教師養成コース開始前の教師養成

1904年(アレクサンダー35歳)にロンドンに渡り、すぐに順調に教え始めたアレクサンダー(FM)は、1910年には妹のエイミーと母のベッツイーを呼び寄せます(エイミーは、1914年に結婚すると、教えることをやめてしまいます。)。
また翌1911年には、仕事が増えてきたためにARをメルボルンから呼び寄せました。

この2人加えて、1931年の正式な教師養成コースが始まるまでの間にFMがトレーニングを行ったのは、エセル・ウェブとアイリーン・タスカーのわずか2人です。
(アレクサンダーは、質が下がり、自分がコントロールできなくなることを恐れて、教師養成コースの要請があってもずっとそれを拒み続けました。)

この時代のFMの教え方は、徒弟制でした。2人は訓練を受けながら、FMのレッスンの補助を行い(個人レッスンが終わった後に、ライング・ダウンで生徒にワークするなど)、徐々にできることを増やしていったのです。

FMは、後の正式な教師養成コースでも、手取り足取りと言う指導ではなく、生徒自身が自分で考えていくことを求めました。
そのため、生徒の卒業後しばらくは、彼が教えていたアシュリー・プレイスに助手として残ることを期待していました。 インターンのような期間が必要だと考えていたのでしょう。

アイリーン・タスカーは教師で、子供に対する教育実践を積んでいました。その場面に活用しながらアレクサンダーのワークの訓練を受けたので、エセル・ウェッブとは、異なった道を辿ります。

エセル・ウェッブ

エセル・ウェッブ(1866-1952)は腕の良いピアニストで、生徒を教えたり、知人の前でたびたび演奏を行っていましたが、腕と背中に痛みがありました。
1912年頃に、FMの本を読んで興味を持ち、レッスンを受けたエセルは、その虜になり、その後、亡くなるまでFMを助けることになります。
受付を行い、秘書そしてワークの助手の役割を果たし、後にはFMの著作にも関わります。
1914年にFMの妹のアミーは教えることを止めたので、その代わりになります。

FMの親族・友人以外でワークの訓練を受けたのは、エセル・ウェッブが最初でした。

エセル・ウェッブは、1913年に、モンテソッリー・メソッドを学びにローマに行きました(彼女は、FMのワークとモンテソッリーは共通するものがあると考えたのです)。
そこで、同じくモンテソッリーを学びに来ていたアイリーン・タスカーとマーガレット・ナウンブルグと出会い、彼女らにFMの本「意識的なコントロール」を紹介します。
この2人は、やがてFMのワークを受けることになり。マーガレットは、第一次世界大戦が始まった後のFMの渡米で、多くの生徒を集めてくれました。

アイリーン・タスカー

1)アレクサンダーから教師訓練を受けるまで

アイリーン・タスカーは、ラテン語やギリシャ語の古典をケンブリッジ大学で専攻し、中学校で古典を教えたいと思っていました。
ところが卒業した年にポストがなく、14歳から18歳の数人の子供を家で教える「ホーム・スクール」の先生になります。

アイリーンを雇ったのは当時の「新教育New Education」のパイオニアでした。 彼女は、アイリーンが「ホームスクール」で2年教えた後に、モンテソッリー・メソッドを学ぶようにと、ローマに行かせます。
そこでアイリーンは、エセル・ウェッブと出会い、アレクサンダーのことを知るわけです。

アイリーンはエセルと出会った翌年の1913年に、アレクサンダーから30回の個人レッスンを受けます。 FMは、アイリーンの近視とひどい猫背を指摘し、「もしレッスンを1コース(30回)受ければ、君を10倍活動できるようにしてあげよう。」と言ったそうです。

第一次大戦前のFMのレッスンは、晩年のそれとは全く異なって、とても厳しいものでした。
アイリーンは、FMに叱られるたびに怯えて、冷や汗がでるほどでした。
ところが、それを手紙でローマのモンテソッリーに報告すると、モンテッソーリは、「あなたが、自分が何をしているかについて学んでいることを、わたしは嬉しく思います。」と返事をくれたそうです。

