BodyChanceのプロコースで教えるアレクサンダー・テクニーク教師ヤスヒロ(石田 康裕)のページです。テクニークの歴史や役立ち情報など多くを載せています。教育分野(学校の先生など)での応用にも力を入れています。ヤスヒロは、埼玉・東京でのレッスン、出張レッスンを行っています。機械工学修士で27年間、高校で教えました。

テクニークの進化

  • HOME »
  • テクニークの進化

「自分の使い方」 F.M.アレクサンダー 1931年出版

第一章「テクニークの進化」の最初の3分の2の訳をヤスヒロ訳で載せます。

1 わたしが以前に著した二冊の本「Man’s supreme inheritance」 (人間が受け継いでいる最高のもの)と「Constructive Conscious Control of Individuals」(個人の建設的で意識的なコントロール)は、人間という有機体を誤って使っている状態を改善するために、わたしが何年もかけて徐々に進化させてきたテクニークについて述べています。探求を開始したときには、他の人たちと同じように「体 [body] 」と「心 [mind ] 」は一つの有機体の中の異なった部分であると考えていたこと、その結果として、人の苦しみや困難・欠陥を「精神的 [mental] 」または「身体的 [physical] 」と分類し、こう分類することで、明確に「精神的(心的)」または「身体的」なものとして別々に扱えば良い、と信じていたことを認めなくてはなりません。実体験を使って実験を行う中で、わたしはこの見方を捨てるようになりました。いかなる人間活動のプロセスも「精神的」とか「身体的」と分けることは不可能である、という逆の考えにわたしのテクニークが基づいていることを、読者は知ることになります。

2 人間有機体についての考えをこのように変えたことは、わたしが理論上で考えたことの単なる結果として起こったわけではありません。生きている人間の体験を通して実験する、という新しい分野の探求により、このように変更をせざるを得なくなったのです。

3 人間の活動は精神的なプロセスと身体的なプロセスが一体となって働いている、という見方を受け入れている人でさえも、この統一性が実際にどう働くかを受け入れることは、多くの人にとって困難であることを、読者からの手紙が示しています。この困難はわたしが教える際にいつも生じるものですが、自分の使い方 [the use of the self]*1 においては、精神的なものと身体的なものが全ての活動で一緒に働いていることを、生徒へのレッスンでは実際に示すことができます。繰り返しこれを行うことにより、生徒は確信を持っていくのです。しかし、たとえ大規模な教室を開いたとしても、1人が扱うことのできる生徒の数は当然限られているため、このような実体験を持てる人の数はかなり少なくなります。わたしはこの本の中で、テクニークを発展させてくれた探求の過程を、始めから語ろうと決めました。行った実験の具体的な内容をできるだけ詳しく述べ、そこで観察し体験したことを語りたいと思います。そうすることで、ついには次のように確信させてくれた出来事を、順序立てて追っていく機会を、読者自身に与えることができるからです。確信を持ったのは、

(1) 「精神的 [mental] 」とか「身体的 [physical] 」と言われているものは、別のものではない。

(2) このため、人間の苦しみや欠陥は「精神的」、「身体的」と分類することはできず、片方だけで対処することはできない。それらに対する対処法はすべて、教育的 [educative] であろうがなかろうが、すなわち欠点・欠陥・病気を予防する [prevent] *2ものであれ、取り除こう [eliminate] とするものであれ、人間有機体という分離不可能な統一体 [unity] に基づかなくてはならない。

ということです。

*1 [脚注]
わたしが使い方 [use] というときは、「腕の使い方」や「脚の使い方」といった、ある特定の部分の「使い方」という通常の意味ではなく、「人間の有機体全体の働き」というもっと広く包括的なものを指していることを明確にしておきます。腕や脚といったある特定の部分を使うときには、その部分以外の人間有機体の精神-身体メカニズム [psycho-physical mechanism] を使う必要があり、全体の協調した働きがそれら特定の部分を使うことになると考えているからです。

*2
わたしが「予防 [prevention] 」という言葉を使っているのは、これが目的に完全に合ったふさわしい言葉だからでなく、それに替わる適当な言葉を見つけることができないからです(これは「治癒 [cure ]」という言葉にもあてはまります)。予防という言葉が本来意味するところは、完全で満足な状態が存在し、それが悪くなることを防ぐことができるということです。この意味では、今日では予防を行うことは実質的にできません。なぜなら、文明化された人間の現在の状況において、使い方と機能 [use and functioning] が全く悪くなっていない人を見つけることは実際にできないからです。そのため、わたしが「予防」と「治癒」という言葉を使うときには、2つのことを対比させています。たとえば、「予防的」な処置というときには、人間という有機体全体を誤って使ってしまうことと、機能が悪化することを防止すること(これは欠陥・不具合・病気が起こることを予防します)を意味するし、「治癒的」な処置というときには、欠陥・不具合・病気を扱うときに、誤った使い方が機能を悪くすることは考えない方法であることを意味します。

