BodyChanceのプロコースで教えるアレクサンダー・テクニーク教師ヤスヒロ(石田 康裕)のページです。テクニークの歴史や役立ち情報など多くを載せています。教育分野(学校の先生など)での応用にも力を入れています。ヤスヒロは、埼玉・東京でのレッスン、出張レッスンを行っています。機械工学修士で27年間、高校で教えました。

テクニークの進化

  • HOME »
  • テクニークの進化

「自分の使い方」 F.M.アレクサンダー 1931年出版

わたしが以前に著した2冊の本「人が受け継いでいる最高のもの」と「個人の建設的で意識的なコントロール」は、人の組織体の誤った使い方の状態を良くする手段を求めて、わたしが何年もかけて徐々に進化させたテクニークを述べています。探求を開始したときには、多くの人たちと同じように「身体」と「心 [mind ]」を、一つの組織体の中の異なった部分だと考えていたこと、その結果として、人の苦しみ [ills] や困難、欠陥を「精神的 [mental] 」または「身体的 [physical] 」と分類して、明確に「精神的(心的)」なもの、とか、明確に「身体的」なものとして扱えば良い、と信じていたことを認めなくてはなりません。しかし、わたしの実際の体験がこの見方を捨てさせて、わたしの本の読者は、どんな形の人の活動も「精神的」なプロセスと「身体的」なプロセスに分けることは不可能だ、というそれとは逆の考えに、説明したテクニークが基づいていることを知ることになります。

人の組織体に対する、考えのこの変化は、わたしが理論だけで導き出した結果として起こったわけではありません。生きている人間について、その実際に行っていることの中で実験を行う、という新しい分野の探求から、こう変更せざるを得なくなりました。

人の活動は、精神的なプロセスと身体的なプロセスが一体になって働いている、という理論を受け入れている人でも、この単一性の原則 [principal of unity [1] ] が実際にどう働くかを理解することは、多くの人にとって困難なことを、読者からの手紙が示しています。この困難はわたしが教えるときにいつも生じますが、自分の使い方 [the use of the self] [2] では、精神的なものと身体的なものが全ての活動で一緒に働くことを、生徒への一連のレッスンでは実際に示すことができます。繰り返しそれを行なうことで生徒はその確信を持つことができますが、たとえ大規模な教室を開いたとしても、1人が扱うことのできる生徒の数は当然限られているため、このような実体験を持てる人の数はかなり少なくなります。そのため、この本の中で、始まりからから始めて、わたしのテクニークを徐々に進化させてくれた探求のヒストリーを、語ろうと決めました。行った実験の具体的な内容を、できるだけ詳しく述べて、そこで観察して体験した内容を、語りたいと思います。そうすることで、ついには次のように確信させてくれた一連の出来事を、読者が自分で追う機会を与えることになる、と思うからです。確信を持ったのは、

(1) 「精神的 [mental] 」とか「身体的 [physical] 」と呼ばれるものは、別々の実体 [entity] ではない。

(2) このため、人の苦しみや欠陥は、「精神的」、「身体的」と分類することはできずに、片方だけで対処することはできない。それらへの対処法はすべて、教育的であってもなくても、すなわち、欠点、欠陥、病気、が起こらないように防止する [3] ものでも、それを除こうとするものでも、人の組織体の分離不可分な単一性に基づかなくてはならない。

ということです。

これを疑う読者には、例えば、腕を持ち上げたり、歩いたり、話したり、眠ったり、何かを学び始めたり、問題についての答えを考えたり、決断したり、要求や願いに同意したり同意しなかったり、ある必要性や急な衝動を満たしたり、といった活動のプロセスが、純粋に「精神的」または「身体的」だという確実な証拠を示せますか、と問うことにしましょう。この問には多くの重要な点が出てきますが、わたしがこれから述べる体験について、読者がその過程を追っていけば、その2つが出会うことに、導かれるでしょう。

かなり若い頃から、詩に喜びを感じていました。シェークスピア劇を学び、声に出して読み、登場人物の解釈に没頭することは、わたしの主な喜びの一つでした。そのため、雄弁術 [elocution] と朗誦術 [art of reciting] に熱中して、ときどき人前で朗誦することを頼まれるまでになりました。十分な成功を得たので、シェークスピアの朗誦を仕事にしようと思い、劇表現法の全ての分野を、長い時間をかけて一生懸命学びました。アマチュアとしてしばらく経験を積んだ後に、わたしの技術がプロの厳しい基準に十分見合うと思うまでになりました。周りの評価も同じだったので、わたしは朗誦家になる決断をしました。

