BodyChanceのプロコースで教えるアレクサンダー・テクニーク教師ヤスヒロ(石田 康裕)のページです。テクニークの歴史や役立ち情報など多くを載せています。教育分野(学校の先生など)での応用にも力を入れています。ヤスヒロは、埼玉・東京でのレッスン、出張レッスンを行っています。機械工学修士で27年間、高校で教えました。

MSIパートⅠ第2章「未熟な対処法とその欠点」

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2.未熟な対処法とその欠点

...ヘンリ・テイラーが病気だと聞いて、カーライルは薬瓶を1つ持って、ロンドンからシーンまで急いで駆けつけました。その薬はカーライルの奥さんには効果のあるものだったのですが、薬が何に効くのかや、ヘンリ・テイラーがどのような病であるかを知ってはいなかったのです。

テニソン男爵「アルフレッド・テニソン卿――回想」

 

心や神経や筋肉が衰弱する危険性は、過去50年の間広く認識されてきましたが、これはわたしたちの進歩の傾向がもたらした状況の結果です。しばらく本題から外れて、「身体-鍛錬 [physical-culture]」、「リラクセーション」、「深い呼吸 [deep-breathing]」という言葉が広く使われている良く知られている対処法について、ある側面を考えてみる必要があります。

「身体-鍛錬」については、わたしが特定のシステムや実践を指しているわけではなく、言葉の広い意味で使っていることを明確に理解してもらわなくてはなりません。ダンベル鍛錬の最も初期の形や、特定の病弊に対処しようと考え出された、一連の技術を指しています。この言葉の使い方の誤解をなくすために、「身体-鍛錬」と、かぎ括弧でくくってハイフンを使うときには、「単純または複雑な一連の機械的な運動のことで、筋肉の完全なシステムの中の特定の組み合わせだけを発達させて、身体機能を強めようとしている」、を意味することにします。身体鍛錬、と普通にハイフンなしに書いているときには、全身の効率性をシステム全ての部分の調整作用とコントロールだけで改善しようという全般的な方法のことを指していて、全体のバランスを無視したり、あるエネルギーを過剰に使うようなものは除外します。

まず最初に知らなくてはならないことは、わたしがすでに述べていることにより、現在の「身体-鍛錬」派が元にしている理論は、わたしたちが先祖帰りの一形態として非難した自然回帰の別の形だと、知らなくてはなりません。それはわたしたちの知的発達という新しい衣装を、いわゆる「自然なエクササイズ」と呼ぶ古い生地で裏打ちして、硬化させようとするものです。定義されているような「身体-鍛錬」は、人工的な状況から生じた欠陥を直すための、直接的であまり創造的ではない方法、と呼ぶことができます。その論理はとてもシンプルで、身体的な欠陥は、人工的な文明の中で筋肉とエネルギーを使わなくなったり誤って使うことから生じている、という仮定から導かれています。その筋肉とエネルギー [energies] は、自然な状態では、生活の手段としていつも使われているものでした。

このことによって、次のように主張することは簡単でしょう。すなわち、人が、これらの筋肉を鍛えるための人工的な機械的手段を考え出して、例えば1日に1時間、2時間、3時間と運動すれば、それらは自然の機能を回復して___。この空白の部分を満足に満たすことができないのは、この主張を続けて論理的な結末を考えれば、その誤りが明白だからです。この主張に基づいた方法は、身体の中に内戦状態 [civil war] を引き起こします。そこには協調状態はないので、その結果は争いにならざるをえません。この点は、とても典型的と言える1つのケースを取り上げることで、すぐにはっきりするでしょう。ある特定の実際例ではなく、例え話になっています。

ジョン・ドォーの事例を取り上げますが、彼は午前9時から午後6時まで室内で仕事をしていて、それはとても精神的な力と神経的な力を必要とするものでした。35歳になるまでに――それよりも5~10年ほど早く起こる可能性もあります――、ジョン・ドォーは、貧血、消化不良、神経衰弱、無気力、不眠症、心臓の弱さ、他の天のみが知る障害、に苦しみます。彼の身体機能は乱れ、筋肉システムは一部が委縮し、無反応になっていて、神経は高ぶり、全体の状態は――他に良い言葉は見つかりません――「飛び跳ねやすく[jumpy]」なっていました。