 

4 これを疑う読者には、たとえば腕を持ち上げたり・歩いたり・話したり・眠ったり・何かを学び始めたり・問題についての解答を考えたり・決断したり・人の要求や願いに同意したり同意しなかったり・不足感を充たしたり・急な衝動を充たしたり、といった活動のプロセスが、純粋に「精神的」または「身体的」であるという確実な証拠を示すことができるか、と問うことにしましょう。この問には多くの意見が出てくることでしょう。しかし、わたしがこれから述べる体験を通して、読者がその過程を追っていくならば、2つが一緒にならざるを得ないという考えに導かれます。

5 かなり若い頃から詩に喜びを感じていました。シェークスピアの劇を学び、声に出して読み、登場人物の性格を解釈することに没頭することは、わたしの大きな喜びでした。このため、雄弁術 [elocution] と朗誦術 [art of reciting] に熱中し、ときどき人前で朗誦 [recite] することを頼まれるまでになりました。十分な成功を得たので、シェークスピアの朗誦を仕事にしようと思い、劇表現法の全ての分野について長い時間をかけ一生懸命勉強しました。アマチュアとしてしばらく経験を積んだ後、わたしの技術がプロの厳しい基準に十分見合うと思うまでになりました。周りの評価も同じだったので、わたしは朗誦家になる決断をしました。

6 何年かは全てうまくいっていましたが、そのうちのど [throat] と声帯に異常を覚えるようになりました。その後まもなく、朗誦しているときに息を吸う音が聞こえることを友人から指摘されました。彼らは、口から「あえぎ [gasping] 」や、「息をすするように吸う [sucking in the air] 」音が聞こえると言うのです。そのときすでに起こり始めていた「のど」の障害よりも、これはわたしを不安にさせました。なぜなら、朗誦家や俳優、歌手がよくやっているような、息を吸い込むときの呼吸の音がでないことを、わたしは誇りとしていたからです。この間違った呼吸を直し、声が枯れてしまうことから解放されることを願って、わたしは何人もの医者やボイストレーナーにアドバイスを求めました。彼らは良くしようとできるだけのことをしてくれましたが、朗誦のときのあえぎと息をすすることは、より一層ひどくなり、より早く声が枯れてしまうようになりました*。わたしが受けていた治療の効果はしだいに薄れていき、障害が徐々に大きくなっていったのです。とても困ったことに、数年後ついには、ときに全く声が出なくなるまで声の枯れはひどくなってしまいました。生まれてから何度も体の不調があり、それがいろいろなことへの障害になっていたので、たびたび声が枯れてしまうということも、わたしの声の器官の何かの欠陥ではないか、と疑い始めました。最も困ったのはとても魅力的で重要な仕事が来たときです。そのころまでには、自分の声に関わる器官の状態にとても自信を失っていたので、それを受けることを本当に怖く感じました。前の処置が失望させるものでしかなかったのですが、わたしはもう一度医者に相談することにしました。医者は、もう一度わたしののどを検査し、リサイタル前の2週間、朗誦を差し控え、声をできるだけ使わないようにして、処方した治療に従うならば、声は普通になるだろうと断言しました。

* [脚注]
医者の診断は、のどと鼻の粘膜の炎症と、声帯(普通よりゆるみすぎていると言われました)の炎症でした。わたしの口蓋垂(こうがいすい 「のどちんこ」のこと)はとても長く、ときどきひどい咳の発作を引き起こしていました。このため、2人の医者が手術により短くすべきだと勧めてきました。今になってみると「牧師の腫れたのど [clergyman’s sore throat] (慢性喉頭炎のこと)」と呼ばれるものを患っていたに違いないと思っています。

7 わたしはその指示に従うことにし、それを約束しました。声をできるだけ使わないようにしたら、声の枯れは少しずつなくなっていったので、数日後には医者の言ったことはうまくいくだろうと感じました。そしてリサイタルの夜が来たときには、声の枯れはきれいになくなっていたのです。しかし、プログラムの半分もいかないうちに声の状態は今までになかったほど悪くなり、終わりころにはとてもひどくて話すことさえできないありさまでした。