アイリーンは、イギリスでモンテッソーリ教育を教え始めますが、第一次世界大戦によって、1916年には教える場がなくなります。
幸いローマで一緒に学んだニューヨークのマーガレット・ナウムブルグが、彼女に教えるようにと場を提供してくれて、アメリカに渡ることになりました。

2)アレクサンダーの教師訓練を受ける

そのニューヨークでアイリーン・タスカー、教師にとってとても扱いづらい吃音の生徒をFMが冬の間レッスンし、吃音と共に学校での授業態度も大きく変わるという変化を見ました。
アイリーンは、「アレクサンダーの原則は、どんな教育であっても、その基礎になることがわかりました。」とアレクサンダーに手紙を書きます。

それを読み、アレクサンダーは、彼女に助手になるように言い、1917年の春にトレーニングを始めます。
FMは例年夏期はイギリスに戻ります。その年、ほとんど訓練を受けていないアイリーンは、その夏にすぐに子供にテクニークを教えることになります。
彼女は、普通のレッスンを行うことはまだできないので、彼女の言う「アプリケーション・ワーク(応用ワーク)」を行います。
ゲームや乗馬、泳ぎ、カヌー、劇などの活動で、抑制しミーンズ・ワェアバイを考える、ことを教えました。

FMがニューヨークに帰ってくると、徒弟的にさまざま仕事をこなしながら、彼を補助します。
FMの個人レッスンの後でライング・ダウンをさせながら、インヒビションワークを行なうなどをするとともに、青少年期の子供たちのさまざまな問題に、テクニークを使って取り組みました。

アイリーン・タスカーの特徴は、このようにアプリケーション・ワークを通して、子供たちが実生活の中でテクニークの原則を使って動けるように教えたことです。

アイリーンは、1920年の春にようやくイギリスに戻ることになります。

3)アイリーン・タスカーはなぜ特別か

アイリーン・タスカーは、アレクサンダー・テクニークの助けを借りながら、学校教育を教える少人数の「リトル・スクール(という名前で呼ばれていました)」を、FMの許可を得て1924年に始めています。
場所は、FMが教えていたアシュリー・プレイスです。

リトル・スクールは発展して人数を増やし、場所をペンヒルに移し第二次世界大戦まで続きました。
アレクサンダー・テクニークの教育への可能性を開いたことは、ひとえにアイリーンの功績です。

また、アイリーン・タスカーは1935年には、南アフリカに渡って教え始め、そこで成功します。
その成功により、アレクサンダー・テクニークを学校教育に取り入れようとする動きが起こるのですが、これが南アフリカの体育教育担当者の反発を買い、テクニークはインチキだ、という記事が出ます。
これが、後にアレクサンダーをとても消耗させ、彼の脳卒中の引き金になった名誉棄損裁判の発端です。

アイリーン・タスカーがとても特別なのは、彼女が伝統的なチェア・ワークスタイルの先生ではなく、アプリケーション・ワーク(実際の動きに使っていくこと)でテクニークを教えていたからです。

彼女は、教師訓練を受けてから20年近くもたった1935年の南アフリカへの出発前に、
「他の人とこんなに違う道で、テクニークについてのレッスンを受けずにアプリケーションワーク(応用ワーク)ばかりやってきて、これから繊細な手の使い方を身に着けることができるでしょうか」
とFMに聞いています。

FMは、
「できるよ。君のアプローチに沿ってやっていくことで、手の繊細な使い方を身に着けることができる。」
と答えています。

彼女自身の探求については、アイリーンが1967年にアレクサンダーの先生に行った話を記した「コネクティング・リンクス」と言う小冊子に書いてあります。
今回触れなかったことについて、アイリーン・タスカーについてはまた書きたいと思います。

前へ    次へ「アレクサンダーが行ったアレクサンダー・テクニーク教師養成3」