BodyChanceのプロコースで教えるアレクサンダー・テクニーク教師ヤスヒロ(石田 康裕)のページです。テクニークの歴史や役立ち情報など多くを載せています。教育分野(学校の先生など)での応用にも力を入れています。ヤスヒロは、埼玉・東京でのレッスン、出張レッスンを行っています。機械工学修士で27年間、高校で教えました。

アレクサンダー年表後半

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アレクサンダー年表後半

F.M.アレクサンダーがロンドンに渡ってからの年表です。
アレクサンダー・テクニークをいかに彼が広げていったかが分かります。
この期間についての簡単な概要を、ブログで載せています。そちらもお読み下さい。
(この年表で表示位置が変わっているところがありますが、後日修正させていただきます。)

年月日 F.M.年齢 出来事 教師訓練開始
1904 35 F.M. 6月13日にロンドンに着く
すぐに、一流の仕立て屋でスーツを作る。
少なくとも2人の医師に断られた後で、聖メアリー病院耳鼻咽喉科のスパイサー医師に認められる。スパイサーーは強力な支援者になった。夫妻と子供たちがレッスンを受け、多くの患者を送った。8月 アーミー&ネイビイマンション(ビクトリア駅近く)に住む9月 エディス・ヤング、女優を志してロンドンに向かう10月 スパイサーの紹介で女優のリリー・ブレイトンが生徒になる。F.M.のレッスンにより声を取り戻し、健康状態も良くなる。リリーと脚本家の夫オスカー・アッシュが演劇界にF.M.を紹介した。
1905 36 1月 召使としてウィリアムを雇う(10年間F.M.に使える)

大俳優のヘンリー・アービングがレッスンを受ける

1906 37 1月 「FM.アレクサンダー 呼吸と声の再教育の新しいメソッド」(4ページのチラシ)

?? 「呼吸、声の再教育の新しいメソッドの紹介」(小冊子24ページ)

1907 38 3月 「呼吸の再教育の新しい方法の理論と実践」(小冊子24ページ)  後で1918年版のMSIに載る
1908 39 3月 「ディープ・ブリージングの危険性」(数ページのチラシ)

7月 「ディープ・ブリージングと身体鍛錬がなぜ役に立たずに害を及ぼすか」(数ページのチラシ)

12月 「運動感覚システムの再教育」(小冊子14ページ) 1910年のMSIに掲載。1918年版では削除

1909 40 7月 スパイサーは、講演でF.M.のメソッドの内容を自分のものとしてして取り上げる。(これ以降は二人は袂を別つ)

10月 「呼吸とガン」(チラシ)

11月 「なぜわたしたちは間違った呼吸をするか」(チラシ)

1910 41 4月 「運動感覚システムの再教育 補足」(チラシ)
4月 「R.H.スカーネス・スパイサー博士が行ったレクチャーのある前提への反論」(小冊子)

9月 親友のロバート・ヤング亡くなる

10月 「人が受け継いでいる最高のもの」(MSI)出版

1911 42 3月 「人が受け継いでいる最高のもの 補遺」を続いて出す

6月 母ベッツィと妹エイミーがメルボルンを離れロンドンへ  F.M.は、自分のアーミー&ネービーマンションを提供し、教える場所と住居をウェストミンスター寺院の近くにあるアシュリー・プレイスに移す。亡くなるまで、ここで教えたので、F.M.の指導場所としてこの名前は良く使われる。

この頃エセル・ウェッブがF.M.のレッスンを受け、その後彼の秘書として働く。1914年にはアレクサンダー教師としての訓練を終わり、結婚で教師を辞めたアミーの代わりになる。

エセル・ウェッブ(1866-52)
1912 43 初め A.R.と婚約者のグレース、妹の長女アグネスもロンドンに呼ぶ。ロンドン着後にA.R.とグレースは結婚

10月 「意識的なコントロール」を出す

1913 44 F.M.の妹、三女のメイ夫妻ロンドンに移住
1914 45 7月 第一次世界大戦開戦(~1918年11月)