8 一時的な回復しか望めず、とても興味を持ち、かつ成功できると思っている職業をあきらめざるを得ないという思いは、わたしを言い表せないくらい落胆させました。

9 翌日医者に会い、この状況について話し合いました。終わりに何ができると思うかと尋ねたところ「この治療を続けなければならない。」と彼は言いました。「それはできません。」とわたしは答え、治療をしている間に公の前では声を使わないという指示を、これだけ忠実に実行したのに、リサイタルで声を使い出したら、1時間もしないうちに枯れ声に戻ってしまったことを指摘しました。「それならば、あの夜わたしが声を使うときにやっていた何かが、これを引き起こしたと考えるのが妥当ではないですか。」と言うと、彼はしばらく考えた後「そうだね、そうに違いないだろう。」と言いました。「それなら、わたしがやっていた何がこれを引き起こしたか、答えることができますか。」という問に、彼はそれがわからないことを正直に認めました。「わかりました。もしそうなら、わたしは自分自身で探さなくてはいけないということですね。」とわたしは言ったのです。

10 この探求を始めたとき、わたしには2つの事実がありました。朗誦を始めると声の枯れやすい状態になってしまうことと、普段の会話以外には声を使わずに、のどと声の器官に医者の治療を受けるならば、声の枯れはなくなっていくことを、体験から学んでいたのです。この2つの事実の意味を検討した結果、朗誦のときには枯れ声になるのに、普通の会話ではそれは起きないとすれば、朗誦のときにやっていることと普通の会話でやっていることが別であるに違いないと考えました。これが本当で、実際に何か違いを見つけることができれば、声枯れをなくす助けになるし、少なくとも実験を行うことは何の害もないはずです。

11 この目的のために鏡を使い、普通の会話と朗誦の2つについて「行っていること [doing] 」を観察することに決めました。何かの違いを見つけることを期待したのです。普通の会話は、より単純な行動といえるので、まずこのときの自分の状態を観察することから始めることが良いように思えました。より複雑な行動である朗誦を観察するときに、何かの参考となるだろうからです。

12 鏡の前に立ち、普通に話しているときのようすを注意深く観察しました。何度も繰り返しましたが、わたしの動作には、間違いや異常と感じるものは特に何も見つけることはできませんでした。次に、朗誦のようすを鏡の前で注意深く観察することにしました。すぐに、単に話しているときには気づかなかったことを、いくつか見つけました。特に3つのことが際だっているように思えました。朗誦を始めるやいなや、頭を後ろに引き [pull back the head] 、喉頭(こうとう)を押し潰し [depress the larynx] 、あえぎ声を出すように口で息をすすり込もうと [suck in breath through the mouth in such a way as to produce a gasping sound] していることを見たのです。

13 これらの傾向に気づいたあと、普通の会話ではどうやっているのかを、もう一度観察してみました。朗誦の観察で見つけることができた3つの傾向は、普通に話しているときにも程度の差こそあれ存在することに、ほぼ疑いの余地はありませんでした。それらはほんとうに僅かなものだったので、普通に話しているときの自分を最初に観察したときには、全く気づくことができなかったことも納得がいきます*。普通に話しているときにやっていることと、朗誦しているときにやっていることの違いを発見することができたので、多くのことを説明できる決定的な事実をつかむことができたと思い、さらに続けていく元気がでてきました。

* [脚注]
これは無理のないことです。このときには、(声を使っているときの)わたしの自分の使い方の誤りを見つけることができるような、必要な種類の観察を行った経験がなかったからです。

 

14 鏡の前で繰り返し繰り返し朗誦を行い、気づいていた3つの傾向が、声に対する要求度のとても高い一節を朗誦するときに、特に顕著になることを見つけました。このことは、朗誦をしているときに自分がやっていることと、のどの障害は何かの関係がある、という初めの考えに確証を与えました。これは非合理な推測ではないと思います。なぜなら、普通に声を使っているときにわたしがやっていることは、それと気づくような害がないのに、朗誦の中で声への特別な要求に応えようとしてやっていることは、声が枯れる状態をすぐに作り出していたからです。

15 このことから、頭を後ろに引き、喉頭を押し潰し、息をすすることが、実際に声の障害を生んでいるのだから、これは発声に関係する部分を間違って使っている(誤用) [misuse of the parts concerned] のだと推測しました。今やわたしはこの障害の元を発見した、と思いました。もし声の枯れが、わたしという有機体のいくつかの部分の使い方から生じているのであれば、改善するには、この誤用 [misuse] が起こらないようにするか、変えたりする必要があるということになります。

16 でもこの発見を実際に活かそうと思ったとき、わたしは迷路の中にいるのだということに気づきました。どこから始めればよいのでしょう。息をすすることが、頭を後ろに引くことと喉頭の押し潰しを起こしているのでしょうか。頭を後ろに引くことが、喉頭の押し潰しと息をすすることを起こしているのでしょうか。それとも喉頭の押し潰しが、息をすすることと頭を後ろに引くことを起こしているのでしょうか。