さらに、彼の知性は多くの方面で働いていません。毎日の生活の身体的な活動に対して、彼は悪い心的態度を取っています。身体は彼にとっての機械装置ですが、彼は決してその複雑な働きを調べようと立ち止まりはしないし、その機械装置を、彼の経験の中でそれを使ってきた一連の技術 [evolutions] によって、動かそうとします。この機械装置が故障してしまうと、強壮剤や興奮剤、あるいは「休息」を与えて力づけて、その後で鼓舞する、という昔ながら方法を行います。

しかしながら、対処法を探ることを引き延ばし過ぎていたジョン・ドォーも、ついに「身体―鍛錬」を行うことにしました。でも彼は忙しかったので、運動は、午前と夕方の1~2時間に限られていました。最初のうちは、彼は素晴らしい効果を感じたと言うでしょうし、ロンドンで出会う友人の誰に対しても、それを勧めることでしょう。わたしはドォーに効果があったことを認めたいと思いますし、運動を続ければ、おそらく彼が最初に陥ったような神経の衰弱状態には戻りようがないことも認めます。しかしながら、ここでわたしが明確にしておきたいのは、彼の治癒は、それ自体に持続する要素が無いことです。それは単に、彼の身体の組織体に一時しのぎの下手な修理を行った、ということでしかありません。なぜなら、彼の例を全く異なった観点から考えれば、ドォーが2つのシステム、すなわち2つの生活様式といったものを発達させようとした、とを見ざるを得ませんが、その2つはその特性から言って、調和して働くことができないからです。一方で、彼の機械装置の運転の仕方について少しも考えずに、1日に2~4時間かけて筋肉システムを機械的に発達させようとしますが、そのときには、血液の供給を促して加速させるために酸素供給を増やす必要があり、肺の力を強くします。簡単に言うと、彼が訓練していたのは、原始の状態のときに目覚めていた大部分の時間で、食べ物を得るために必要としていた機能とエネルギーです。他方、残りの12時間ほどの時間は、仕事をしたり、食事をしたり、本を読んだり、室内遊戯を行ったりなどの座って何かをすることに費やすので、新たに発達させた力は無視されてしまい、前の神経エネルギーとコントロール中枢が使われることになります。ジョン・ドォーの身体は、眠っているときの自然な状態を除いて、2つの生き方をすることになります。1つは、とても活動的で筋肉を使う動的なもの、他は、座ることが多く、神経を使う静的なものです。

これら2つの生き方は、関連性がなく対立しています [antagonistic]。これらは、互いに支えあうことはなく、衝突します。ジョン・ドォーの身体に内戦が起こり、心臓と肺や他の半自動器官 [semi-automatic organs] は絶え間ない戦いの中で、どちらかの支援に呼び出されるため、対立する状況の中で絶えず再調整を行います。そのような状態を長い目でみれば、全体としての人の改善に、役立つことはありません。

後に示すように [1]、ジョン・ドォーや似たようなケースで、筋肉メカニズムを使うことへの意識は変わっていません。もし1日に6時間訓練したとしても、いつもの仕事を行えば、その仕事で得た筋肉習慣にすぐに戻ってしまいます。なぜならドォーは、毎日の生活の活動に筋肉メカニズムを使うことに、間違った心的態度 [mental attitude] を取っていることは明らかだからです。彼は、その作業に使うことを意図されない筋肉群を使い続けてきたし、一方で、継続的に使い続けるべき筋肉群は、発達せずに不活発なままで、うまくコントロールされてもいませんでした。本当のところ、彼は、身体の使い方について、心身的な幻想 [ mental and physical delusions] に苦しんでいると言えます。筋肉システムの本当の使い方と機能について、彼が気づいていない多くの例の中の1つを挙げます。彼が頭を前方に押しやったり、後ろに持っていこうとするとき、どちらの方向でも、肩がその動きについていってしまうのですが、この肩の動きは全く意識されていなくて、動いている事実は、なんら認識されません。さて、心身的な幻想がこのような状態だと、その不幸な人は、単にある身体的な運動を行うだけで、彼の身体に完全な健康状態を取り戻せると望みながら、自分でコントロールできないそれらのメカニズムに何かしようとします。

