いま、マーガレット・ゴールディが行ったレッスン記録をいくつか翻訳を行っているところです。
その本の、最初に私が書いたゴールディの紹介文を、今回投稿します。
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マーガレット・ゴールディ(1905-1997)は、フレデリック・マサイアス・.アレクサンダー(通称FM)から直接教えを受けた第一世代の教師の中でも、とても特別な存在です。

彼女は教師になるためにフローベル・インスティチュートに入学しましたが、優秀なのに身体が弱くて教師になる体力がなかったことで、1927年にアレクサンダーからレッスンを受け始めました。それによって身体は改善し、その後、リトル・スクールの指導に加わりました。「リトル・スクール」は、アイリーニ・タスカーが始めていたアレクサンダー・テクニークに基づいて教育を行う生徒が数人という小さな学校です。

1931年にアレクサンダーは、教師養成のためのトレーニング・コースを始めましたが、 彼女はそのトレーニーの一人として加わっています。しかし、すでにその前から彼女はトレーニングを受けていたために、他のトレーニーとは違った存在でした。1904年にアレクサンダーがロンドンに渡って以来、そのような徒弟制度的な訓練を受けたのは、ずっと秘書も務めたエセル・ウェッブと、アイリーニ・タスカー(2人は1910年代からアレクサンダーの補助を行っています)に次いで3人目です。それ以降はそのように訓練された人はいません。第1期の教師養成コースのトレーニーだったエリカ・ウィタカーが言っているように、ゴールディは当時、トレーニング・コースに自由に出入りできる特別な存在で、すでに「アレクサンダー・ファミリー」の一員だったのです。ちなみに、その3人とトレーニング・コースの修了者以外で教師として重要な役割を果たしたのは、オーストラリア時代に訓練を受けたFMの弟のアルバート・レデン・アレクサンダー(通称AR)だけです(FMの妹のエイミーも、オーストラリアで訓練を受けて補助を行いました。FMの後を追ってロンドンに渡ってからも、しばらくはそれを続けましたが、結婚してからは教えることをやめています。エイミーは、有名なアレクサンダー教師のマージョリー・バーローの母親です)。

第1期のトレーニング・コースだけの特徴的な訓練内容として、その3年目と4年目に行ったシェイクスピア劇の上演があります。ゴールディは、1933年の「ベニスの商人」ではポーシャを、翌1934年の「ハムレット」ではオフィーリアを演じていて、女性としての一番重要なキャラクター(もちろんどちらの劇も主役はアレクサンダーでした)が割り振られていたことは、アレクサンダーが彼女をどう評価していたかが分るような気がします。

リトル・スクールでは、ゴールディは子供たちから怖れられていて、その厳しい教え方についてはマージョリー・バーローらが後で批判しています。しかし、アレクサンダーは、「彼女を良い教師だ。」と言っています。それが、子供たちの先生としてなのか、アレクサンダー教師としてなのか、またその両方を言っているのかは、不明ですが。

1924年に始まったリトル・スクールは、最初は生徒が数人しかいなかったので、アレクサンダーが借りて教えていたアシュリ・プレイスと呼ばれていた所の中にありました、1934年に、人数が少し増えたこともあって、ロンドンから汽車で1時間ほど離れたペンヒル――アレクサンダーが1925年に買って住んでいた、農園のある大きな地所です――に、全寮制として引っ越しました。その数ヶ月後に、アイリーニ・タスカーはゴールディとの関係が悪くなり、リトル・スクールをやめて、南アフリカに移住し、そこでテクニークを教えました。(タスカーは、そこで教育分野にアレクサンダー・テクニークを取り入れることに尽力して、南アフリカの教育界から高い評価を得ました。彼女が南アフリカで教え始めた10年後には、学校教育にアレクサンダー・テクニークを取り入れようとする動きが高まったほどです。しかし、それは、懸念した教育省体育担当のヨーケルが政府広報誌にテクニークの批判記事を載せる、という事態を招きます。1945年のことですが、その記事に対して、アレクサンダーは1946年に名誉毀損訴訟を起しました。それは当初の予想以上に混迷して、アレクンサンダーに脳卒中を起こさせたといわれるまでに、70代後半の彼に大きな負担になりました。)

