1931年に始めた教師養成コースの内容

アレクサンダー(FM)が、どのようにトレーニングコースを教えていたか、生徒達はどのように学んでいたかを、当時の生徒たちが書いたものから紹介します。
1931年の第1期の生徒のレスリー・ウェストフェルト、第2期と考えられる1936年に始めたウォルター・キャリントン、その次と考えられる第二次大戦(1945年終結)後の1946年にトレーニングを始めたペギー・ウィリアムスの記述です。
教え方が変わっていることがわかります。

■ルーリー・ウェストフェルト(1931年にトレーニングを開始)

「養成コースのクラスは週5日間あり、1年の9ヵ月でした。
FMは10時から12時までわたしたちにワークしました。弟のARも、アメリカに1933年に行くまでは良くわたしたちにワークしてくれました。
1つのクラスは2時間です。 生徒が7人のときも12人のときでも、先生が1人でも2人でもそれは変わらないので、一人がワークを受ける時間は、15分から30分でした。

わたしたちは円を作り、FMは、それを回りながら一人ずつ全員にワークます。
生徒は、考え(すなわち「指示(オーダー)」)を順番に自分に与えることで、頭―首―背中のパターンが機能するようにします。 FMは手を生徒の上に置きますが、それはとても繊細で微妙で、それが生徒の首を自由にし、頭を前へ上へと行くように、背中が長く広くなるように持っていきます。
生徒の考え、と先生の手が一緒に働くことで、頭―首-背中の新しいパターンが確立されます。
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頭―首―背中のパターンが確立されたら、簡単な日常の動きを行います。 歩いたり、座ったり、立ち上がったり、座りながら股関節で胴体を前や後ろに傾ける動きなどです。
行っていることの中で、頭―首―背中のパターンを維持するためには、FMのインヒビション(抑制)を使わなくてはなりません。

午前のFMとのセッションはもちろん一番重要な時間ですが、午後にも3から4時間、わたしたちは自分たちで学びました。そのときには、お互いに手を使ったりしています。
FMに時間があり――それは月に1,2回でした――、わたしたちが困っているときは、彼はしばらく立ち寄って、解決しようとしてくれました。」
(Lulie Westfeldt「 F. Matthias Alexander The Man and his Work」)

■ウォルター・キャリントン(1936年にトレーニングを開始)

「わたしがトレーニングをスタートしたときは、アレクサンダーとのクラスは午後でした。
だいたいはこう行われます。まず、開始時間にわたしたちはアシュリー・プレイスの教室の部屋に集まり、イスやスツールに座っています。
FMが入ってきて――彼はだいたい時間に正確でした――、それぞれの生徒に順番にワーク(ターン)します――彼はイスに座らせたり、そこから立たせたり、「モンキー」の姿勢にさせたり、「ウィスパード・アー」をさせたりしました。
補助の先生がいるときは、彼らもFMにならってワークをします。
1時間位したら、その日はそれで終わりです。
FMがワークして回っているときには、いろいろな内容についての会話を行います。
生徒たちは、単調になることを防ぐために、何か話が始まるようにしたものでした。
FMがそれぞれにターンを行っているときに、テクニークの内容で必要なことがでてくると、彼はデモンストレーションし、説明を行います。
当時、生徒が誰かにハンズ・オンすることは、あり得ませんでした。
何年かトレーニングを受けた後でなければハンズ・オンは行えない、と考えていたのです。
そのため多くの生徒は、「モンキー」になり、手をイスの背に置く(ハンズ・オン・バック・オブ・ザ・チェア)を行い、「ウィスパード・アー」を行い、ライング・ダウンなどをしました。

わたしがトレーニングを始めた1936年から1939年は、誰もがそうですが、戦争の危険を感じていて、FMも何かを計画することは困難でした。
FMが1945年にトレーニングを再開したとき、数人の補助の先生がいたので、授業時間以外にもワークを行い、トレーニングコースの内容がより充実しました。
1947年の12月にFMは脳卒中を起こし、しばらくはワークできなかったのでトレーニングは、パット(パトリック・マクドナルド)とわたしたちに任されました。」
(Walter Carrington 「Personally speaking」)

■ペギー・ウィリアムズ(1947年9月にトレーニングを開始)

「1週間に5日間、午前11:30から午後の1時までと、2時から3時間でした。
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トレーニングは苦痛でした。ひどい腰痛が良く起こり、ともて緊張し疲れると感じました。
ウォルター(キャリントン)がとても助けになっていのたですが、それは彼がいつも慰めを与えてくれて穏やかだったからです。
他には、パトリック・マクドナルドとマックス・アレクサンダーが教師として教えていました。
アイリーン・ステュワートもときどき来ましたが、それほど多くはありません。彼女は、グラスゴーに住んでいたからです。
14人から20人の生徒がいました。わたしたちは2つのグループに別れ、毎日違った教師から教えてもらいました。
アレクサンダーは、午前に1つのグループに来て、時間の全てではないですが、十分な時間を教えます。
午後はもう一つのグループを教えます。
つまり、わたしたちは、彼から毎日1回はワークを受けたわけです。

ワークの時間は状況によりますが、10分ということはありません。
早いときは、2~3分のことがあり、2~3秒のときさえあるくらいで、彼は「素晴らしい、そうだ。」と言います。
午後の競馬のラジオ放送を聞きながらのときはラッキーで、しばしばアレクサンダーは時間を忘れるのでワークの時間が長くなりました。
彼のディレクションはとても強かったので、その2~3分は、他の先生の30分よりももっと価値がありました。」
(Glen Park 「AN INTEVIEW WITH PEGGY WILLIAMS」)

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