下することを、見つけました。このことで分ったことは、使い方が全体の機能の仕方にマイナスの効果を与えるかその反対かを判断する方法を、わたしが見つけたことです。これが、そのときの使い方がプライマリ・コントロールの正しい用い方 [5] を妨げているかどうか、の基準になるわけですから。
残念なことに、文明社会の大多数の人は、自分が行う全てで、多かれ少なかれ「彼らの使い方のプライマリ・コントロール」の正しい用い方にいつも妨げを行っていて、それは常に彼らにマイナスに作用し、身体の機能の仕方を低下させ、外の世界の成果も低くさせています。
このマイナスの作用は、内科や外科、他の治療を受けて、何かの障害を「治療」し軽くしようとする患者にも働きます。なぜなら、それは彼らの全体的な機能の仕方をいつも低下させるからですが、それは治療の間だけでなく、終わってからも続きます。これは、処置が何かの治療にとても良い結果を出すときにも言えます。さらにこのことは、人の活動の全ての分野に当てはまり、教育方法が何であれそれを受けている生徒にも言えます。生徒が学校の授業で、例えば数学やフランス語の指導を受けるときも、スポーツや運動競技のコーチを受けるときも、芸術や工芸の技術を教わるときも、「彼らの使い方のプライマリ・コントロール」の正しい用い方への妨げによるマイナスの作用は、機能の仕方と成果の質をいつも低下させます。
一方、その人の使い方がプライマリ・コントロールの正しい使い方を妨げなければ、その影響はいつも彼にプラスに働き、外で活動を行うときも、また眠っているときも、自分の内部の機能の仕方をいつも高めます。
使い方を変えようとして、プライマリ・コントロールの使い方への妨げを防ぐ間接的な方法で、わたしのテクニークをいつも使う体験を持った人にとって、このことの真の重要性は明らかです。なぜならその体験は、わたしたちの使い方は、自分の全体的な機能の仕方に良くも悪くもいつも作用している、ことを実際に示すからです。
これが意味することをわたしたちが受け入れれば、悪い使い方が全般的な心身的な能力低下と健康状態の低下に果たす役割と、その反対に、改善した使い方が心身的な高い能力と良い健康状態を回復し維持するときに果たす役割が、分ります。さらに、自分の使い方によって、機能の仕方が何かの面でどれほど影響を受けているか、が分かる方法をわたしたち誰もが知ることが、いかに重要かが分ります。知ることで、間違った方向へのその影響を、自信をもって止めることができるのです。手短かに書けば、使い方が全般的な機能の仕方に与える影響を知る力が、診断の基になる、ということです。
自分への診断にこの基本を受け入れれば、困難から自分を救い出そうと思ったり、自分の考えや行動を変えようとする人は全て、その見方を変えなければなりません。自分を良くするためにどんな手段を使っても、つまり伝統的または非伝統的な治療法や自己鍛錬等のどんなものを使うにせよ、目的を達成するための最も強い力になるのは、改善した使い方がいつも作用するようにすることなのです。それが、全ての活動で人の機能の状態を徐々に良くして、人の全ての反応に良い作用を行います。
この事実が知られ始めてわずかに40年なので、使い方がわたしたちの機能の仕方や刺激への反応の特性に関係を持つことや、わたしたちの身体-精神的な良い状態 [well-being] というものが、睡眠と目覚めているときの自分の使い方にどのくらい依存しているかを、今日、かなり少数の人しか認識していません。残念なことに、それに対する妨げがわたしたちの機能の仕方を低下させているのに、自分の良い状態 [well-being] と自分の使い方に関連があることを意識しないのです。それでも、わたしたちは発熱や、害になる緊張、身体の痛みや不具合などからの妨げは意識していて、「体調が優れない」「元気とは言えない」とか、ときどきは「気分が悪い」と言います。そのような状態になると、「良い気分だ。」とか「元気だ。」と言うときとは、受ける刺激に違った反応をしがちなことを、わたしたちは知っているのです。それ以上に、苛立ちや、気難しさ、強情、短気といった兆候をわたしたちは見せるのですが、それを、自分の使い方が妨げられて機能が低下したことで状態が悪くなったことの表れだ、とわたしたちは気づきません。「調子が悪い。」という症状がないにしても、今日の大多数の人が、機能の仕方だけでなく反応の仕方にもいつも有害な作用を及ぼす自分の使い方をしていることを認めれば、わたしたちは、この誤った使い方が、個人の欠陥や特異性、間違った考え、全ての種類の不具合、そして今日の社会で顕著に見られる内面の不安定さや不幸、の原因になり得ることを知ることができるべきです。わたしの長い経験から、個人と社会の諸問題の根底にある原因は、わたしたちがある「ミーンズ・ウェアバイ」を採用するまでは残ることを、自信を持って断言できます。その「ミーンズ・ウェアバイ」は、今日と将来の子供たちが、自分の行うこと全てにいつも悪い作用を行う使い方を作ってしまうことを防ぐだけでなく、有害な状態が既に存在している場合にも、いつも良い方向に作用を及ぼす使い方を回復させます。このことは、その悪い状態を良くするために何か外の手段を取るとしても、言えることです。
「誤った使い方」は、それが生来のものでも発達させたものでも、時を経るにつれてより一層堅固に確立した習慣になり、変えることがより難しくなります。それとは反対に、全般的な心身的な機能の仕方を徐々に改善して行く(それは人間の発展にいつも良い作用を行います)使い方を、培って用いることの恩恵は、容易に思い描くことができます。