何年かは全てうまく行っていましたが、そのうちに喉(のど)と声帯に異常を覚えるようになりました。その後まもなく、朗誦しているときに息を吸う音が聞こえることを、友人から指摘されました。彼らは、(彼らの言い方では)口から「あえぎ [gasping]」や「息をすすり込む [sucking in the air]」音が聞こえると言うのです。そのときすでに起こり始めていた喉の障害よりも、これはわたしを不安にさせました。なぜなら、朗誦家や俳優、歌手、がよくやっているような、息を吸い込むときの呼吸の音が出ないことを、わたしは誇りにしていたからです。この間違った呼吸を直し、声枯れをなくしたいと望んで、わたしは何人もの医者やボイス・トレーナーに、アドバイスを求めました。彼らは良くしようとできるだけのことをしてくれましたが、朗誦のときの「あえぎ」と「息のすすり込み」は、より一層ひどくなり、声枯れがより早く起こるようになりました [4]。わたしが受けていた治療の効果は、しだいに薄れていき、障害が徐々に大きくなって行ったのです。とても困ったことに、数年後ついには、ときに全く声が出なくなるまで、声枯れはひどくなりました。生まれてから何度も身体の不調があり、それがわたしの障害になっていたので、たびたび声枯れが起こることも、わたしの声の器官の何かの欠陥ではないか、と疑い始めました。最も困ったのは、とても魅力的で重要な仕事が来たときです。そのころまでには、自分の声の器官の状態にとても自信を失っていたので、それを受けることを本当に恐ろしく感じました。前の処置は失望させるものだったのですが、わたしはもう一度医師に相談することにしました。医師は、もう一度わたしの喉を検査して、リサイタル前の2週間は朗誦を差し控え、声をできるだけ使わないようにして、処方した治療に従えば、声は正常になると約束してくれました。

わたしはその指示に従うことにして、そうすることを約束しました。声をできるだけ使わないようにすることで、声枯れは少しずつなくなったので、数日後には、医師が言ったことがうまくいくだろうと感じました。リサイタルの夜には、声枯れはきれいになくなっていたのですが、プログラムの半分も終わらないうちに、声の状態は今までになかったほど悪くなり、終わりころにはとてもひどくて、話すことさえできないほどになりました。

一時的な回復しか望めなくて、とても興味を持ち、成功できると思っている職業をあきらめざるを得ない、という思いは、わたしを言い表せないくらい落胆させました。

翌日医師に会い、この状況を話し合いました。終わりに、何ができると思うか、を聞いたところ、「わたしたちは、この治療を続けなければなりません。」と、彼は言いました。それはできないことをわたしは言い、彼がなぜかと聞いたので、治療の間に公の前で声を使わないという指示をこれだけ忠実に実行したのに、リサイタルで声を使い出したら、1時間もしないうちに枯れ声に戻ってしまったことを、指摘しました。「それならば、あの夜わたしが声を使うときにやっていた何かが、これを引き起こした、と考えるのが妥当ではないですか。」と言うと、彼はしばらく考えた後で、「そうだね、そうに違いない。」と言いました。「それならば、わたしがやっていた何がこれを引き起こしたか、を答えることができますか。」と、聞くと、彼はそれが分らないことを正直に認めました。「わかりました。もしそうなら、わたしは自分で探さなくてはなりません。」と、わたしは言いました。

この探求を始めたときに、わたしには2つの事実がありました。朗誦を行うと声枯れの状態になることと、普段の会話以外に声を使わないで喉と声の器官に医師の治療を受ければ、声枯れがなくなることを、体験から学んでいました。わたしの障害のこの2つの事実の意味を考えて、普通の会話ではそうならないのに朗誦で声枯れになるとすれば、朗誦のときに行っていることと、普通の会話で行っていることに何か違いがあるのだろう、と思いました。これが本当で、違いを見つけることができれば、声枯れをなくす助けになるし、少なくとも実験を行うことは何の害もありません。

この目的のために、鏡を使い、普通の会話と朗誦の2つで「ドゥイング [doing行っていること]」を観察することにしました。その2つに違いがあるのなら、それによって見つけることを期待したのです。普通の会話は、より単純な活動なので、このときの自分の状態の観察で始めることが、良いように思えました。より大変な朗誦を観察するときに、何かの参考になるだろうからです。