7月 弟のボーモント、ロンドンに来る

8月 F.M.は、親友ロバート・ヤングの死により未亡人となっていたエディスと結婚。 (F.M.45歳 エディス49歳。エディスは、アメリカには一度も同行せず、アシュリー・プレイスに留まった)

9月 初めてアメリカ渡り、ニューヨークで教える。 F.M.はこれ以降1924年まで主にアメリカで教え、夏(4月か5月から9月か10月まで)の期間イギリスで過ごす。(1921年の秋冬期を除く)

1915 46 エセル・ウェブがロンドンから、アメリカに来て指導に加わる。

5月 F.M.がイギリスに戻る(エセル・ウェブはアメリカに残った)

1916 47 初め ジョン・デューイ(アメリカの哲学者・教育学者)が生徒になる
1917 48 春 当時アメリカにいたアイリーニ・タスカーが、アレクサンダー教師訓練を受け始める アイリーニ・タスカー(1887-77)
1918 49 1月「人が受け継いでいる最高のもの」改訂版(MSI)を、「補遺」「意識的コントロール」を加えて出版

冬 A.R.ハイドパークで落馬し、二度と歩けなくなると診断されるほどの大ケガを負う

6月 ペギー(エディスの妹の娘)生まれる(子供の無かったアレクサンダー夫妻は、後にペギーを養女にする)

11月 第一次世界大戦終了

12月 A.R,もアメリカに行き、教えるようになる(その後はF.M.と半年交代で滞在)

1919 50 戦争が終わり、ロンドンでも生徒の数が増える
1920 51
1921 52 秋 F.M.はアメリカに行かずロンドンでの指導とCCCIの執筆に専念する
1922 53 この頃、エディスの甥オーウェン・ヴィカリー(妻ジャック)一家がアシュリー・プレイスで住む

ピーター・マクドナルド医師とその息子パトリックが、レッスンを受ける

秋 F.M.はレビューのためのCCCIの原稿を持って、エセル・ウェブとアイリーン・タスカーとアメリカへ行く

1923 54 2月 母ベッツィ亡くなる

9月 「個人の意識的で建設的なコントロール」(CCCI)出版

1924 55 アイリーニ・タスカーが、アシュリープレイスで少人数の生徒にアレクサンダーレッスンと共に、学校教育を始める。(これがリトル・スクールの始まり
1925 56 ?? ジャック・ビカリーが夫のオーエンと別居し、2人の息子とペンヒルの近くに住む (アレクサンダー夫妻と養女のペギーはペンヒルに住むことになる。ペギーがジャックの息子たちと年齢が近く、エディスは、ジャックを頼りにした)

5月 ペンヒルを購入する
ペンヒルは、ロンドンから15kmほど離れた場所にある80000平方メートルの広大な敷地。東京ドームのグランドの約6倍の大きさ。家付きで庭、農場、馬屋、放牧場があった。 A.R.もペンヒルの近くに大きな家を購入し、二人は毎日アシュリー・プレイスまで汽車で通った

1926 57 7月 リットン卿がレッスンを受け始める
リットン卿は、後の満州事変のリットン調査団の団長
1927 58 フローベル教師養成大学の生徒で、虚弱だったマーガレット・ゴールディが、F.M.のレッスンを受け、健康回復する
1928 59 マーガレット・ゴールディ、リトル・スクールの指導に加わる
1929 60 エディス、F.M.と別居

10月 世界金融大恐慌
F.M.の貯蓄の大部分を占めていたアメリカの株の株価が大暴落 イギリスの生徒数も激減し、義弟ジョージ・メチンの商売も困窮する。 自分の競馬馬を売り、多くの召使を解雇する

1930 61 7月 教育基金(リトル・スクールと教師養成コースのための)を作り、寄付を集める
1931 62 3月 教師養成コースの第一期を開始(8人の生徒でスタート)

