アレクサンダーは、15歳から約2年間を補助教員として教えていたし、教育者のデューイとの交流もあって、教育に深い関心を持っていました。
彼のアレクサンダー・テクニークは、何よりも子供たちを教育するためものだと、2冊目の本「個人の建設的で意識的なコントロール」に書いています。

その機会は1924年に訪れました。
助手のアイリーン・タスカーが、精神的な障害を持つ一人の男の子に対して、テクニークも教えながら、学校教育を教えたいと申し出たことで始まります。

アレクサンダーが教えていたアシュリー・プレイスで、それは始まりましたが、まもなく他の生徒も受け入れるようになります。
だいたいは6人から8人の生徒がいて、主に何かのハンディキャップや学習遅延を持つ生徒たちでした。
この小人数の学校が「リトル・スクール」と呼ばれるようになった学校です。

アレクサンダーの助手を務めていたアイリーン・タスカーは、その前にすでに教員としての経験を持っていました。
ケンブリッジ大学で古典(ラテン語やギリシャ語の)を学び、1910年に卒業したアイリーンは、教員としてのポストがなかったために、最初の2年間は、年齢の異なる小人数の生徒が集まる「ホームスクール」で教えました。
その後1912年には、モンテソッリー・メソッドを学びにイタリアに行き(そのときにアレクサンダーの秘書のエセル・ウェブと出会ったことが、彼女がテクニークを知るきっかけでした)、その後イギリスに戻り、それを教える教師になっています。
それは第一次世界大戦で中断しました。

その後アイリーンは、モンテソッリーを教える誘いを受けアメリカに渡りましたが、そこでアレクサンダーと再び出会い、彼のワークの生徒のへの効果に感銘を受け、助手になることを決めています。

アイリーン・タスカ―の豊かな経験もあって、「リトル・スクール」は成功を収め、生徒の保護者から感謝されるようなります。
後にそこを訪れたデューイが、「自分もそこで子供の頃学びたかった」と言っていますから、内容が充実していたことでしょう。

リトル・スクールのスタッフとしては、1929年にマーガレット・ゴールディーが加わっています。

アレクサンダーは教師養成のトレーニング・コース(1931年開始)と、この「リトル・スクール」の融合を考えていて、1年のトレーニングの後で、トレーニーは交替で「リトル・スクール」で教えました。

大きな転換は、「リトル・スクール」が寄宿制になったことです。
アシュリー・プレイスから、ペンヒルというロンドンから少し離れた所にある、アレクサンダーが購入して住んでいた古い大きな屋敷に、1934年に移りました。

それだけでなく、このときタスカ―は、マーガレット・ゴールディーとやっていけないと感じ、ペンヒルに移って数か月で辞職をしたのです。

その後、「リトル・スクール」はずっとゴールディーが主に教えました。
(タスカ―はその後、南アフリカに渡りワークを教え、それに成功し、南アフリカの体育教育に取り上げようとする動きさえ出るくらいでした。それが南アフリカの政府担当者からの批判を受けることになり、1940年代後半のアレクサンダーの大きな出来事の「名誉毀損裁判」につながります。)

こう書いてくると、「リトル・スクール」はアレクサンダーはそれほど関係がないようですが、彼は大の子供好きでした。
アシュリー・プレイスでも良く教室に入っていき、レッスンをしたようですし、学校がペンヒルに移ってからは、週末を子供たちと一緒に過ごしたりしています。

第二次世界大戦が始まり、 アレクサンダーがアメリカに渡ったときに、マーガレット・ゴールディーを始め、リトル・スクールの生徒たちもアメリカに一緒に行き学校は続きました。

それ以降、第二次世界戦後は途絶えました。

※2月11日(月、祝日)のレクチャーでは、これらの内容についても扱います。
興味のある方はぜひご参加ください。
 「アレクサンダーの生涯とその教え方(2回目)」

 

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