鏡の前に立ち、普通に話す様子を注意深く観察しました。何度も繰り返しましたが、わたしの動作には、間違いや異常と感じるものを、特に見つけることはできませんでした。次に、朗誦の様子を、鏡の前で注意深く観察しました。すぐに、単に話しているときに気づかなかったことを、いくつか見つけました。特に3つのことが、際だっているように思えました。朗誦を始めるとすぐに、頭を後ろに引き [pull back the head] 、喉頭(こうとう)を押し潰し [depress the larynx] 、あえぎ声を出すように口で息をすすり込む [suck in breath through the mouth in such a way as to produce a gasping sound] 、ことを行っているのを見たのです。

これらの傾向に気づいた後で、わたしは戻って、普通の会話でどうしているかを、もう一度観察しました。朗誦の観察で見つけた3つの傾向は、程度の差はあっても普通に話すときにもあることに、疑いの余地はほぼありませんでした。それらは本当に僅かだったので、普通に話す自分を最初に観察したときに、全く気づけなかったことは納得がいきます [5]。普通に話すときに行っていることと、朗誦しているときに行っていることとの、違いを見つけることができたので、多くのことを説明できる決定的な事実を得ることができたと思い、さらに続けていく元気がでました。

鏡の前で繰り返し繰り返し朗誦を行ったことで、既に気づいていた3つの傾向は、声に対する要求のとても高い一節を朗誦するときに、特に顕著になることを見つけました。このことは、朗誦で自分が行っていることと喉の障害は関係がある、という初めの考えに確証を与えました。これは非合理な推測ではないと思います。なぜなら、普通に声を使うときにわたしが行っていることには、それと気づくような害がないのに、朗誦で、声への特別な要求に応えようと行っていることは、声枯れの状態をすぐに作り出すからです。

このことから、頭を後ろに引き、喉頭を押し潰し、息をすすることが、実際に声の障害を生んでいるのだから、これが発声に関わる部分の「間違った使い方 [misuse]」だと考えました。今やわたしはこの障害の大元を発見した、と思いました。声枯れが、わたしの組織体のいくつかの部分の使い方から生じているのなら、改善するには、この「間違った使い方」が起こらないようにするか変える必要がある、ということになるからです。

しかし、この発見を実際に活かそうとすると、わたしは迷路の中にいることに気づきました。どこから始めればよいのでしょう。息をすすることが、頭を後ろに引くことと喉頭の押し潰しを起こしているのでしょうか。頭を後ろに引くことが、喉頭の押し潰しと息をすすることを起こしているのでしょうか。それとも、喉頭の押し潰しが、息をすすることと頭を後ろに引くことを、こしているのでしょうか。

この問に答えることができなかったので、わたしにできることは、忍耐強く鏡の前で実験を続けることだけでした。数ヶ月を経たあとに、朗誦を行うときに息をすすることと喉頭を押し潰すことは、直接にやめることはできないが、頭を後ろに引くことだけは、ある程度やめることができることを見つけました。これは後に、とても重要だと分った発見に至らせます。その発見とは、頭を後ろに引くことを抑えることで、息をすすることと喉頭を押し潰すことを、間接的に抑えられることです。

この発見の重要性を、どれほど過大評価してもし過ぎることはありません。なぜなら、人の組織体の全てのメカニズムの働きに、プライマリ・コントロール [6] があることを、このことをもとに発見できたからです。これはわたしの探求の1番目の重要な段階でした。

これらの部分の「誤った使い方」を防止することで、朗誦のときの声枯れがひどくなくなり、体験を徐々に重ねるにつれて、声枯れが起こりづらくなったことに気づきました。それだけではありません。実験の後に友人の医師に喉をもう一度見てもらったら、喉頭と声帯の全体の状態がとても良くなっていることも分りました。

わたし自身に見つけた3つの有害な傾向を、抑えることによる使い方 [use] の変化が、声と呼吸のメカニズムの機能の仕方 [functioning] に、顕著な効果をもたらしたことが、これによってわたしに明確になりました。

今、考えると、こう結論づけたことは、わたしの探求の2番目の重要な段階と言えます。なぜなら、使い方と機能の仕方に密接な関係があることを、この実体験で初めて気づくことができたからです。

これまでの経験は、次のことを示してくれました。

(1) 頭を後ろにやる [put my head back] 傾向が、喉の障害に関係があること。

(2) 頭を後ろにやることをただ防止するだけで、障害をある程度減らせること。これは、この防止の行為により、喉頭を押し潰すことと息をすすることを、間接的に防止できたからです。

このことにより、もし頭をもっと前に出せば、声と呼吸のメカニズムを、より良く機能させることができて声枯れを全くなくせるのではないか、と考えました。そのため、次のステップは、頭をしっかり前方に、それも正しいと感じるよりももっと前に、持っていくことに決めました。

