F.M.アレクサンダーは、自分のテクニークをほぼ独自に作り上げたことから、自発性と自分で探求する能力をアレクサンダー教師になるために重要と考えていました。
彼のやり方を真似しないで、教師が自分で考えていかなくてはいけない、とずっと言っていました。
しかし、他の人の考えや新しいアイディアを受け入れることは苦手だったことが、彼の伝記などを見ると分ります。
ほぼ誰もが自分のやり方で行うことは大好きなので、その欠点は程度の問題とは言えるでしょう。
(もちろん新しい考えは、オリジナルを歪めてしまう危険もあります。
第1期のトレーニーのチャールズ・ニールは、アレクサンダーの存命中にもかなり逸脱したアレクサンダー・テクニークを教えて、手広く活動したことが知られています。
彼は早くに亡くなったので、今では余り話題に上りませんが。)

その人が行った改革が改善なのか、改悪なのかの評価は人によって分かれるとことです。
一つ言えるのは、フランク・ピアス・ジョーンズは、1941年7月に教師養成コースを始める前にもかなりの期間個人レッスンを受けていたことです(彼は1938年からA,R,からの個人レッスンを受け始めました。)。しかも、ときどきは、できるだけレッスンを受けるようにした、とも書いています。
彼のアイデアは、少なくともA.R.とF.M.から与えられた十分な体験に基づいていました。
(マージも教師養成コースを始める前に、半年間の連続個人レッスンを受け、他にも数回、連続レッスンを受けにロンドンに行っています。)


個人レッスンを受けていた終わり頃のことを、ジョーンズは次のように書いています。

「繰り返して体験して、このテクニークが本当に有効だと確信したときに――自分が抱えるどのレベルの問題も知性で解決することができることが分ったときに――、人生に対する私の見方が変わりました。 しかし、その発見に私が完全に満足できなかったのは、 自分が知ったことを他の人に伝えることができなかったからです...そのうえ、変化が起きるメカニズムを理解するためには、 私は自分の手をどう使うかを学ばなくてはなりません。」

そして彼は、F.M.の誘いにより教師養成コースを始めました。
最初はトレーニーはジョーンズ1人だけで、その後、彼の妻のヘレンがトレーニーとして参加するまでの半年間はそれが続きました。
ジョーンズは、トレーニングが修了するまでは他の人を教えないこと、約束させられたし。F,M.かA.R.の許可が出るまでは手の練習も許されませんでした。

ジョーンズは、「フリーダム・トゥ・チェンジ」の生前に完成した最後の14章「教えるときの注意」に、彼の教え方を書いています。
特に目立つ特徴には、次があります。

・言葉によるディレクションをほとんど使わないこと
・運動感覚を作ることを大事にしていること(インヒビションをその基本にしています)。
・「頭への意識」を中心にしながら、周りに起こっていることに意識の場を広げる練習を重要視していること

ジョン・デューイもオルダス・ハクスリーも、A.R.が1945年にイギリスに戻った後は、フランク・ピアス・ジョーンズからレッスンを受けました。
彼らに認められるほどのレベルの高さがあったのでしょう。