6月 ジョン・ヴィカリー(F.M.の子)生まれる

マーガレット・ゴールディ(1905-1997) マージョリー・バーストー(1899-95) レスリー・ウェストフェルト(1898-65) ジョージ・トレビリアン(前教育大臣の息子1906-1966) アイリーニ・スチュワート(1906-90) エリカ・シューマン(後にウィタカー)(1911ー04) ガーニー・マキネス ジーン・マキネス キャサリン・メリック(19000-88)
1932 63 1月 「自分の使い方」(UOS)出版

妹のアグネス(長女)亡くなる

パトリック・マクドナルド(1910-91)
1933 64 妹のエイミーの夫でマージョリー・メチン(バーロー)の父のジョージ・メチン亡くなる

A.R.の妻グレース亡くなる

12月 教師養成コースの生徒による「ベニスの商人」の公演

チャールズ・ニール(1917-58) マージョリー・メチン(後にバーロー)(1915-06)
1934 65 リトル・スクールをアシュリー・プレイスからペンヒルに移す

A.R.アメリカに渡りボストンで教え始める。

8月 ベッドフォード体育大学での講義(講義録がある)

12月 教師養成コースの生徒による「ハムレット」の公演

マックス・アレクサンダー(1916-97)A.R.の息子
1935 66 アイリーン・タスカー、南アフリカに渡り教え始める
リトル・スクールをマーガレット・ゴールディーと共に教えていたアイリーンは、マーガレットと一緒にやって行くことが難しくなった アイリーンが南アフリカで成功して、アレクサンダー・テクニークを学校教育に取り入れようという動きがでたことで、ヨーケルらが反対の動き起こし、それが裁判に発展する11月 オルダス・ハクスリーがレッスンを受け始める
1936 67 第二期の教師養成コースを始める(後の入学者も含めて約20人) イギリスでの第三期は、大戦後の1945年からになる。

9月 タスマニア島に残った父ジョン亡くなる

ウォルター・キャリントン(1915-05)
1937 68
1938 69 初め サー・スタッフォード・クリップスがレッスンを受け始める (後にイギリスの大臣を歴任することないなる有力政治家)

9月 妻のエディスが亡くなる。

エリザベス・ウォーカー(1914-2013)
1939 70 1月 F.M.の70歳の誕生日
イギリスではリットン卿の司会により誕生パーティーが催され、アメリカ、ボストンでは、A.R.とマージョリー・バーストーらが祝った9月3日 第二次世界大戦始まる
ウィルフレッド・バーロー(1915-91)
1940 71 3月 養女のペギー結婚

5月 姪のマージョリー・メチン、ウィルフレッド・バーローと結婚

7月 ドイツから逃れるため、アメリカに向かう  エセルウェッブ、マーガレット・ゴールディ、アイリーニ・スチュワートと、少数のリトル・スクールの生徒が一緒に行く

9月 アシュリー・プレイスが爆撃にあったこともあり、F.M.の代わりに教えていたウォルター・キャリントンとマージョリー・バーローは教室を閉じる

10月 F.M.はニューヨークとボストンで教え始める

12月 F.M.はコグヒル教授を訪れる(コグヒルはUCLに文を寄せている)

1941 72 1月 リトル・スクールをホームステッドに移す

9月 「生きる上で変わらないこと」(UCL)アメリカで出版(イギリスでは翌年2月)

FP.ジョーンズ(1905-1975)
1942 73
1943 74 7月 F.M.とウェブ、ゴールディ、スチュワートはイギリスに戻る
1944 75 3月 南アフリカでエルンスト・ヨーケル博士によってアレクサンダー・テクニークを「いんちき療法」だと批判する43ページの記事が載る(Man Power誌)

7月 F.M.はアシュリー・プレイスで階段から落ちて足首を骨折。ペンヒルで回復を図っている間に、ペンヒルはひどい爆撃を受ける

1945 76 8月 第二次世界大戦終わる

A.R.アメリカからイギリスに戻る

8月 アレクサンダーはジョッケルと出版社に対して、名誉棄損と5000ポンドの損害賠償の訴えを起こす。(これ以降、この裁判はアレクサンダーにとって費用がかかり、精神的な負担になっていく)