しかし、これを実際に行うと、ある位置を越えて前に出したときには、前に出すと同時に頭を引き下げる [pull it down] 傾向があり、見た限りでは、声と呼吸の器官に対する影響は、頭を後ろへ下へと引いたときと全く同じでした。どちらの方法も、喉の障害を引き起こす喉頭の押し潰しが、同じように起きていたからですが、わたしは、この頃までには、声を正常にするためには、喉頭の押し潰しをやめなければならない、と確信していました。そのため、喉頭の押し潰しを起こさない頭と首の使い方 [use of head and neck] を見つけたい、と思いわたしは実験を続けました。

この長い期間に行ったさまざまな実験を、詳細に述べることは不可能です。喉頭の押し潰しを引き起こす、頭と首のどんな使い方も、胸を持ち上げて、背を短くする [shorten the stature][7] 傾向があることに、この実験の過程で気づくことができた、という点を言えば十分でしょう。

振り返ると、これはまた大きな可能性を秘めた発見だったことに、気づきます。後の出来事が、これがわたしの探求の分岐点だったことを、裏付けています。

この新しい手がかりは、発声の器官の機能の仕方は、胴体全体の使い方の状態に、影響を受けていることを示していました。また、頭を後ろへ下へと引くことは、わたしが思っていたような、ある特定の部分の「間違った使い方」ではなく、背を短くさせる、それとは別のメカニズムの「間違った使い方」と、切り離せないことも示しています。そうなら、頭と首の誤った使い方を防止するだけでは、わたしが必要とする改善を期待できません。背を短くすることに関わる、別の「間違った使い方」を防止しなければならないことに、わたしは気づきました。

このことで、わたしは多くの実験を行いました。そのうちのいくつかでは、背を短くすることの防止を試み、他では長くすることを試みて、その効果を見ました。しばらくの間、この2つの実験を交互に繰り返し、声への影響を調べていくうちに、喉頭と声のメカニズムが最も良い状態になり、最も声枯れしにくくなるのは、背が長くなるときに起こることを見いだしました。しかし残念なことに、これを実践しようとすると、わたしは長くなるよりも、短くすることの方が多かったのです。この理由を探したところ、それは、長くしようとして頭を前に出したときに、わたしが頭を引き下げてしまうからだ、ということが分りました。さらに実験を続けて、背を長くする状態を維持するには、頭を前に出すときに、頭は、下ではなく上へと向かわせる必要があることを、ついに発見しました。つまり、長くなるためには、わたしは頭を前へ上へと、しなくてはならないのです。

この後のことが示しているように、これは、全ての行動におけるわたしの使い方のプライマリ・コントロールだ、ということが判明します。

ところが、朗誦をするときに、頭を前へ上へとしようとすると、胸を持ち上げてしまう前からの傾向がひどくなって、脊椎のカーブが大きくなり、わたしがいま 「背中を狭くする」 と言っている状態を、引き起こすことに気づきました。これが胴体部分の形と機能の仕方に悪い作用をもたらしていたので、長くすることを保つには、頭を前へ上へとするだけでは十分ではなくて、胸を持ち上げることを防止すると同時に、背中を広くするようにして、頭を前へ上へとしなくてはならない、ことが分りました。

ここまで分ったので、これらの発見を実際に用いてみても良いと考えました。このために、声を使うときに、前の、頭を後ろへ下へ引いて胸を持ち上げる(背を短くする)習慣を防止し、その防止の行動を、頭を前へ上へ(背を長くする)としながら背中を広くするという試みに、結びつけることにしました。これは一つの活動の中で 「防止」を「ドゥイング」に結びつける、最初の体験でした。このときわたしは、これが実行可能だと少しも疑いませんでした。ところが、頭を前へ上へとしながら背中を広くすることを、その動きだけなら実行できるのに、話したりや朗誦を行おうとすると、この状態を維持できなかったのです

行っていると思っていることを行ってはいないのではないか、という疑いを持ったので、もう一度、鏡を助けに使うことにしました。少ししてから、中央の鏡の両脇にさらに2つの鏡を加えて、その助けにより、疑いが正しかったことが分りました。短くなることを防止する行動を、長くなり続けながら同時に話すという試みに、結びつけようとするその重要な瞬間に [at the critical moment] 、意図したようには頭を前へ上へとしないで後ろにやってしまっている、ことを見たからです。そうすべきだと決めて、そう行っていると信じていたことの、反対を行っているという驚くべき証でした。

