フレデリック・マサイアス.アレクサンダー(F.M.アレクサンダー)の一生とアレクサンダー・テクニークの発展を辿る年表の前半をホームページ上に作りました。
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ロンドンに渡る前のアレクサンダーのタスマニア・オーストラリア時代(34歳まで)の部分です。

彼がどのように育ち、アレクサンダー・テクニークをどのように教え始めたかが分かります。
参考までに、この期間について手短に追ってみます。

(1)タスマニア島(19歳まで)

アレクサンダーは、オーストラリアの南にあるタスマニア島(北海道より少し小さい島)で生まれました。
彼が子供時代を過ごしたワインヤードは、大きな都市から遠く離れた場所で、海も近い自然豊かな所です。
(夏の平均最高気温が25度程度、冬の平均最低気温は5度程度で、日差しと紫外線が強いことを除けば、過ごし易いようです。)
学校を終了した後、1年半の間、補助教員を務めました。
17歳になると親元を離れ、ワインヤードから40kmほど離れたウォラタにあるビスコフ山スズ鉱山会社の事務員として3年間働きます。

(2)オーストラリア(20歳から34歳)

1889年、20歳になったアレクサンダーは、オーストラリアの大都市メルボルンに渡りました。
メルボルンで働きながら、朗誦家への道を進みます。

その後、喉の障害が起こり、それを自分の力で解決しようとして、彼のテクニークを作り上げました。
1年半程で声を改善したアレクサンダーは、仕事を辞め朗誦家としてのスタートを切ります。
1894年、25歳で、最初にタスマニアでリサイタルを行いました。
それとともに声の改善を教え始めます。
当時は、リサイタルを行いながら評判を得て、声について教えるということは通例だったようです。

翌1895年にはニュージーランドに滞在して、リサイタルを行いながらレッスンを行いました。
オークランドで教えながら、自分のメソッドの可能性に自信を持ちました。

メルボルンに戻り、テクニークのメソッドを確立しようと教室を開きます。
その後弟のアルバート・レデン(A.R.)と妹のアミーがアシスタントとして加わります。

1900年には、順調なメルボルンを弟のA.R.に任せ、F.M.はシドニーに活動の場所を移します。
シドニーでは、イギリスで医学を学んだ著名なマッケイ医師が生徒になりました。彼は、服装や好みなど、F.M.にとっての見本となります。

1904年に競馬で大穴を当てて750ポンドを手にした35歳のF.M.アレクサンダーは、マッケイとその友人の医師たちからの推薦状を持ってイギリスに向かいます。