17 この問に答えることができなかったので、わたしにできることは、忍耐強く鏡の前で実験を続けることだけでした。数ヶ月を経たあとに、朗誦を行っているときに息をすすることと喉頭を押し潰すことを直接的にやめることはできないけれども、頭を後ろに引くことだけは、ある程度やめることができることを見つけました。これは後にとても重要だとわかった発見に至らせます。その発見と言うのは、頭を後ろに引くことを抑えることにより、息をすすることと喉頭を押し潰すことを間接的に抑えることができるということです。

18 この発見の重要性を過大評価しすぎることはできません。なぜなら、人間有機体の全てのメカニズムの働きに関してプライマリコントロール [primary control 主要な制御要素 [訳注]使い方を決定する要素の中に、最大の影響力を持つものがあるということ、1番目という意味もあります] があることを、このことをもとにして発見することができたからです。これはわたしの探求の1番目の重要な段階でした。

19 これらの部分の誤用を防止することにより、朗誦をしているときの声の枯れがひどくなくなり、体験を徐々に重ねていくにつれて、声枯れが起こりづらくなってきていることに気づきました。それだけではありません。実験の後に、友人の医者にのどをもう一度見てもらったところ、喉頭と声帯の状態がとても良くなっていることもわかりました。

20 わたし自身に見つけた3つの有害な傾向を抑えることで、使い方 [use] を変えることができ、声と呼吸のメカニズムの機能 [functioning] に顕著な効果をもたらしたということが、これによってわたしにははっきりしました。

21 今考えると、こう結論づけたことは、わたしの探求の2番目の重要な段階と言えます。なぜなら、使い方 [use] と機能 [functioning] に密接な関係があることを、この実際の体験で初めて気づくことができたからです

22 これまでの経験は次のことを示してくれました。
(1) 頭を後ろに引いてしまう傾向が、のどの障害に関係があること。
(2) 頭を後ろに持っていくことを単に防止するだけで、ある程度障害を減らすことができること。これは、この防止の行為 [act of prevention] により、喉頭を押し潰すことと、息をすすることを間接的に防止できたからです。
このことより、もし頭をもっと前に出したならば、声と呼吸のメカニズムをより良く機能させることができて、枯れ声になることを全くなくすことができるのではないかと考えました。そのため、次のステップとしては、頭をしっかり前方に、それも正しいと感じるよりももっと前方の位置に持っていくことを、試すことにしました。

23 でもこれを実際にやってみたら、ある位置を越えて前に出したときには、前に出すと同時に頭を引き下げる [pull it down] 傾向があり、見た限りでは、声や呼吸の器官に対する影響は、頭を後ろに下にと引いていたときと全く同じでした。どちらの方法も、のどの障害をひき起こす喉頭の押し潰しが、同じように起きていたからです。この頃には、声を正常にするためには、喉頭の押し潰しをやめなければならないと確信していたので、喉頭の押し潰しを起こさない頭と首の使い方 [use of head and neck] が見つからないものか、と思いながら実験を続けました。

24 この長い期間の中で行ったさまざまな実験を、詳細に述べることは不可能です。喉頭の押し潰しを引き起こす頭と首のどんな使い方も、胸を持ち上げ [lift the chest] 、背を短く [shorten the stature] * する傾向があることに、この実験の過程で気づくことができた、という点を言っておけば十分でしょう。

* [脚注]
おそらく「背を増加させる [increase the stature] 」「背を減少させる [decrease the stature] 」という方がより正確でしょうが、「背を長くする [lengthen the stature] 」「背を短くする [shorten the stature] 」を使うことにしました。このような場合では、「長くする [lengthen] 」「短くする [shorten] 」が最も普通に使われているからです。

【訳注】
日本語では「背を伸ばす」「背を縮める」が普通に使われていますが、lengthen, shortenという語との連想性の良さから「長くする」「短くする」を使うことにしました。「伸ばす」「縮める」という言葉からextend, compressといった単語への連想を避けるためもあります。

25 振り返ってみると、これはまた大きな可能性を秘めた発見だったことに気づきます。あとの出来事が、これがわたしの探求の分岐点であったことを裏付けています。 

26 この新しい手がかりは、発声の器官の機能は、胴体全体の使い方 [manner of using the whole torso] によって影響を受けていることを示してくれました。また、頭を後ろに下にと引くことは、わたしが思っていたような、ある特定の部分の誤用ではなく、背が短くなることを起こさせる別のメカニズムの誤用と、密接に結びついているということもです。そうならば、頭と首の誤った使い方を防止するだけでは、わたしが必要とする改善を期待することはできないのです。背を短くすることに関っていた別の誤用を防止しなければならないことを、わたしは知りました。

