現在のアレクサンダー・テクニーク界は、主流となっている幾つかの系統があります。

イギリスの主なものは、キャリントン派、マクドナルド派、バーロー派の3つです。アメリカでは、ルーリー・ウェストフェルトの流れのACATの系統と、バーストー派があります。
時を経るにつれて、複数の系統を経験している教師が増え、多様性が増しているので、以前ほど系統へのこだわりは少なくなってきているとは言えます。
それでも教師になるためのトレーニングはそれぞれで異なるので、アレクサンダー教師を判断するときには、どの系統かはその教師を判断するときの参考になります。

最初に挙げた人たちは全てアレクサンダーから直接トレーニングを受けた第1世代の教師で、1931年に始まった教師養成コースの第1期と第2期の生徒でした。

F.M.自身が行った教師養成でも第1期が10人ほどだったように、これらの系統の教師養成でも人数が何十人というわけではなく、ときには数人ということがあったようです。

1.F.M.のトレーニング・スクールを受け継いだウォルター・キャリントン

キャリントンは、1934年(19歳)に彼の高校の校長エイノン・スミス(彼も後には、レッスンを受け支持者になります)からF.M.の事を聞き、寝たきりの母親がレッスン受けることができるようにしました。
母親は目覚ましく改善し、キャリントンはオックスフォード大に進むかトレーニングを受けるかの選択でトレーニングを選び、第2期の1936年から始めています。

1939年7月に修了し、その後1941年3月までアシュリー・プレイスで教えたあと、召集され空軍のパイロットになりました。

彼は、1944年にハンガリー上空で飛行機が撃墜され、骨盤骨折などの大けがを負い捕虜になりますが、なんとか脱出しています。
1946年3月には除隊になり、アシュリー・プレイスに戻りました。

彼は1948年からはオックスフォードで教えていましたが、1952年にF.M.からトレーニング・コースを助けてくれないかと頼まれました。

アシュリー・プレイスに戻り教え始めましたが、徐々にその比重は増え、1954年と1955年にはF.M.はキャリントンにほぼ全て任せています。

1955年のF.M.の死後、遺産と彼が教えていたアシュリー・プレイスの賃貸権はアレクサンダーの末弟のボーモントが譲り受けました。
ボーモントのその後の案にキャリントンらは従わなかったため、1956年3月には彼らは、アシュリー・プレイスを出るように言われて、別の場所で教え始めました。

その後キャリントン夫妻(奥さんになったディリスは、1955年から訓練を受けていました)先生になっていた)は、チャールズ・ニールが教えていた場所(ランズダウン・ロード)に移り、その後そこで教え続けます。

チャールズ・ニールは、第1期のトレーニングコースにいた生徒で自分の学校を作っていましたが、1958年に亡くなっています。

キャリントンは、第1世代の教師として最も多くのアレクサンダー教師を育成しました。

2.アシュリー・プレイスを引き継いだパトリック・マクドナルド

マクドナルドの父親、ピーター・マクドナルド医師は英国医師協会の会長まで勤めた人で、F.M.アレクサンダーの熱心な支援者でした。

パトリックは小さい頃からアレクサンダーのレッスンを受けていて、ケンブリッジ大を終えた1932年に第1期の教師養成コースに加わりました。

1947年12月にF.M.が脳卒中で倒れたときには、パトリックが中心になってトレーニングコースを教えています。

彼は、1948年からイギリスのカルディフで教えていましたが。1955年にボーモントに呼ばれて、アシュリー・プレイスに戻って教えることになり、賃貸期限が切れるまで教え続けました。
それが終わり、1970年にはアシュリー・プレイスの建物は壊されています。

3.STATを作ったバーロー夫妻

 F.M.アレクサンダーの姪マージョリー・メチンは、第1期の教師養成コースに1933年に加わりました。

彼女は第2期で1939年からトレーニングを始めた医師のウィルフレッド・バーローと1940年に結婚しています。

ウィルフレッド・バーローは医師でしたし、脳卒中で倒れたアレクサンダーの代理として、1948年には南アフリカでの名誉棄損裁判で証言を行ったりもしているので、後継のプリンスと見なされていました。

ウィルフレッド・バーローは、1948にSTAT(Society of Teachers of Alexander Technique アレクサンダー・テクニーク教師協会)を企画しましたが、F.M.はそれに賛成しませんでした。

バーロー夫婦はそのことで1949年12月にF.M.と衝突して決別しています。
F.M.と親しかったマージョリーは、残念ながら、その後彼が亡くなるまで会うことはありませんでした。

彼らは訓練コースを立ち上げましたが、ウィルフレッド・バーローは医師で忙しく、彼らの学校を主に教えたのはマージョリーの方でした。
その学校は、敢えて作ったというよりは、生徒からの要請を受けてできたものでした。

彼女は、F.M.の姪として、その教えをできるだけ受け継ごうとしました。

ウィルフレッド・バーローは、F.M.の死後1956年にSTATを立ち上げ、数年後にはイギリスのほぼ全ての先生やサポ―ターが加わることになりました。

4.ACAT(The American Center for the Alexander Technique)

 ACATはジュディス・レイボヴィッツがニューヨークに作った組織で学校です。
ジュディスは過去に小児麻痺を患い、歩行が困難でしたが、ルーリー・ウェストフェルトのレッスンを受け、かなり改善しています。
その後ルーリーから教師になるためのトレーニングを受けました。
彼女は、教師になった後に2回、イギリスに行き直接F.M.アレクサンダーの個人レッスンを受けています。

 ジュディスが中心になって1984年にACATが設立され、1986年から教師養成を行いました。
アメリカではACATの教師たちが主流とも言えます。

5.アクティビティ・ワークとグル―プ・ワークを始めたマージョリー・バーストー

 第1期教師養成の生徒のバーストーは、訓練の3年後に、彼女が受け継いだ農場のあるアメリカのネバラスカに戻りました。
彼女は、訓練を始める前にはダンスの大学を卒業しています。

冬の間は、ボストンで教えていたA.R.の所で助手を務めました。
その関係から、第二次大戦中にアメリカで訓練を受けた、フランク・ピアス・ジョーンズともつながりがあります。

彼女の方法が、BodyChanceの教え方のもとになっています。

 

■2019年10月14日(月、祝)池袋レクチャー第5回

池袋レクチャー第5回第1世代の教師を知る&アイリーン・タスカー」を、10月14日10:00~行います。
このブログで触れた内容を深め、第1世代教師の代表的な著作も紹介します。さらに、1917年から長期に渡ってF.M.を助け、アレクサンダー・テクニークを教育に取り入れたり、「アクティビティ・ワーク」の大元といえる「アプリケーション・ワーク」を始めたアイリーン・タスカーを取り上げます。

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