BodyChanceのプロコースで教えるアレクサンダー・テクニーク教師ヤスヒロ(石田 康裕)のページです。テクニークの歴史や役立ち情報など多くを載せています。教育分野(学校の先生など)での応用にも力を入れています。ヤスヒロは、埼玉・東京でのレッスン、出張レッスンを行っています。機械工学修士で27年間、高校で教えました。

CCCI「模倣」

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「個人の建設的で意識的なコントロール」 F.M.アレクサンダー 1923年出版

第三部 二章「模倣」をヤスヒロ訳で載せます。

1 模倣と呼ばれる心身的なプロセスは、ほとんどの人の場合で、他の基本的なプロセスよりも、より強く働いているように見えます。人がこの才能を持っていて、他の人の特徴を無意識に真似ることが、成長と発達と、個人の心身的な自分の使い方に大きな影響を及ぼすことを、わたしたち誰もが知っています。模倣は生まれつきの才能で、わたしたちは、それを使う無意識的な傾向を持っていることに加えて、模倣から悪い結果が起こることについても、圧倒的な証拠が出てこようとしています。文明化の中でこの生まれつきの才能を使うときに、がっかりする結果が起こる主な原因を、これから考えます。

2 この本は、心身的な人の組織体の欠陥や特異性、不完全な使い方、などを扱っています。そして、大多数の人が、程度の差こそあれそれらの欠陥を持っていて、ある人たちの欠陥のいくつかはひどくなり、人の奇形状態と呼ぶまでになっていることを、主張しています。このことに、模倣の後で、落胆させる有害な結果が起こる原因があります。それは、模倣のプロセスは、模倣しようとする目立つものが無いと始まらないからです。模倣が起こる主な刺激は、他の人の何かの特性や目立った特徴を、無意識的または意識的に知覚することですが、そのような特徴は概して、心身的な欠陥や特異性の表れです。現代生活の全ての領域で、個人が他の人の欠陥や特異性を模倣する危険性は非常に高いので、その危険を無くすか少なくとも最小限にすることは、学ぶことや、何かをすることを学ぶときの、全ての活動に最も重要で、それは特に、生徒が先生に教わるときに――例えば、教室や体育館で――それが言えます。しかし、実際には、先生と生徒が近くで接するときはどこでも、その模倣のプロセスが働こうとします。

3 学校のほとんどの子供は、自分の使い方の欠陥を生活の普通の活動で見せていて――多くの場合で、それはとても重大な欠陥です――、その欠陥を無くそうとして、いろいろな鍛錬や矯正エクササイズが行われています。しかし、とても稀な場合を除いて、その改善や他の分野を学校で教える先生たちこそ、余りにもしばしば同じか、別の欠陥や特異性が大きくさせていて、それに悩まされているのです。先生がその名前に値するのなら、生徒は多くの点で影響を受け、ほとんどの生徒は、潜在意識的に先生の真似をするでしょう。すでに指摘したように、それらの先生の最も目立った特徴は、生徒の模倣のプロセスへの強い潜在的な刺激になります。例えば、声の質、口の開け方、腕の使い方、欠陥のある言い方、発声、立ったり・歩いたり・座っているときの人の組織体のさまざまな部分の使い方、など――実際は、先生の目立った特性として現れている欠陥や特異性の全て――は、生徒に模倣を起こさせる、最も強力な潜在的刺激になります。このことが深刻な影響を及ぼすことを知れば、欠陥と特異性を持つ全ての先生は、感覚認識が信頼できなくなり心身的な人の組織体を悪く使っていることで、生徒にとって悪い手本――大きな危険――だと確信できるでしょう。模倣により欠陥と異常性を得てしまう、という阻害の要因により、生徒と先生の両方は、良い心身的な結果を得ることができなくなります。

4 学習の分野が何であれ、潜在意識を基にした方法で行っている場合には、「先生がうまく行うのを見れば、生徒はそれを真似して、同じようにうまくやれる」と、生徒も先生も誤って思い込んでいる、ということが分ります。生徒は完全にそれを確信しているし、先生は、彼(先生)が自分で行っていると思っている [1]ように生徒に行うことを教えれば、生徒に成功させることができる、と疑いなく信じているのです。

5 しかしながら良くあるように、何かのアートを学んでいる生徒が、学びの助けになるように偉大なアーチストの所に行きその様子を観察するとき、彼はアーチストの『良い点』[2] よりも欠点と考えられる特徴に。より強い印象をいつも持ってしまうことを、わたしたちのほとんどが知っています。

6 それらの特徴を、生徒は自分の上達に役立つ本質的なものと思いますが、この思い込みが誤りだと、経験は常に示しています。何よりも、その特徴は、そのアーチストの天賦の才能があるから克服できた欠点、なのかもしれません。芸術家は、その特徴のために成功しているのではなく、それにもかかわらず成功しているのかもしれないのです [3]。模倣しようと思う特徴が、たとえ価値がある場合も、生徒がそれらの特徴を実際に使うためには、最初に、真似しようとする人の、人の組織体の全般的な使い方を調べることが必要です。――真似しようとする特徴は、全般的な使い方の個別の現れに過ぎません。次に、良くも悪くも、彼という組織体の全般的な使い方を、真似したいと思う専門家のレベルまで高めるように、自分自身を再教育する必要があります。

[1] のどの障害のために、公の舞台から引退を余儀なくされて、歌の先生になった歌手の例を取り上げましょう。その原因で引退した、2つの事例を思い出すことができます。引退の前に、声を出そうと努力する様子を何度か見ましたが、預言者にならなくても、引退するだろう、と思うには十分でした。緊張や喉頭のずれ [larynx displacement]、胸や腹部の歪みによる酷使に、のどとその関係部分が長時間耐え続けることは、どんな人にとっても不可能です。これは心身的なメカニズムの使い方が不完全なことから生じているのですが、それらの個別の部分を普通の状態にするためには、その使い方が良くなくてはいけません。この同じ人が、教えようとするときには、彼らは、その信じている歌い方や呼吸の方法を、できる限り生徒に伝えようとします。彼らは、それが正しいと、信じていることでしょう。なぜなら、彼らが歌を学んでいたときに使っていた方法でしたし、教え始めるまで練習し続けた方法だからです。まさにその練習を忠実に行うことで声を失った、という事実は、2人の意識にはのぼりませんでした。そうでなければ、なぜ、自分に大きな障害をもたらした方法を、他の人に敢えて伝えようとする、などということができるのでしょう。人が自己催眠の能力を持つことを、このような人間の愚かさほど、明らかにするものはありません。

[2]  【訳注】この言葉に『』があるのは、シェークスピア「ジュリアス・シーザー」の、Caesar’s better parts shall be crowned in Brutus! が念頭にあるからだと思われます。

[3] 残念ながらこの傾向は、学習に関わる全ての分野で見られます。例として、球技で、この点を見て見ましょう。S.H.スミスは、テニスの試合で、かがみこんで強いドライブ・ショットを打っていました。ゴアは、フォアハンドのドライブ・ショットで、ドエトリはグリップを変えないことで有名でした、などなど。これらの特徴を、上達を目指す他のプレーヤーが真似しましたが、ここでも、経験は常に、それらの考えが間違いだと示しています。この理由は上に述べた通りです。

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