タスカーが去った後、ゴールディはリトル・スクールの主担当して指導を続けています。リトル・スクールは本当に小さなもので、多くても生徒は10人を少し超える程度でした。第二次世界大戦が始まり(1939年)、1941年には、アレクサンダーとリトル・スクールは、アメリカに疎開しています。一緒に行ったのは、ゴールディとエセル・ウェッブとアイリーン・スチュワートです(アイリーン・スチュワートはフローベル・インスティチュートのゴールディの同級生で、第一教師トレーニング・コースのトレーニーとしても一緒に学び、テクニークを教え、リトル・スクールも手伝っていました。)

アレクサンダーの晩年(少なくとも脳卒中で倒れた1947年から亡くなる1955年まで)は、ゴールディはアパートの彼と同じフラットに住んでいたので、彼の面倒をみていたことでしょう。

アレクサンダーが亡くなったときに、葬儀を取り仕切ったのもゴールディでした。 この本の中にもあるように、アレクサンダーの遺灰は彼女とアイリーン・スチュワートがどこかに散骨しました。

彼女の映像は、Mouritzが出している「F.M.Alexander1949-50 DVD」で見ることができます。このDVDでは、マージョリー・バーストーが持って行ったビデオで撮影したもの(1931年のトレーニング・コースとリトル・スクールなどの様子)と、1949年と1950年に撮ったアレクンサンダー自身がワークを行っている様子を見ることができます。どちらにもゴールディは映っていて、彼女が若い頃にどのようだったかを見ることができます(26歳頃のゴールディは、「厳しい」という印象はありません。ポーシャやオフィーリア役も似合っているように見えます。DVDについている解説の写真の一つに、ゴールディだと書いているものがありますが、それは間違いで、その写真はおそらくジーン・マキネスです。)。その1949年のビデオは短いですが、脳卒中から回復したアレクサンダーが、ゴールディにチェア・ワークを行っています。

ゴールディの写真として、その前の第二次大戦中のアメリカ滞在中に、アレクサンダーからワークを受けているものも残っています。

晩年のゴールディは写真も映像も嫌っていたので、これらは貴重です。

アレクサンダーが1955年に亡くなった後、しばらくゴールディは、ウォルター・キャリントン、 アイリーン・スチュアート、ジョン・スキナーのグループと一緒に教えました。 キャリントンが怪我でしばらく教えられなくなったときには、代わりに教えていた、とゴッダード・ビンクリーが「エクスパンディグ・セルフ [Expanding Self]」に書いています。彼女は、グループレッスンを嫌っていたので、そのときも個人レッスンをトレーニーに対して行ったようです。

彼女の晩年のレッスンについては、次の主な3つの情報源があります。

(1)STATのチェアを務めたジョン・ハンター によるもの

(2)ペネロープ・イーストンによるもの

(3)フィオナ・ロブによるもの

これらの内容が示す通り、ゴールディはイギリスの主流3派(ウォルター・キャリントン、パトリック・マクドナルド、マージョリー・バーロー)の教え方を良いとは思っていませんでした。

ちなみに、ジョン・ハンターとペネローピ・イーストンは、マクドナル系のトレーニングを修了した後にゴールディからのレッスンを受けたし、フィオナ・ロブはレッスンを受け始めたときにキャリントン系のスクールで学んでいました。

ゴールディがアレクサンダーの教え方をとても最も深く学んでいたし、アレクサンダーの教え方をとても尊敬していて、それを伝えたいと思っていたことは確かです。晩年のレッスンの記録はその現れで、特にアレクサンダーが到達した晩年の教え方(実際にどう教えたかは、ビンクリーの「エクスパンディング・セルフ」で知ることができます。)を理解するうえで、とても重要です。