わたしの失敗談になってしまう、興味深い事実に目を向けてもらうために、ここで話しを中断しましょう。朗誦という慣れた活動で自分が何を行っているか、を知るために行った最初の頃の実験で、鏡の使用がとても役立ったことを、読者は覚えていることでしょう。この過去の経験があって、そこから知見を得ていたにもかかわらず、身体部分の新しい使い方を試そうという実験を始めたときには、それが全く不慣れな感覚体験を伴うものなのに、鏡の助けが今まで以上に必要になるとは、考えすらしなかったのです。

これは、望ましいと思うアイデアを考えさえすれば、それがどんなものでも実行できる、ということにどんなにわたしが自信を持っていたかを示しています。そうでない経験を、それまでしてきていたはずなのにです。それができないことを見つけたときに、それは単に、わたし個人が持っている問題だと思いました。しかしそうではなかったのです。35年に渡って教えた経験と、今まで他に出会った人たちの観察を通して、これは自分が特別なわけではなく、ほとんどの人が共通に犯す誤りだと確信しています。誰もが持つ幻想に、わたしは陥っていました。それは、慣れた感覚を伴う習慣的な動作については、「行おうと思えば」それができるのだから、習慣に反したもので、そのため慣れない感覚体験を伴う動作についても、「行おうと思えば」同じように成功できる、という幻想です。

これに気づいたときに、わたしはとても混乱して、全ての状況をもう一度考え直さなくてはならない、と思いました。喉の障害は声を使うときにわたしが行っている何かが原因だ、と考えた所にまで、わたしは戻ることにしました。そう考えた後に、わたしはこの「何か」が何かと、それに代わる、声の器官を正しく機能させるために行うべきこと、を見つけました。しかし、これはそれほど助けになりませんでした。そう学んだことを朗誦にいよいよ使おうとするときがきて、行うべきことを試みたときに、わたしは失敗したからです。次のステップはもちろん、わたしのドゥイングの中で、どこで誤ってしまうか、を見つけることです。

辛抱強く行う以外には何もできなくて、さまざまな成功と失敗の体験があったそれまでと同じように、何ヶ月も忍耐強く取り組みを行いましたが、これだと思うようなものはありませんでした。しかし、そうこうするうちに、これらの体験はわたしに恩恵をもたらしてくれました。朗誦を行うときに長くなることを保とうとするどんな試みも、ある部分の「間違った使い方」をやめて、良いと思う使い方に単に変えるだけの問題ではない、ということが分ったのです。朗誦を行うときには、立っていたり、歩いていたりするし、身振りや演出として腕や手を使ったりもしますが、それらの動作に必要な身体部分の全てをどう使うかが、また関係していたのです。

鏡を使って観察することで、朗誦をしようと立っているときに、発声とは関係ないと思っていたそれらの部分を、ある誤った方法で使っていることを見ました。頭と首、喉頭、発声と呼吸の器官を、誤って使うときに、それは同時に起きていて、わたしの組織体全体に過度の筋肉緊張をもたらしていました。この過度の筋肉緊張の状態は、特に脚と、足、つま先、の使い方に影響を与えていることを観察しました。つま先が、縮まって下方に曲がっていて、足のアーチが過度に大きくなり、体重が普通よりも足の外側にかかって、バランスが取りづらくなっていたのです。

この発見に何か思い当たるものを探したところ、前に故ジェームズ・キャスカート氏(一時期、チャールズ・キーン氏の劇団にいました)に、劇表現と劇解釈のレッスンを受けたときの指示を思い出しました。彼はわたしの立ち方と歩き方が良くないと思い、しばしば「足で床をつかむように [Take hold of the floor with your feet.] 」と言い、その言葉で何を意図しているかを、見せてくれたものでした。わたしは、彼の真似をしようと最善をつくしました。誤りを直すために何をすべきか指摘されれば、それは当然実行することができて、全てはうまく行く、と思っていたのです。忍耐強く取り組んだことで、まもなくわたしの立ち方は満足のいくものと思うまでになりました。わたしには、彼がそうすることを見た通りに、自分が「足で床をつかんでいる」と思えたからです。

間違ったやり方を直すために、何をすべきかを聞きさえすれば、わたしたちはそれが実行できて、それを行っていると感じるようになったときに、全てはうまく行っていると、とても普通に思われています。しかし、わたしの経験は、この信じ込みが幻想だということを明らかにしています。

