BodyChanceのプロコースで教えるアレクサンダー・テクニーク教師ヤスヒロ(石田 康裕)のページです。テクニークの歴史や役立ち情報など多くを載せています。教育分野(学校の先生など)での応用にも力を入れています。ヤスヒロは、埼玉・東京でのレッスン、出張レッスンを行っています。機械工学修士で27年間、高校で教えました。

F.M.アレクサンダーについて

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アレクサンダー・テクニークは、オーストラリア生まれで俳優志望だったフレデリック.マサイアス.アレクサンダー(Frederick Matthias Alexander 1869-1955)が作りました。
多くの人が彼はFMと呼び、一緒に教えていた弟のアルバート・レディン(Albert Redden 1874-1947) をARと呼びました。

(1)生い立ち、タスマニア島(1869年)

彼は、シドニーよりさらに南側にあるタスマニア島で、1869年(日本では明治2年です)に10人兄弟の最初の子供として生まれました。
タスマニア島は、北海道よりやや小さい島です。彼が幼少年期を過ごしたワインヤードは、当時人口150人ほどの小さな村です。
祖父が6人の息子に残した広大な土地があったため、FMは少年時代を乗馬、射撃、釣り、狩りをして過ごしました。
17歳から、3年間スズ鉱山で事務員として3年間働いています。とても優秀で、副収入もあったため、かなりのお金をためました。

(2)メルボルン(1889年 20歳)—–朗誦家、のどの障害、テクニークの発見

20歳でタスマニア島を離れ、当時人口50万人の大都市メルボルンに渡ります。
演劇に大きな興味を持っていたアレクサンダーは、仕事をいくつか変えながら、朗誦家(シェークスピア劇などを舞台で話す人)への歩みを進めます。
彼に「のどの障害」が起こったのは、23歳の頃と言われています。すぐに声枯れが起こってしまう自分の問題に取り組んだことで、テクニークの発見に至りました

(3)教え始める(1894年 25歳)

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1894年(25歳のとき)に自分が見つけた内容を、歌手や牧師、政治家など、声を使う人たちに教え始めていますが、この頃はまだ、基本的といえることの全てを見つけてはいなかった、と言われています。

オーストラリアのメルボルン、そしてシドニーで教え、声と呼吸を改善することに目覚ましい成果を上げて、医師にも評価されるようになりました。

(3)ロンドン(1904年 35歳)

自分が見つけたテクニークの真価を試そうと、アレクサンダーは1904年にオーストラリアから当時世界の中心だったロンドンに渡りました。 すぐに演劇界のトップの俳優や、呼吸器を扱う医師に認められ、高価なレッスン料(1回30分のレッスンは、当時のタイピストの一週間の給料より少し安い位だったそうです。現在で考えると5万円ほどでしょうか。)にもかかわらず、徐々に生徒は増えていきました。 次第にいろいろな問題を抱えた人たちが生徒としてレッスンを受けるようになっていきます。 アレクサンダーは、自分の発見したテクニークが、人の全ての活動を根本から変える力を持つことに気づき、それについて著作として発表していきます。

彼は、生涯に4冊の本を書きました。

1910年 「The Man’s Supreme Inheritance」 略称MSI (人が受け継いでいる最高のもの) (これに続いて、1911年に「Adeenda]、1912年に「Conscious Control」が出され、1918年に3冊をまとめたものが出版されました。現在のものは、1918年の版に、1945年の序文がついいています)

1922年 「 Constructive Conscious Control of Individuals」 略称CCC またはCCCI (建設的で意識的な個人のコントロール)

1932年 「The Use of the Self」 略称UOS(自分の使い方)

1944年 「The Universal Constant in Living」略称UCL (生きる上で変わらないこと)

(4)アメリカ(1914年 45歳)

第一次世界大戦が1914年に始まったこともあって、アレクサンダーはその年の9月にロンドンを離れニューヨークに向かいました。
新しい可能性を求めたわけですが、翌年の5月までの最初の滞在の間に、多くの生徒を得て成功を収めます。その後10年ほどは、弟のARと交代しながら、半年をアメリカで、半年をイギリスで教えるという生活を送りました。
1916年の冬に、世界的な哲学者で教育学者のジョン・デューイ(1859-1952)が生徒になります。デューイはレッスンの恩恵を受け、「50代のデューイは、年不相応に老けていたが、80代にはとても若いという印象を与えていた。」というように言われていました。アレクサンダーの考え方にも感銘を受けました。彼の著作「Human Nature and Conduct」は、その影響を受けているそうです。

デューイは、自分の地位を危うくする危険を犯しながら、アレクサンダーの著書MSI(1918年版)とCCC、EOTの3冊に序文を寄せています。
アレクンサダ―は、CCCを仕上げるときに、デューイと共に1ページずつ検討しました。

(5)教師養成(1931年 62歳)とリトルスクール

アレクサンダーは、1931年から教師養成を始め、テクニークの教師は徐々に世界中に広がっていきました。アレクサンダーから直接受けた先生たちを第一世代と呼びます。
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(6)第二次大戦後(1945年 76歳)、名誉棄損裁判

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アレクサンダーは、イギリスで多くの医師や医学博士の友人を持ち、テクニークの内容について彼らの検証を受けています。彼らはブリティッシュメディカルジャーナル(世界でも有数の医学雑誌)などで、このテクニークを医学界で広がるように文を寄せています。ノーベル賞受賞者で当時世界の神経医学界で最も権威のあった、サー・チャールズ・シェリントンもアレクサンダーが発見した内容を支持しました。

(7)晩年(1955年 86歳で逝去)

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■現在

残念ながら、アレクサンダーから直接受けた指導を受けた第一世代の先生たちは一人もこの世に残ってはいません。現在は、第二世代、第三世代の教師たちが世界中で教えています。2015年にアイルランドで行われた第10回コングレス(3年に一度開催される世界大会)には、世界中から700人を超えるアレクサンダー教師が参加しました。

参考資料

(1)「The life of Frederick Matthias Alexander—Founder of the Alexander Technique」
Michael Bloch(2004 Little Brown)
(2)「Frederick Matthias Alexander A FAMILY HISTORY]
J.A.Evans (2001 Phillimore)
(3)1950年の未完の自伝原稿、
「F.Matthias Alexander Articles and Lectures」 (1995 Mouritz)で読むことができます。

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