1946 77
1947 78 4月 A.R.亡くなる

7月 名誉棄損裁判の証言がイギリスで始まる 6週間に渡って多くの証言が行われる (ヨーケル側には2人のノーベル賞受賞者が含まれていた)

10月 友人のリットン卿が亡くなる

12月 2回の脳卒中を起こし、身体の左側が麻痺

ジョン・スキナー(1912-92)
1948 79 2月 南アフリカのヨハネスブルグで裁判始まり、南アフリカ中の注目を集める。F.M.の代わりにウィルフレッド(ビル)・バーローが行き、原告として証言する

4月 名誉棄損裁判で勝訴の判決がでる ヨーケルらが控訴

6月 バーローらの準備でSTAT(Society of Teachers of the Alexander Technique)設立のための話合いが行われる。 アレクサンダーは、結局はこれを拒否

夏 パトリック・マクドナルドはアレクサンダーと衝突。アシュリー・プレイスを離れイギリス南西部にあるカーディフに行き教える

1949 80 6月 ヨーケルらの控訴は棄却される

11月 聖ダンスタン講義 (草稿が残っている)

12月 バーロー夫妻とアレクサンダーは決裂し、マージョリー・バーローは、その後F.M.に会うことはなかった

12月 クリップスは、チャールズ・ニールに資金援助を行いロンドンのランズドーン・ロードに彼が大規模に教えるための「イソベル・クリップス センター」を作る。ニールの死後、ウォルター・キャリントンが施設を購入し、彼の拠点となる

名誉棄損裁判の費用がかかったのでペンヒルを売却を考える。(規則のために苦労し、実際の売却は1955年になってしまう)

この頃のアレクサンダーをビデオで見ることができる(1949年11月と1950年3月) アレクサンダーは亡くなる直前まで教え続けた

1950 81
1951 82 4月 妹アミー亡くなる

7月 ゴッダード・ビンクリーがF.M.からの個人レッスンを受け始める(彼は1953年5月まで受けた後、教師養成コースに入った) レッスンの記録を書いた当時の日記が出版されている

1952 83 1月 長く秘書を務めたエセル・ウェブ亡くなる

12月 ジョン・デューイ亡くなる

1953 84
1954 85
1955 86 1月 ジャック・ヴィカリー亡くなる
ジャックはアレクサンダーと親しい関係にあったと言われている女性。  アレクサンダーは、晩年、ウィークデイは、マーガレット・ゴールディーと同じフラットに住み、週末はペンヒルでジャックと過ごした。彼女の息子のジョン・ビカリーは、アレクサンダーの子と言われている)3月 ペンヒルの大部分を売却9月末 F.M.は競馬を見に行き悪寒を覚え、その夜に軽い心臓発作を起こす。 回復すると思われたが、10月10日の朝、ベッドで看護婦と話をしながら突然息を引き取る
1956 F.M.の死後、彼が40年教えた場所アシュリープレイスは、17歳下の弟ボーモントが引継ぐ。
ウォルター・キャリントン,マーガレット・ゴールディ,アイリーニ・スチュアート、ジョン・スキナーの4人は、ボーモントと袂を分かち、別にティーチング・センターを作る。 ボーモントはカーディフからパトリック・マクドナルドを呼び寄せ、マクドナルドは1970年までアシュリー・プレイスで教えたこの時点では、次の4ヶ所の拠点で教師養成が行われていた。
1)パトリック・マクドナルド(アシュリー・プレイス) 2)チャールズ・ニール(ランズドーン・ロード)
3)ウォルター・キャリントン、マーガレットゴールディ、ジョン・スキナー、アイリーニ・ステュワート
4)バーロー夫妻
1957
1958 チャールズ・ニール 突然亡くなる
1959
1960 ウィルフレッド(ビル)・バーローはSTATを設立。 やがて、多くのアレクサンダー教師が加わることになる。
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