この経験を思い出した後に、鏡の助けを借りて、前よりももっと注意深く、わたし自身の使い方を観察し続けました。そして、朗誦のために立っているときに、脚と足とつま先で行っていることが、わたしの組織体全体の使い方に、とても有害な影響を全体的に与えていることに気づきました。これらの部分の使い方が、筋肉を異常に緊張させ、間接的に喉の障害を引き起こしていることを確信しました。そのために先生は、朗誦を改善するためには立ち方を良くする必要がある、と考えたのだと気づいて、さらにこの確信を強くしました。「床をつかんでいる」と思っていたときの誤った使い方は、朗誦をするときに頭を後ろに引いて喉頭を押し潰していた、などの誤った使い方と同じで、この誤った自分の使い方こそが、身体―精神的メカニズム全体の、結びついた「間違った使い方」だということが、次第に分ってきました。そして、これはわたしが全ての動作に対して習慣的に行ってしまう使い方で、わたし自身の「習慣的な使い方」と言えることと、朗誦しようという思いは、他の何かの活動への刺激と同じく、必然的にこの習慣的で誤った使い方を引き起こしてしまい、それは朗誦するときに良い使い方をしようする試みよりも、優勢になることが分りました。

この間違った使い方の作用は習慣的なためにとても強くなりますが、わたしの場合にさらに強くなったのは、朗誦を行うときに先生の指示の「足で床をつかむ」を努力する中で、間違いなく何年もそれを培ってきたからです。この培われた習慣的な使い方は、慣れている間違ったやり方でわたしを使わせる、ほとんど抵抗し難い刺激になって働きます。「全般的な間違った使い方」への刺激は、頭と首を新しい使い方にしたい、という願いからの刺激よりも断然強く、この作用こそが、朗誦しようとして立つとすぐに、望んだ方向とは反対の方向に頭を引かせることが、今や分りました。今やわたしには少なくとも一つのことが明らかでした。朗誦をするときの使い方を改善しようとする、全てのそれまでの努力は、間違った指示されていたことです。

どんな活動でも、ある部分の使い方は人の組織体の他の部分の使い方に密接に結びついていることと、さまざまな部分が互いに及ぼす作用は、それぞれの部分の使い方がどうかによっていつも変わることを、覚えておくことは重要です。ある活動に直接使う部分を、まだ不慣れな新しい方法で使おうとするときには、新しい方法でその部分を使おうとする刺激は、人の組織体の他の部分の使い方への刺激に比べて弱くなります。直接的に使われないそれらの他の部分は、その活動に以前の習慣的なやり方で間接的に使われます。

わたしの場合は、朗誦を良くしようとして、頭と首の不慣れな使い方を試みました。頭と首を新しい使い方にしたいという刺激は、朗誦の活動で培われて慣れ親しんでいる、足と脚の習慣的な使い方を起こす刺激に比べて、弱くならざるを得なかったのです。

ここに、使い方と機能の仕方の状態を、悪いものから良いものに変えるときの困難があります。わたしの教師としての経験からは、その目的が何であれ、誤った習慣的な使い方が強くなっているときには、レッスンの初期段階では、その作用は抵抗できないほどとても強くなります。

このことにより、自分の使い方の指示(ディレクション)[8] という問題全般を、長い時間かけて考えることになりました。「わたしが今まで頼ってきた、この指示(ディレクション)とは、一体何なのだろうか。」と自分に問いました。どのように自分の使い方を指示しているかを、つきつめて考えたことは今まで一度もなくて、自然だと思える方法でわたし自身を習慣的に使っていたことを、認めなければなりません。言い換えれば、他の人たちと同じように、使い方の指示(ディレクション)を「感覚」に頼っていたのです。実験の結果から、指示(ディレクション)のその方法が、わたしを誤らせてしまっていた(頭を前へ上へと意図したときに、わたしは後ろにやっていた、ということがその例です)と判断できます。自分の使い方の指示(ディレクション)に関しては「感覚」は信頼できないことの証拠でした。

これは本当にショックでした。誰かが全くの手詰まり状態に陥ることがあるなら、それはわたしのことでした。使い方の指示(ディレクション)について、それしか頼るものがない感覚があてにならない、という事実に直面していたからです。そのときは、それがわたしだけの問題でわたしの例は例外的だと思ったのですが、それは、物心ついてからずっと悪い健康状態が続いていたからです。しかし、他の人たちについて、その人が考えている通りに自分を使っているかを調べてみて、彼らが自分の使い方を指示する感覚も信頼できないことが、すぐに分りました。実際、わたしとは程度の差だけでしかありませんでした。落胆しましたが、問題に対して希望がない、という思いを拒みました。今までの発見は全く新しい分野の探究の始まりを意味するのではないか、と考えるようになり、それを探りたいという望みに取り憑かれました。「指示(ディレクション)の手段としての感覚が、信頼できなくなるのなら、それを信頼できるものにすることも、きっと可能だ。」と思ったのです。