ジョン・ドォーが最初に「身体-鍛錬」の運動を行ったとき、最初の頃は効果があることをわたしは認めているので、ここでなぜその効果が持続しないかを、より詳細に示した方が良いでしょう。この人が消化器系の障害の深刻さを認識したとき、実際には、彼は症状に気づいただけで、ますますひどくなっている障害の主原因についてではありませんでした。適切な心身的検査を行えば、彼が起きているときと眠っているときに、胸郭内部の大きさ [intra-thoracic capacity] を最小に減らそうとする悪い習慣を、明らかにしたことでしょう。最小になることは害になるほど不適切なだけでなく、生命活動の器官 [vital organs] を正しく機能できないようにします。

ところで、胸郭内部の大きさがこのように最少になっている状態が、何を意味しているかを考えて、それが人の組織体全体に与える影響の幾つかを指摘しておくことは、役に立つでしょう。それは、胸腔には多くの生命活動の器官があり、腹部臓器は直接または間接的に胸腔の大きさに影響を受けているからです。胸郭内部の大きさが最少になると、胸部の中にある器官が有害なまでに圧迫を受け、心臓と肺は適切に機能できません。有害な緊張が心臓に作用し、肺は適切に使われないために、十分な空気が入らず、肺の組織 [lung tissue] は衰弱します。血液が内臓に停滞するために、その適切な循環が妨げられ、肺に対する供給も少なくなります。血液の配給は主に肺によって行われるので、胸腔内部が最少の大きさだと、その循環や栄養摂取全体が悪くなります。呼吸プロセスは、息をすすり込むことに使われますが、これは、協調的に胸部が広がることで肺の中に部分的な真空状態を作り、そこに大気圧が作用するようにするべきです [2]。胸腔が小さいと、腹部内部に異常な圧力が生じ、腹部の筋肉を有害なほど弛緩させます。それが内臓を下垂させ、肝臓、腎臓、膀胱などの機能を不完全にして、腸内の停滞、結腸と大腸等の炎症と膨張 [irritation and distension] をもたらします。言い換えれば、消化不良、便秘、そして、それに伴う疾患や全体的な障害が生命活動の機能に起こります。しばらく想像の中で、胸腔と腹腔がかなり硬い楕円形のゴムの袋でできていて、その中に、互いに関連を持ちながら動いている機械類があり、それぞれが袋の内側のどこかの部分に取り付けられ位置決めされている、と考えてみて下さい。このバッグの上半分の内周の大きさが7センチほど下半分より大きくなっている、と考えてみましょう。この大きさが全体的に維持される限りは、機械の働きの効率は最高のレベルになります。次に想像の中で、上半分のバッグの大きさを縮小させて、さらに下半分のバッグを大きくして、その内周が上半分より7センチ大きくなる、と考えてみましょう。その中の生命活動に関わる器官全体に対して、それがどう作用するかを、すぐに思い描くことができます。全体的に秩序がなくなり、異常な圧力により有害な炎症が起こり、血液やリンパ、消化と排泄の器官内の流動物、の自然な動きが妨げられます。実際に、停滞、発酵(腐敗)状態等になり、心と身体の組織体の働きを多かれ少なかれ妨げる毒を作り出し、ゆっくりとその毒が回っていきます。

さて、ジョン・ドォーの体験にもどりましょう。すでに述べたように、消化器系の障害に対する対処法として、家や体育館で身体鍛錬を最初に行ったときに、彼はその障害が軽減したと感じました。座ることの多い生活を送っていたことを考えれば、これは自然なことです。ではなぜ、そのような感じが徐々になくなって行き、その身体的な対処が失敗だった、と彼が思うようになったのでしょうか? このことは興味ある点です。実際に、座ることの多い生活を送っている人たちは、どんな運動でもそれを少しでも行えば障害が軽減する感じを得ます。しかし残念ながら、とても多くの場合でその軽減の感じは、正しい方向の本来の変化を心的に誇張した幻想に過ぎません。それは、永続的な軽減につながるような、得られた恩恵の正確な情報ではありません。この問題を考える人たちは、わたしたちが分析を行っている状態の人たちが、既に狂った運動感覚システム [debauched kinaesthetic systems] を発達させていて、様々な感覚や感じの質について間違って考えることを許していることと、そのためそのような誤った感覚では、その人たちがどの程度改善されているかを正しく評価できない、ことを知っています。さらにわたしたちは彼に関する限り、彼がすぐに認めるように、その改善は長続きしないことを知っています。この結論を正しいと認める科学的な理由があるので、その見解を説明しましょう。説明を行うにあたって、彼が身体運動を行った初めの頃には、実際に多くの点で良い効果があったことを認めておきます。それがどのようなもので、またどんなに大きいものでも、その身体運動を行い続けると遅かれ早かれ徐々に欠陥が大きくなり、いつも確実に、わたしたちが認めていた最初の効果を相殺し、ついには上回ってしまう、とわたしは主張するのです。