27 このことで、わたしは多くの実験を行いました。そのうちのいくつかでは、背を短くすることの防止を試み、他では長くすることを試みて、その効果を見ました。しばらくの間、この2つの実験を交互に繰り返し、声への影響を調べていくうちに、喉頭と声のメカニズムが最も良い状態になり、最も声が枯れにくくなるのは、背を長くするときに起こることを見いだしました。しかし残念なことに、これを実践しようとすると、長くするよりも短くしてしまう方がはるかに多かったのです。この理由を探していく中で、長くしようとして頭を前に出したとき、わたしは頭を引き下げてしまいがちであることがわかりました。さらに実験を続け、背を長くする状態を維持するためには、頭を前にだすとき、頭は下方ではなく上方に向かわせる [my head should tend to go upwards, not downwards, when I put it forward] 必要であることをついに発見しました。つまり、長くなるためには、わたしは頭を前へ上へと [put my head forward and up] しなくてはならないのです。

28 この後のことが示しているように、これは、全ての行動におけるわたしの使い方のプライマリコントロール [primary control] であることが判明します。

29 ところが、朗誦をしているときに頭を前へ上へとしようとすると、胸を持ち上げてしまう前からの傾向がひどくなって、背骨のカーブが大きくなり、わたしがいま 「背中を狭くする [narrowing of the back] 」 と言っている状態を引き起こしてしまうことに気づきました。これが胴体部分の形と機能 [the shape and functioning of the torso itself] に悪い作用をもたらしていたので、長くすることを保つには、頭を前へ上へとするだけでは十分ではなく、胸を持ち上げることを防止する [prevent the lifting of the chest] と同時に背中を広くする [bring about a widening of the back] ようにして、頭を前へ上へとしなくてはならないと分かりました。

30 ここまで分かったので、これらの発見を実践に移しても良いと考えました。声を使うとき、頭を後ろへ下へと引き、胸を持ち上げる(背を短くする)という以前の習慣を防止し、この防止の行動を、頭を前へ上へ(背を長くする)としながら、背中を広くする試みと結びつけたのです。これは 「防止 [prevention] 」と「行為 [doing] 」 を一つの活動の中で結びつける最初の体験でした。このときわたしは、これが実行可能であることを少しも疑っていなかったのです。ところが、頭を前へ上へやり背中を広くすることは実行できるのに、会話や朗誦を行うと、この状態を維持できないことを見いだしたのです。

31 行っていると思っていることを、行ってはいないのではないか、という疑いを持ち、もう一度鏡を助けに使うことにしました。少ししてから、さらに2つの鏡を中央の鏡の両脇に加え、その助けにより、疑いが正しかったことを見いだしました。短くなることを防止し、長くなることを続ける試みを同時に行って、さあこれから話そうとするその重要な瞬間に、意図したようには頭を前と上へとせずに、後ろにやってしまうのを見たからです。そうすべきだと決め、そう行っていると信じていたことと反対のことをやっている、という驚くべき証でした。

32 わたしの失敗談になってしまう興味深い事実に目を向けてもらうために、ここで話しを中断しましょう。朗誦という慣れた活動で、自分が何を行っているかを知るために行った最初の頃の実験で、鏡の使用がとても役だったことを読者は覚えていることでしょう。この過去の経験があり、そこから知見を得ていたにもかかわらず、身体部分の新しい使い方を試そうという実験を始めたとき、それが全く初めての感覚経験 [sensory experience] を伴うものなのに、さらに鏡の助けを借りることが必要だと、考えすらしなかったのです。

33 これは、望ましいと思うアイデアを考えさえすれば、それがどんなものであっても実行できるということに、どんなにわたしが自信を持っていたかを示しています。そうでない経験を、それまでしてきていたはずなのにです。それができないことを発見したとき、それは単にわたし個人の愚かさによるものだと思いました。しかしそうではなかったのです。35年に渡って教えた経験と、今まで出会った人たちの観察を通して、これは自分の愚かさのせいでなく、ほとんどの人が同じように犯してしまう誤りであることを、確信しています。誰もが持つ幻想にわたしは陥っていたのです。それは、習慣的で感覚にとって慣れた動作については、「行おうと思えば」それができるのだから、習慣的でなく、そのため感覚にとって不慣れな動作についても、「行おうと思えば」同じように成功できる、という幻想です。