人間のすばらしい可能性というアイデアは、シェークスピアの次のいきいきとした描写を知って以来、わたしにとってインスピレーションの源でした。

「人間とは、何という素晴らしい作品だろう。なんと高貴な理性を持ち、なんと限りない能力を持ち、姿と振る舞いは、なんと表現豊かで、称賛に値することか。その行動はまるで天使のよう、理解の力はまるで神のようだ。世界の中の、美そのもので、すべての動物のかがみだ。」

しかし今や、これらの言葉は、自分と他の人に見つけたことに反するように、わたしには思えました。人はその可能性にも関わらず、自分自身の使い方でこれほど間違いに陥り、行おうとする全てで機能の低下を招き、しかもこの有害な状態はどんどん悪くなっているのです。こんなありさまでは、「高貴な理性」や「限りない能力」について、何が人間より劣るというのでしょうか。今日、自分の使い方に関して、どのくらいの人が「姿と振る舞いは表現豊かで賞賛に値する」と言えるのでしょうか。これでもまだ、「すべての動物のかがみだ」と見ることができるのでしょうか。

この頃、わたしと他の人の使い方について気づいた間違いについて父と論じ、これに関しては、わたしたちと犬や猫と何も違いがない、と言ったことを思い出します。理由を聞かれたので、「犬や猫が知っている以上には、わたしたちは自分自身をどう使うかを知らないからです。」と答えました。人の使い方の指示(ディレクション)は感覚に基づいていて、非論理的で本能的だという点で動物と同じだ、と言いたかったのです [9]。わたしがこの会話のことを書いたのは、現在の文明生活の状況では、変化の激しい環境にいつもすぐに適応しなければならいので、犬や猫にとっては十分な非論理的で本能的な使い方の指示(ディレクション)が、もはや人の要求を満たさないことを、このときすでに気づいていたことを示すためです。使い方の本能的なコントロールと指示(ディレクション)がとても不十分なものになり、それに伴う感覚はガイドとしてとても信頼できないものになっているので、行いたいと思ったり、行っていると思っていることとは、全く反対のことを人にさせるまでになっていることを、わたしと他の人の事例で明らかにしています。わたしが考えたように、感覚が信頼できなくなることが文明生活の産物ならば、それは時を経るにつれ、より一層共通の脅威になるので、感覚を信頼できるようにする手段を知ることは価値があるでしょう。それに対する知見を探ることは、全く新しい分野の探究への道を開き、今まで耳にしたどんなものよりも、未来に希望を持たせるものだと考えました。そして、わたしの困難を、この新しい事実の視点から考えるようになりました。

(48段落まで載せましたが、この章は全部で69段落まであります。)

[1] 【訳注】unity は、いろいろな意味をもちますが、ここの文脈では、「統一性」ではなく「単一性」と訳すことにしました。日本語では、「心身を統一させる」という言い方もあり、そのときはまだ分離したものと考えているからです。今後、文脈に応じて異なる訳を使うときもあります。

[2] わたしが使い方 [use] というときは、「腕の使い方」や「脚の使い方」といった、ある特定の部分の「使い方」という通常の意味ではなく、人の組織体全般の働き、というもっと広く包括的なものを指すことを、明確にしておきたいと思います。腕や脚、といったある特定の部分を使うときは、その部分以外の人の組織体の心身的メカニズムを使う必要があり、それらが一緒に働くことが、特定の部分を使うようにさせる、と考えているからです。

[3] わたしが「防止」という言葉を使っているのは、これがわたしの意図にふさわしくて、完全に適しているからではなくて、それに代わる適当な言葉を見つけることができないからです(これは「対処」という言葉にもあてはまります)。防止という言葉が本来意味しているのは、完全で満足な状態が存在し、それが悪くなることを防ぐことができることです。今日では、この意味で予防や防止を行うことは実質的にできません。なぜなら、文明化された人の現在の状況では、「使い方と機能の仕方」が全く悪くなっていない人を、見つけることは実際できないからです。そのため、わたしが「防止」とか「対処」という言葉を使うときには、ただ相対的な意味でだけ使っていて、「防止的な処置」と言うときには、欠陥や不具合、病気を防止する手段として、人の組織体全体としての間違った使い方と機能の仕方を防止する全てを含むし、「対処的な処置」というときには、欠陥や不具合、病気を扱うときに、誤った使い方が機能を悪くすることは考えない方法のことを言っています。