「エンド・ゲイニング」と「ミーンズ・ウェアバイ」
これらの言葉は、2つの異なる――いや全く反対の――考えと、2つの異なったプロシージャ(手順)を示しています。1番目の「エンド・ゲイニング」という考えでは、ある結果を望んで、その結果を得るために必要な活動を行うときに、自分の感覚が命ずるままに人の組織体のさまざまな部分を使うことが全てになっています。そのとき、そのプロセスを行う間に自分の間違った使い方を行ってしまい害を及ぼすことになっても、気にしません。その結果達成に必要な活動を行うときに、考えたり論理づけを行う自分 [self] というものが、自分の本能的なガイダンスとコントロールの気まぐれに従属的になっていることを、この考えは意味します
そのためエンド・ゲイニングは、結果に直接向かうという考えのプロシージャで、使おうとする「ミーンズ・ウェアバイ」が目的のためにベストかとか、新しくて改善した「ミーンズ・ウェアバイ」(それを使えば必然的に自分の使い方を変えることになる)に変える必要があるか、を考えません。エンド・ゲイニングのプランは、試行錯誤的なやり方の一つで、人の自分の使い方が良いものならかなり成功します。しかし、文明化の体験の中でこの自分の使い方はかなり悪くなっているので(この事実を示すことができます)、エンド・ゲイニングのやり方は、もはや個人の必要性を満たしません。
2番目の言葉が示す「ミーンズ・ウェアバイ」の考えは、この事実を理解したものです。そのため、ある結果を望むときに、自分の使い方がもはや良いものでなく、関連するメカニズムは間違って指示されて望んだ結果を得るための要求を満たせないことを、このプロシージャでは考えます。それは、新しく改善した「ミーンズ・ウェアバイ」を、考え出す必要があることになり、その「ミーンズ・ウェアバイ」は、自分の使い方に関連するメカニズムの誤ったディレクションが起こらないようにして、それが結果の達成への障害にならないようにするものです。
これは間接的なプロシージャで、既に示したように習慣的な慣れた動きを行う慣れたメッセージを、インヒビション(抑制)して、新しくて不慣れな動きを行う不慣れなメッセージに変えます。
理解してもらいたいことは、わたしの著作の中の「意識的なガイダンスとコントロール」という言葉は、何よりも到達すべき次元を示していて、そこに至る方法を示しているわけではないことです。 (「個人の建設的で意識的なコントロール」パートⅠ第1章の2つ目の脚注を参照のこと。)
[1] 現在までの研究では、人は目覚めているときの悪い使い方を、眠っているときに大きくしがちだということが知られています。まだ一般に認識されていないのは、「生命を保つプロセスを担うメカニズム」を活動させる [activate] 必要性は、確かに目覚めているときほど大きくないとはいえ(その機能は普通はゆっくりと、そして穏やかに行われるので)、眠っているときにもあることです。それは、目覚めているときの活動と同じ悪い使い方の習慣によって、妨げを受けているかもしれません。
[2] 補遺Dのジョン・ヒルトン教授の講演の抜粋参照。
[3] しばしば明白なことに気づかなかったり、とても重要なことが身近に起こっているのに見過してしまうことを、わたしたち誰もが体験から知っています。新しくて不慣れな事実や体験に出会うとき、すでに自分が持っている関連した知識や体験を使おうとしないので、わたしたちは慣れたものとその不慣れなものを関係づけることができません。その結果、新しくて不慣れな体験を自分が知っているものに結びつければ得ることができる新しい知識を、逃してしまいます。このことは、使い方が機能の仕方と反応に影響するという特性や、一つをコントロールすることが他のコントロールに左右されるという真実を(自分の使い方が、反応の仕方と機能の仕方の状態にとても密接に関連しているからです)、わたしのワークを知る人でもほとんどが十分に認識していないことの説明になります。しかしながら、この関連づけこそが、わたしのワークの知見とわたしの本を読むことで、現れて来るべき最も重要なものです。わたしのワークへの長期間に渡るさまざまな評価を、批評や新聞記事、著作での言及で読む誰にとっても、それが見過ごされていることは明らかでしょう。有名な権威たちがそれぞれの分野で、わたしの実践と理論の価値と正当性を支持する意見を述べています。しかし彼らが書いたものは、一つの真実を受け入れるときにその背後にあるものに触れていません。それこそ実践と理論の基礎になっているものなので、これからわたしはそれについて書きます。
[4] 【訳注】プライマリ・コントロール [primary control] は、アレクサンダーが3冊目の本から使い出した言葉ですが、「コントロールを行うときに最も主要な役割を果たすもの」というような意味です。
[5] わたしの書いたものの中で、「正しい [correct]」「適切な [proper]」「良い [good]」「悪い [bad]」「満足な [satisfactory]」という言葉が、「プライマリ・コントロールを用いる [the employment of the primary control]」や「使い方 [the manner of use]」などとの関連で使う場合は、人の組織体の全体としての働きがベストになるような心身的機能の状態と理解してください。(【訳注】なぜ、この中に「悪い[bad]」が含まれているかは疑問です。アレクサンダーが単に見落としていただけなのでしょうか。)