34 これに気づいたときわたしはとても混乱し、全ての状況をもう一度考え直さなくてはいけないと思いました。のどの障害は、声を使うときにわたしが行っている何かが原因である、と考えたところまで、わたしは戻ることにしたのです。そう考えた後に、わたしはこの「何か」が何であるかと、それに代わる、声の器官を正しく機能させるために行うべきことを見つけていました。でもこれはそれほど助けになりませんでした。朗誦について学んだことを、いよいよ使おうとするときがきて、行うべきことを試みようとしたときに、わたしは失敗していたからです。次のステップはもちろん、わたしが「行っていること [doing] 」の中で、どこで誤った方向に行ってしまうかを見つけることにありました。

35 辛抱強くなる以外になにもできず、何ヶ月も、わたしは忍耐強く取り組みを行いました。その間、さまざまな成功と失敗の体験をしましたが、これだと思うようなものはありませんでした。しかし、そうこうするうちに、これらの経験はわたしに恩恵をもたらしてくれました。朗誦のときに長くなることを維持する [maintain my lengthening] いかなる試みも、ある部分の誤用をやめて良いと思う使い方に単に変えるだけの問題ではないことがわかったのです。朗誦を行うときには、立っていたり、歩いていたりするし、身振りや演出として腕や手を使ったりもするのですが、それらの動作に必要な身体部分の全てをどう使うかが、また関係していました。

36 鏡を使って観察することで、朗誦をしようと立っているときに、発声とは関係ないと思っていたそれらの部分を、ある誤った方法で使っていることを見たのです。頭と首、喉頭、発声と呼吸の器官を誤って使うときに、それは同時に起きていて、わたしという有機体全体にひどい筋肉緊張をもたらしていました。この過度の筋肉緊張の状態は、特に脚と足とつま先の使い方に影響を与えているのを観察しました。つま先を縮めて下方に曲げていたため、足のアーチが異常に大きくなり、体重が普通よりも足の外側にかかり、バランスがとりづらくなっていたのです。

37 この発見に何か思い当たるものを探したところ、故ジェームズ キャスカート氏(一時期、チャールズ キーン氏のグループにいました)に以前、劇表現と演出 [dramatic expression and interpretation] についてのレッスンを受けたときの指示を思い出しました。彼はわたしの立ち方と歩き方が良くないと思っていたので、しばしば「足で床をつかむように [Take hold of the floor with your feet.] 」と指示し、その言葉で何を意図しているかを見せてくれたものでした。わたしは彼の真似をしようと最善をつくしました。誤りを正すために何をすべきかを指摘されたならば、それが当然実行することができて、全てはうまくいくだろうと思っていたのです。忍耐強く取り組み、まもなくわたしの立ち方は、満足のいくものだと考えるまでになりました。わたしには、彼がするように「足で床をつかんでいる」と思えたからです。

38 間違ったやり方を直すために、何をすべきかを聞きさえすれば、わたしたちはそれが実行できて、それを行っていると感じるようになったときには、全てはうまく行っている、ととても普通に思われています。しかし、わたしの経験は、この信じ込みが幻想であることを明らかにしています。

39 この経験を思い出した後、鏡の助けを借りて、前よりももっと注意深くわたし自身の使い方を観察し続けました。そして、朗誦のために立っているときに、脚と足とつま先で行っていることが、わたしの有機体全体の使い方に対して、最も有害な影響を全体的に与えていることに気づきました。これらの部分の使い方が、筋肉を異常に緊張させ、間接的に、のどの障害を引き起こしたということを確信したのです。だからこそ先生が、朗誦を改善するためには立ち方を良くする必要がある、と考えたのだと思いあたり、さらにこの確信を強くしました。「床をつかんでいる」と思っていたときの誤った使い方は、朗誦をしているときの、頭を後ろに引き喉頭を押し潰すなどの誤った使い方と同じであり、この誤った自分の使い方こそが、身体―精神メカニズム [physical-mental mechanism] 全体についての、組み合わさった誤用 [a combined wrong use] だということが次第にわかってきました。そしてこれは、わたしが全ての動作に対して、習慣的に行ってしまう使い方 [the use which I habitually bring into play] であり、わたし自身の「習慣的な使い方 [habitual use] 」といえることと、朗誦しようという思いは、他の何かの活動への刺激 [stimulus] と同じく、必然的にこの習慣的で誤った使い方を引き起こしてしまい、朗誦をするときに良い使い方をしようという試みよりも、優勢になってしまうことに気づいたのです。

