前回書いたように、アレクサンダーの晩年は大きな負担になった名誉毀損裁判がありましたが、その上親しい人たちの死別と親しい弟子たちとのケンカ別れがありました

親しい人たちとの死別

すでに紹介したようにF.M.より5歳若く、ずっと彼とワークを教えてきた弟のA.R.は1947年に亡くなっていましたし、10歳若い妹のエイミー(マージョリー・バーローの母親)も1951年亡くなり、兄弟で残っているのは17歳若い末弟のボーモンドだけになっていました。

1910年代以降ずっと支え続けてきたエセル・ウエッブも1952年に、さらには内縁の妻といえるジャック・ヴィカリーも1955年(F.M.が亡くなる年)1月に60代の若さで亡くなり、支えてくれた女性たちを失っています。

F.M.は、アシュリー・プレイスで教えるウィークデイは、近くのアパート(日本でいえばマンション)でマーガレット・ゴールディーと同じフラットで生活していました。そのため、彼の葬式に際しても彼女が中心になって行われたようです。

弟子たちとのケンカ別れ

第1期の教師養成コースの生徒で、アレクサンダー界の大きな一派を作ることになるパトリック・マクドナルド(彼はケンブリッジ大卒業で、父親はF.M.を強力に支援していたピーター・マクドナルド博士で、英国医師会会長も務めています)は、アシュリー・プレイスでF.M.のもとで教えていました。

彼は1948年にF.M.と衝突し、ロンドンを離れカーディフに行き自身の業務を始めました。

姪でお気に入りのマージョリー・バーローとも決別しています。
名誉毀損裁判では脳卒中で倒れた F.M. の代わりに南アフリカに行き大きな功績を果たしたウィルフレッドバーローが、アレクサンダー・テクニーク教師協会(STAT)を作ろうとしました。
その途中で F.M. と意見が合わなくなり、1949年の年末の会合でバーロー夫妻は彼の衝突し部屋を飛び出す事態になり、それ以降マージョリーは、FM が亡くなるまで会うことはありませんでした。

アレクサンダーの死と、その後の混乱

1947年末の脳卒中、1949年まで続いて名誉棄損裁判がありましたが、F.M.は第二次大戦後の1945年9月に再開したトレーニングコースを基本的には教え続けました。

しかし、1952年にはウォルター・キャリントンをオックスフォードから呼び寄せ、徐々にトレーニング・コースを彼に任せ、F.M.の最後の2年間は、ほとんどトレーニング・コースを教えることはありませんでした。

F.M.は、個人レッスンをずっと続けましたが、1955年の9月末にF.M,は競馬大会に行き風邪気味になった後で、夕食でやや消化不良を起こし、夜に軽い心臓発作を起こしました。
2週間ほど休み、周囲が回復すると思っていたのに、10月10日の朝看護師と会話をしている途中で突然なくなりました。86歳でした。
彼の葬式はセレモニーのない簡素なもので、彼は墓石や記念碑を望みませんでした。

彼の死後の直後は、ウォルター・キャリントンが教師養成コースを引き続き教えましたが、F.M.の遺産を引き継いだ彼の末弟のボーモントは、彼の意に添わなかった彼らを追い出し、代わりにパトリック・マクドナルドにその後を任せました。

その後もボーモントは、キャリントンらを教えることができないように訴えるなど、アレクサンダー界を混乱させました。

 

4月29日(月、祝)の池袋レクチャー「アレクサンダーの生涯とその教え方の変遷」第3回では、アレクササンダーの晩年を扱います。

資料として、この時期の個人レッスンの記録(ゴッダート・ビンクリーの著書から1951年のレッスン記録、ルイス・モーガンの著書から1952年の一般人へのレッスン記録)の抜粋などを添付します

興味のある方は、ご参加下さい。
4月28日(日)まで申し込みを受け付けています。

 

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