第二次大戦中のアレクサンダーのアメリカ滞在

開戦(1939年)から1年後に、ドイツ軍のイギリス本土への侵攻が懸念されたことから、アレクサンダーはリトルスルールの子供たちとアメリカに避難しました。
一緒に行ったのは、秘書のエセル・ウェッブと、リトル・スクールの責任者マーガレット・ゴールディーと、アシスタント教師のアイリーン・スチュワートです。

彼は3年間のアメリカの滞在中に、個人レッスンを行い、教師養成も開始してF.P.ジョーンズなどを訓練しました。

フランク・ハンドとグレース・ハンドの日記

これも前に照会した「賢者の石」に中にあり、13頁と短いものです。ハンド親子はアレクサンダーのアメリカ滞在中の1942年にレッスンを受けました。
この記録は、前回のエヴァ・ウェブのアシスタント教師からのものとは異なり、主にアレクサンダーからのレッスンの記録になっています。
息子のフランクが先にレッスンを受け、後に母親のグレースが受けました。

アレクサンダーのレッスン記録としては、その後の1950年代初めゴッダード・ビンクリーがありますが、ビンクリーは既にアメリカでレッスンを一年受けていて、教師養成コースに入ることを念頭に置いて渡英していました。

ハンドはそのような予備知識はなかったので、内容はかなり異なります。フランクは政府弁護士でした。
当時アレクサンダーは73歳、最後の4冊目の本「生きている上で変わらないもの」も既に出版していました。
フランクは、仕事でニューヨーク滞在していたときにレッスンを受けていて、記録はホテルで書いています。
その間に、アレクサンダーは2日に一回のペースでフランクと夕食を共にしていて、彼の前でシェークスピアを朗読もやったことがあったそうです。
フランクが気にいられていたことが伺えます。

この時期のアレクサンダーの教え方

この日記は、フランクの初回から5回のレッスンの詳細といえる記録と、グレースによる初回から19回分の短い記録になっています。
大戦中の疎開先で教えるという特殊な状況なので、それほど生徒が多いわけではなかったことでしょう。

普段は30分というレッスン時間も、このときは厳密ではなく、フランク・ハンドの3回目のレッスンは55分も行っていて、アレクサンダーがとてもフレキシブルだったことが伺えます。

フランクは、1回目のレッスン記録を2頁半ほど書いています。
ワークの内容はチェアでしたが、 それと共に、この初回で既に適切な呼吸はどうかをアレクサンダー自身がデモンストレーションして、呼吸についての説明しも行ています。
フランクは、 初回のレッスンの間中、アレクサンダーは続けていたと書いてあり、その内容も書いています。

この日記も、他の資料には見られないアレクサンダーの直接の言葉を知ることができますが、特にイスに座って行う前傾、後傾の動きについて何度も書いていて、詳しい情報を得ることができます。

グレースの日記からは、レッスンの大まかな流れを知ることができます。