次に述べていることが、この主張が正しい理由の幾つかです。後の章ではこれらをより詳細に扱います。

 

  1. 運動感覚システムに欠陥があること

その運動を行おうとしたときの彼の状態では、運動感覚システムも誤って欠陥のあるものになっていたことを、実際の体験がわたしたちに示しています。

  身体運動を単に行うだけでは、毎日の生活の心身的な人の組織体の使い方に、正しくて新しい運動感覚を持てるようにはなりません。

  1. 間違った考えを持っていること

間違った考え [erroneous preconceived ideas]で「身体-鍛錬」に沿った運動を毎日行う、ことで起こる障害の様々な危険は、書き出すことができないほどあります。この問題に少しでも真面目に取り組もうとすれば、かなり大きな本になるでしょう。しかしながら、これが実証できる真実だと、わたしは読者に断言できますし、日々、最も疑り深い人たちを、実際に示すことで納得させています。

  1. 感覚を間違って捉えること、幻想

この重大な欠陥は、間違った考えと結びついて起こり、心身的な幻想に陥らせますが、それはとても広範囲に渡っていて危険です。

  再教育を受ける前には、肩を後ろに持って行こうとすると、いつも頭を後ろに持っていく癖を持つ人、を取り上げましょう。この人に、頭を前に持ってくると同時に肩を動かさないようにしてもらうと、多くはその指示を実行できずに、肩も動かしてしまいます。先生が肩を押さえながら、頭を前に持ってくるように言うと、頭を前に動かせずに、後ろに行かせます。

  1. 心身的なコントロールに欠陥があること

  教えているときにとても良く見るコントロールの欠陥は、先生が生徒の頭や手、腕、脚を動かして、それらの部分の適切な使い方の正しくて新しい感覚を与えよう、とするときに起こります。経験からは、この体験を早く得るために必要なコントロールを、大多数の人たちは全く持っていません。

  先生は、生徒に腕を挙げるように言い、彼はそうするのですが、必要以上の緊張を使います。必要な緊張についての新しい運動感覚を生徒に与えようとして、彼に代わって腕を持ち上げることを許すように、と先生は言いますが、だいたいの生徒は、自分でその動作を行うように言われたときと、全く同じように行います。

  1. インヒビション(抑制)に欠陥があること

 実践的な先生は、多かれ少なかれ全ての生徒に、インヒビションの力が無いことが妨げになることを見つけますが、それがあれば、生徒の側からは、かなり容易に再教育を受けて協調的になれます。考えてみれば、わたしたちの普通の生活様式や、一般に受け入れられている教育方法は、そのようなインヒビションの力を発達させるためには役立たないことが分ります。それどころか、その面の力はむしろ減る傾向にあり、見ようとする人は、その深刻な結果が外に表れている様子を至る所に見ます。

  1. 自己催眠

 とても重大で、余りにも良く見られるこの害悪に対して、実践的な対処はなされて来ませんでした。リラクセーションと同じように、人々はこれについて、大まかに理論的に話したり書いたりしますが、それを毎日の生活に使うときには、実質的な良い結果を生んでいません。わたしが言っている自己催眠 [self-hypnotism] とは、ある時点で行う特定の自己催眠のことで、先生や生徒が、レッスン中や、しばしばそのどちらもが毎日の生活の中で気づかずに培っているものです。

  人は、眼を閉じることでより良く考えることができる、と言うことでしょう。これはとても拡がっている自己催眠、自己欺瞞 [self-deception] の形なのですが、それが特に深刻なのは、意識的に有害な状態を作り出すからです。普通の夢想家は、この状態に無意識に陥ります。

  1. 心配癖を作ってしまうこと

 これはおそらくわたしたちが作り上げてしまう最も深刻なものです。パートⅡの第5章で詳細に取り上げます。

  1. 偏見を持った議論を行い、自己防御すること

 人間の特性として、本当は弱さと浅薄さがあることをこれは示していて、わたしたちの知的なプライドを傷つけます。とても悲しいことに、並外れた知性があると誰もが認めている人ほど、これが強いという事実があります。わたしたちはみな、そのような人が議論に勝とうとして、事実を自分の望むように変えて述べることを知っています。彼の論理性は、彼の感情と感覚認識(感じの質)[sense appreciation (feeling-tone)] に圧倒されているために、前者に訴えかけようとしても、最初は無駄です。大多数の人が、その方向に余りにも傾き過ぎています。そのため、現在と未来の子供の教育と発達には、感情と感覚認識(感じの質)によってガイダンスとコントロールを育てるような教育方法を、断念するように気をつけなくてはなりません。