[4] 医師の診断は、喉と鼻の粘膜の炎症と、声帯(普通より緩み過ぎていると言われました)の炎症でした。わたしの口蓋垂(こうがいすい)はとても長く、ときどきひどい咳の発作を引き起こしていました。このため2人の医師が、簡単な手術で短くするようにと勧めましたが、わたしは従いませんでした。今では、「牧師の腫れたのど [clergyman’s sore throat] (慢性喉頭炎のこと)」と呼ぶものを、患っていたに違いないと思っています。

[5] これが、他になりようがなかったのは、話すときの自分の使い方の間違いを見つけるために、必要な種類の観察を行った経験がなかったからです。

[6] 【訳注】 primary control 主要な制御要素。使い方を決定する因子の中に、最大の影響力を持つもの、という意味です。primaryには、1番目という意味もあります。

[7] おそらく「背を増加させる [increase the stature] 」「背を減少させる [decrease the stature] 」という方がより正確でしょうが、「背を長くする [lengthen the stature] 」「背を短くする [shorten the stature] 」を使うことにしました。このような場合で、「長くする [lengthen] 」「短くする [shorten] 」が最も普通に使われているからです。

【訳注】

日本語では「背を伸ばす」「背を縮める」が普通に使われていますが、lengthen, shortenという語感から「長くする」「短くする」を使うことにしました。「伸ばす」「縮める」という言葉からextend, compressといった単語を連想しないように、という理由もあります。

[8] 「わたしの使い方の指示(ディレクション)」とか、「わたしは使い方を指示した」などのように、「指示 [direction]」や「指示した[directed]」という言葉を「使い方」と一緒に使うときは、脳からそのメカニズムにメッセージを出す [project] ことと、そのメカニズムを使うために必要なエネルギーを伝えること、に関わる一連のプロセスを意味したいと思っています。
【訳注】direction を、「指示(ディレクション)」と訳しています。アレクサンダーは、この脚注で説明していように、この言葉に普通とは少し異なる意味を持たせていますが、それでもとても特殊な言葉というわけではありません。それが分るように、名詞として使われるときは、冗長になりますがこの後も「指示(ディレクション)」としています。動詞で使われているときには、訳にカッコの補足は付けていませんが、そのときも、ここでアレクサンダーが書いている意味合いが含まれています。

[9] 複雑な技術をうまく行っているスポーツ選手は、その動きを意識的にコントロールしているのではないか、という反論があることでしょう。「試行錯誤」のプランに基づいた練習により、その技術のある動きで自動的な熟達を達成することは、多くの場合で可能です。しかしこれは、動きを意識的にコントロールしているという証拠にはなりません。スポーツ選手が意識的に動きをコントロールして、ある動きを協調させて行っているという稀な場合でも、まだ全体としての彼自身の使い方を、活動の中で意識的に行っているとは言えないのです。なぜなら彼は、彼が望む特定の動きを行うために、全体としての彼のメカニズムのどんな使い方が最も良いかを知らない、と考える方が妥当だからです。そのため、これはよく起こることですが、彼のメカニズムの習慣的な使い方を変えるような何かが起こると、その動きを行う熟練した能力に妨げが起こります。実際に起こっているように、一度選手が前の熟達のレベルを失うと、それを取り戻すことは容易ではないのですが、これは彼が、自分の全体的な使い方をどう指示するか、の知見を持っていないことを考えれば、驚くことはありません。それだけが、自分のメカニズムを、慣れていた熟達の動きができる使い方にしてくれるからです(これに関連しては、吃音の人の特徴を意図的に真似した人が、自分に吃音の習慣を作ってしまい、いろいろ努力をしても前の熟達のレベルにあった話し方に戻れなくなる、という事例が多く知られています)。

スポーツ選手はこの知見を持っていないので、動物と同じように、メカニズムを働かせる指示(ディレクション)については、感覚に頼らざるを得ません。大多数のスポーツ選手の感覚は程度の差こそあれ信頼できなくなっているので(これは示せる事実です)、その活動のためのメカニズムは、誤って指示されざるを得ません。そのような指示(ディレクション)は、動物のそれと同じく論理的でないので、意識的で論理的な指示(ディレクション)とは異なるものです。後者は自分というメカニズムを一体として働くようにするプライマリ・コントロールに伴うものです。

PAGETOP
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.