アイリーニ・タスカーについての3回目です。
タスカーは身体の不調があったわけではなく、アレクサンダーの秘書のエセル・ウェッブから話を聞き、本を読んで「意識的なコントロール」に感銘したことから、アレクサンダーからレッスンを受けました。
その後自分が教えていた手に負えない児童が、冬の間アレクサンダーからのレッスンを受けて性格が変わったことで、このテクニークの深い価値を知り、それをアレクサンダーへの手紙に書きました。
それを読んだアレクサンダーが、助手にならないかと言ってきたことで、彼女のアレクサンダー教師としての人生が始まりました。
その1917年にタスカーは訓練を受け始めたわけですが、助手をしながら見よう見まねで学ぶ徒弟制度的な訓練でした。
しかも、助手になった年は、アレクサンダーすぐにイギリスに帰ってしまったので(彼は当時、イギリスとアメリカを半年ずつ行き来していました)、主に「インヒビション」を使って児童を教えています。
(それが、実生活の中でテクニークを学ぶ彼女の「アプリケーション・ワーク」の始まりと言えます)
彼女はまた14年後の1931年に始まった教師養成コースにもときどき出席しました。教師養成コースの第一期生が修了した1933年12月には、彼女も一緒に正式な修了証書はもらっています。その証書の次の文章は、興味深い文です。
アイリーニ・グレース・タスカーが、私の教師養成コースで3年間の訓練を修了したことと、私の「人が受け継いでいる最高のもの」「個人の建設的で意識的なコントロール」「自分に使い方」に記したテクニークを教える資格があることを認めます。
F.マサイアス アレクサンダー 1933年12月
ロンドン、南西1,ウェストミンスター
アシュリ・プレイス16番地
その後、南アフリカに移住した後も、タスカーは時々長期でイギリスに戻って来て、卒業生のためのクラスに出席したり、F.M.アレクサンダーからの個人レッスンを受けたりしました。
それらのクラスやレッスンのタスカーのノートが残っています。
(今回作った「アイリーニ・タスカーとリトル・スクール」の訳書で、55ページほどになります)
これがとても貴重なのは、他に見ることができない情報が多くあるからです。アレクサンダーが言った言葉が随所に見られて、彼の言葉の宝庫になっています。
特に教師養成コースを始めた当初のアレクサンダーの教え方の詳細な記述は、他には見られません。これを読むとアレクサンダーが単純にデモンストレーションだけを行っていたわけではなく、いろいろと考えていたことが分ります。