 

ここ数年間、ここに手短にまとめた欠点が、熱心な思想家たちの知性にいくらか認識されてきたので、その運動のシステムに明確な修正が見られるようになりました。乱暴に筋肉を緊張させることが少なくなり、よりいっそう、激しさの少ない身体活動になっています。このようにして、「身体–鍛錬」の提唱者は、2、3年前はダンベルを使うことを主張し、あるケースでは一連の運動の中でダンベルの重さを徐々に増やすことを主張していたのに、穏やかな運動の必要性を強調するようになり、ダンベルのことさえ言わなくなりました。これはおそらく、わたしの主張が真実だという良い証拠でしょう。

次の例は――すなわち「リラクセーション」――、もっと役に立ちません。リラクセーションは普通、座っていたり床に横になっている人に、リラックスするように、すなわちリラックスについての彼らの理解で行うように、と指示します。その結果いつも、脱力状態 [collapse] になります。リラクセーションが本当に意味することは、自然 [nature] がいつもいくらか緊張しているように、と意図した筋肉システムの部分が適切な緊張状態になっていて、自然がいくらかリラッスしているように、と意図した部分はリラックスしていることです。これは、わたしの別の著書で、「メカニカル・アドバンテージの姿勢 [the position of the mechanical advantage 機械的な動きを行う上で有効になる姿勢] [3]」、と呼んだ姿勢を取ることで、実際に容易に得ることができる状態です。様々な筋肉に対する自然な適正状態について、その理解が間違っていることは別にしても、リラクセーションの理論は休息療法と同じく誤った仮定をしているので、どちらのシステムもそれを続けると必然的に活力全体が低下してしまいます。それは通常の仕事に戻るとすぐに感じられるし、まもなく前の障害がより大きくなって再び現れます。

この本の最初に紹介した最後の治療法は、「深い呼吸 [deep-breathing]」でした。これは、「身体―鍛錬」の発展の後期のもので、実際に、それを正しく修正していました。頑張って力ずくで筋肉運動を行うことが、それが直すと言っていたものより、おそらく悪くて新しい欠陥を生んでいる、と知ったことによる論理的な結果でした。「深い呼吸」は、実際には正しい方向に一歩踏み出していましたが、ただの1歩にしか過ぎません。それは、いつも重大な害を及ぼすわけではなく、ときにはある程度の良い効果を生んではいますが、事の根本や欠陥の根絶に働きかけてはいないし、身体の協調性という全体スキームの最も重要な要因を、認識しているわけでもないからです。次の章で根本的な要因について詳細に説明しますが、まず明らかになっている限りで、議論の主な点を手短に見ます。

わたしたちは想像の中で、地上に最初に表れた人間、つまり中新世の初期の人類 [the early Miocene man] を、それを覆っている暗闇を通して見ます。わたしたちが思い描くように、彼は単純な欲求と、活発な身体習慣を持った生き物で、自意識 [self-consciousness] の火花があり、それが、原始的ですが大きくなり分化を起こしつつある脳の中で、細々と燃えている動物でした。さらに彼について、いくらか明確に視覚化できる時期を想像すると、そこでは勇敢さと狡猾さの力が増し、武器を使いこなすようになり、長い200万年の期間と、旧石器時代、新石器時代を経て、青銅器時代に突入して、想像力と理想を描く力を持った、論理性と意図を持つ生き物 [a reasoning, designing creature] になっています。しかし、その能力はまだ身体を使うことに向けられていました。

そしてついに、人から人への、種族から種族への分化 [the differentiation of man from man and class from class] が起こり、歴史上で文明化の時代になりました。都市に住み、特定の新しい習慣に適応し、身体能力を全く、またはほとんど必要としない労働に従事し、労力を使わずに食べ物を得る時代、進化のゆっくりとしたプロセスが、自意識を持ち指示を行う能力 [self-conscious, directive powers] という驚くべき新しい手段を生み出し、その生み出したものに徐々に置き換わりつつある、という時代です。

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