40 この作用は習慣的であるために、とても強いものですが、わたしの場合はさらに強められていることに理由がありました。先生の指示の「足で床をつかむ」ことを、朗誦のときに行う努力をしていたことが、間違いなく強く働いたからです。この培われた習慣的な使い方 [cultivated habitual use] は、慣れ親しんでいる誤用への、抵抗し難い刺激となって働きます。全体的といえる誤用への刺激は、頭と首だけを新しい使い方にしようという思いによる刺激よりも断然強く、この作用こそが、朗誦しようと立つやいなや、望んだ方向とは反対の方向に頭を引かせてしまうことがわかりました。いまやわたしには少なくとも一つのことが明らかでした。朗誦をするときの使い方を改善しようとする全てのそれまでの努力は、間違った方向に行われていた [misdirected] ということです。

41 いかなる動作においても、ある部分の使い方は人間という有機体の他の部分の使い方と密接に結びついている、ということを覚えておくことは、とても重要です。各部分がお互いに及ぼす作用は、それぞれの部分の使い方のようす[manner of use] の違いで、いつも変化していることも重要です。動作に直接使っている部分を、少しでも新しく不慣れな方法で使おうとしたならば、新しい方法でその部分を使おうとする刺激は、人間有機体の他の部分の使い方への刺激にくらべて弱いのです。直接使われていない部分は、以前の習慣的なやり方で、動作に対して間接的に使われています。

42 わたしの場合は、朗誦を良くしようとして、頭と首の不慣れな使い方をする試みをしたわけです。頭と首を新しい使い方にしようとする刺激は、朗誦で培われて慣れ親しんだものになった足と脚の習慣的な使い方の刺激にくらべ、弱くならざるを得ないものでした。

43ここに、使い方と機能の状態を、悪いものから良いものに変えようとするときの困難があります。わたしの教師としての経験からいうと、その目的が何であれ、誤った習慣的な使い方が強くなっている場合には、レッスンの初期段階にその作用は抵抗できないほどとても強いものです。

 

44 このことより、自分の使い方の方向性(ディレクション) [direction of the use of myself 【訳注】ここでは「自分を使うときの指示の与え方」という意味]  *という問題全般について、長い時間をかけて考えることになりました。「わたしがどうであるかを今まで左右してきた、この方向性(ディレクション)というものは、一体、何なのだろうか。」と自分に問いました。どのように自分の使い方を方向づけているか [how I directed the use of my self] について、つきつめて考えたことは今まで一度もなく、普通だと思えた方法で、わたし自身を習慣的に使っていたことを認めなければなりません。言いかえれば、他の人たちと同じように、使い方の方向性を「感覚 [feeling] 」に頼っていたのです。実験の結果から、方向性(ディレクション)についてそのようにしていたことが、わたしを誤らせてしまっていた(頭を前と上へと意図したときに、わたしは後ろにやっていた、ということがその例です)と判断できます。使い方の方向性 [direction of my use] については「感覚 [feeling 【訳注】「感じていること」という意味での感覚であることに注意してください。] 」は信頼できないことの証拠でした。

* [脚注]
「わたしの使い方の方向性 [direction of my use] 」とか、「わたしは使い方を方向づけた [I directed the use ] 」などのように、「方向性 [direction] 」と「方向づける [directed] 」という言葉を「使い方 [use ] 」という言葉と一緒に使うときは、次の二つに関わる一連のプロセスのことを示したいと願っているのです。それは、脳からそのメカニズム [mechanism機構、しくみ ] にメッセージ [message] を出す [project] ことと、そのメカニズムを使うために必要なエネルギ [energy] を伝える [conduct] ことです。

45 このことは本当に衝撃でした。わたしは全くの手詰まり状態に陥りました。使い方の方向性(ディレクション)について、それしか頼るものがないといえる「感覚」が、あてにならないという事実に、直面していたからです。物心ついてからずっと、悪い健康状態が続いていたので、わたしのケースは例外的なものと、そのときは考えました。しかし、他の人たちの使い方について、その人が考えている通りかどうかを調べてみて、わたし以外の人たちを方向づけている感覚も信頼できない、ということがわかりました。実際、わたしとは程度の差だけでしかなかったのです。落胆していましたが、問題に対して希望がないという思いは拒みました。今までの発見は、全く新しい分野の探究の始まりを意味するのではないか、と考えるようになり、それを探りたいという望みに取り憑かれることになったのです。「方向性(ディレクション)の手段としての感覚が、信頼できなくなることがあるのなら、それを信頼できるものにすることもきっと可能だ。」と思いました。

46 人間のすばらしい可能性というアイデアは、シュークスピアの次のいきいきとした描写を知って以来、わたしにとってインスピレーションの源でした。

47 「人間とは何という素晴らしい作品だろう。なんと高貴な理性を持ち、なんと限りない能力を持ち、姿と振る舞いは、なんと表現豊かで、賞賛に値することか。その行動はまるで天使のようであり、理解の力はまるで神のようだ。世界の中の美そのものであり、すべての動物のかがみだ。」

48 しかしこれらの言葉は、自分と他の人について見つけたことにより、いまや否定せざるをえないように思えました。人間はその可能性にも関わらず、自分自身の使い方において間違いに陥り、行為の全てについて機能低下を招き、しかもこの有害な状態はどんどん悪くなっているのです。こんなありさまでは、「高貴な理性」や「限りない能力」について、何が人間より劣るというのでしょうか。今日、自分の使い方に関して、どのくらいの人が「姿と振る舞いは表現豊かで賞賛に値する」といえるのでしょうか。これでは「すべての動物のかがみだ」と見ることができるのでしょうか。

49 この頃、わたしと他の人の使い方について気づいた間違いについて、父と論じ、これに関しては、わたしたちと犬や猫とに何ら違いがない、と言ったことを思い出します。「なぜだい。」と聞かれたので、「わたしたちは犬や猫が知っている以上には、自分自身をどう使うかを知っていないからです。」と答えました。人間の使い方の方向性(ディレクション)は感覚に基づいていて、非論理的で本能的であるという点で動物と同じだ、ということを言いたかったのです。* わたしがこの会話のことを書いたのは、現在の文明生活の状況では、変化の激しい環境にいつもすぐに適応していかねばならなくなっているので、犬や猫にとって十分な非論理的で本能的な使い方の方向性 (ディレクション)が、もはや人間の要求を充たさないことを、このときすでに気づいていたことを示すためです。使い方の本能的なコントロールと方向性(ディレクション)がとても不十分なものになっていて、それに伴う感覚はガイドとしてとても信頼できないものになっているので、行いたいと思ったり、行っていると思っていることとは、全く反対のことを人間にさせるまでになっていることを、わたしと他の人の事例をあげて明らかにしました。わたしの考えたように、感覚が信頼できなくなるということが文明生活の産物であるのならば、それは時を経るにつれ、より一層脅威となって行くので、感覚を信頼できるようにする手段を知ることは価値のあることでしょう。それに対する知見を探ることは、全く新しい分野の探究への道を開き、今まで耳にしたどんなものよりも未来に希望を持たせるものだと考えました。

* [脚注]
複雑な動きをうまく行っているスポーツ選手は、その動きを意識的にコントロールしているのではないかという反論があることでしょう。トライ&エラーのプランに基づいた練習により、その素晴らしい技の中のある動きについて、機械的な熟達を達成することは多くの場合可能です。でもこれは、動きを意識的にコントロールしていることの証拠にはなりません。競技者が意識的に動きをコントロールし、ある動きを協調させて行っているというまれな場合でも、まだ彼の活動のなかでは、自身の使い方を全体として意識的に行っているとは言えないのです。なぜなら彼は、行おうとする動きについて、全体としての彼のメカニズムのどんな使い方が最も良いものであるかを知らない、と考える方が妥当だからです。そのため、これはよく起こることですが、彼のメカニズムの習慣的な使い方を変えてしまうような何かが起こると、その動きをうまくやることができなくなってしまいます。実際に、ひとたび選手が前の熟達した動きができなくなると、それを取り戻すことは容易ではありません。これは彼が、自身の全体的な使い方をどう方向づけるか [how to direct the general use of himself] という知識を持っていないことを考えれば、驚くことはありません。それだけが、自分のメカニズムを、慣れていた熟達の動きをさせる使い方にしてくれるものだからです。(これに関連しては、吃音の人の特徴をわざとまねてみた人が、自分自身に吃音の習慣を作ってしまい、さまざまな努力にもかかわらず元の正常な話し方に戻れなくなってしまう、という事例が多く知られています。)

スポーツ選手はこの知識を持っていないので、動物と同じように、メカニズムを働かせるための方向性(ディレクション)については、感覚に頼らざるを得ません。現在、大多数のスポーツ選手の感覚は程度の差こそあれ信頼できなくなっているので(これは実証できる事実です)、その活動のためのメカニズムは、誤って方向づけられざるを得ません。そのような方向性(ディレクション)は、動物のそれと同じく論理的でないので、意識的で論理的な方向性(ディレクション) [conscious reasoned direction] とは異なるものです。後者は自分というメカニズムを一体として働かせるプライマリコントロールに伴うものです。

(48段落まで載せましたが、この章は全部で69段落まであります)

PAGETOP
Powered by WordPress & BizVektor Theme by Vektor,Inc. technology.