BodyChanceのプロコースで教えるアレクサンダー・テクニーク教師ヤスヒロ(石田 康裕)のページです。テクニークの歴史や役立ち情報など多くを載せています。教育分野(学校の先生など)での応用にも力を入れています。ヤスヒロは、埼玉・東京でのレッスン、出張レッスンを行っています。機械工学修士で27年間、高校で教えました。

テクニークの進化

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「自分の使い方」 F.M.アレクサンダー 1931年出版

わたしが以前に著した2冊の本「人が受け継いでいる最高のものMan’s supreme inheritance」と「個人の建設的で意識的なコントロール Constructive Conscious Control of Individuals」は、人の組織体の誤った使い方の状態を良くする手段 [means] を求めて、わたしが何年もかけて徐々に進化させたテクニークを述べています。探求を開始したときには、多くの人たちと同じように「身体 [body] 」と「心 [mind ]」は一つの組織体の中の異なった部分だと考えていたこと、その結果として、人の苦しみ [ills] や困難、欠陥を「精神的 [mental] 」または「身体的 [physical] 」と分類して、特に「精神的(心的)」なもの、または特に「身体的」なものとして扱えば良い、と信じていたことを認めなくてはなりません。しかし、わたしの実際の体験がこの見方を捨てさせ、私の本の読者は、どんな形の人の活動も「精神的」なプロセスと「身体的」なプロセスに分けることは不可能だという逆の考えに、そこで説明したテクニークが基づいていることを知ることになります。

人の組織体の考えのこの変化は、わたしが理論だけで導き出した結果として起こったわけではありません。生活を行っている人に対して、その実際に行っていることで実験を行う、という新しい分野の探求により、こう変更せざるを得なくなったのです。

人の活動は精神的なプロセスと身体的なプロセスが一体となって働いている、という理論を受け入れている人でも、この統一性の原理が実際にどう働くかを理解することは、多くの人にとって困難なことを読者からの手紙が示しています。この困難はわたしが教えるときにいつも生じますが、自分の使い方 [the use of the self] [1] では、精神的なものと身体的なものが全ての活動で共に働くことを、生徒への一連のレッスンでは実際に示すことができます。繰り返しこれを行うことで生徒は確信を持てますが、たとえ大規模な教室を開いたとしても、1人が扱うことのできる生徒の数は当然限られているため、このような実体験を持てる人の数はかなり少なくなります。そのため、この本の中で、その始まりから進めて探求のヒストリーを語ろうと決めましたが、それらがわたしのテクニークの進化を徐々に導きました。行った実験の具体的な内容をできるだけ詳しく述べ、そこで観察して体験した内容を語りたいと思います。そうすることで、ついには次のように確信させてくれた一連の出来事を、読者が自分で追う機会を与えることになると思うからです。確信を持ったのは、

(1) 「精神的 [mental] 」とか「身体的 [physical] 」と呼ばれるものは、別の実体 [entity] ではない。

(2) このため、人間の苦しみや欠陥は「精神的」、「身体的」と分類することはできず、片方だけで対処することはできない。それらに対する対処法はすべて、教育的 [educative] であろうがなかろうが、すなわち欠点、欠陥、病気を予防する [prevent][2]ものであれ、除こうとするものであれ、人の組織体の分離不可分な統一性に基づかなくてはならない。

ということです。

これを疑う読者には、たとえば腕を持ち上げたり、歩いたり、話したり、眠ったり、何かを学び始めたり、問題についての解答を考えたり、決断したり、要求や願いに同意したり同意しなかったり、不足感や急な衝動を満たしたり、といった活動のプロセスが、純粋に「精神的」または「身体的」だという確実な証拠を示せますか、と問うことにしましょう。この問には多くの重要な点が出てきますが、わたしがこれから述べる体験を通して、読者がその過程を追っていけば、その2つが交わることの手掛かりを得ることでしょう。

かなり若い頃から詩に喜びを感じていました。シェークスピア劇を学び、声に出して読み、登場人物の解釈に没頭することは、わたしの主な喜びの一つでした。そのため、雄弁術 [elocution] と朗誦術 [art of reciting] に熱中し、ときどき人前で朗誦することを頼まれるまでになりました。十分な成功を得たので、シェークスピアの朗誦を仕事にしようと思い、劇表現法の全ての分野を長い時間をかけて一生懸命学びました。アマチュアとしてしばらく経験を積んだ後に、わたしの技術がプロの厳しい基準に十分見合うと思うまでになりました。周りの評価も同じだったので、わたしは朗誦家になる決断をしました。

何年かは全てうまく行っていましたが、そのうち喉(のど)と声帯に異常を覚えるようになりました。その後まもなく、朗誦しているときに息を吸う音が聞こえることを友人から指摘されました。彼らは、(彼らの言い方では)口から「あえぎ [gasping]」や「息をすすり込む [sucking in the air]」音が聞こえると言うのです。そのときすでに起こり始めていた喉の障害よりも、これはわたしを不安にさせました。なぜなら、朗誦家や俳優、歌手がよくやっているような、息を吸い込むときの呼吸の音が出ないことを、わたしは誇りにしていたからです。この間違った呼吸を直し、声枯れをなくしたいと望んで、わたしは何人もの医者やボイス・トレーナーにアドバイスを求めました。彼らは良くしようとできるだけのことをしてくれましたが、朗誦のときの「あえぎ」と「息をすすり込む」ことがより一層ひどくなり、声枯れがより早く起こるようになりました [3]。わたしが受けていた治療の効果はしだいに薄れていき、障害が徐々に大きくなって行ったのです。とても困ったことに、数年後ついには、ときに全く声が出なくなるまで声枯れはひどくなってしまいました。生まれてから何度も身体の不調があり、それがわたしの障害になっていたので、たびたび声枯れが起こることも、わたしの声の器官の何かの欠陥ではないか、と疑い始めました。最も困ったのはとても魅力的で重要な仕事が来たときです。そのころまでには、自分の声の器官の状態にとても自信を失っていたので、それを受けることを本当に恐ろしく感じました。前の処置は失望させるものだったのですが、わたしはもう一度医師に相談することにしました。医師は、もう一度わたしの喉を検査して、リサイタル前の2週間を、朗誦を差し控え、声をできるだけ使わないようにして、処方した治療に従えば、声は正常になると約束してくれました。

わたしはその指示に従うことにして、そうすることを約束しました。声をできるだけ使わないようにすることで、声枯れは少しずつなくなったので、数日後には医師の言ったことがうまくいくだろうと感じました。リサイタルの夜には声枯れはきれいになくなっていたのですが、プログラムの半分も終わらないうちに声の状態は今までになかったほど悪くなり、終わりころにはとてもひどくて話すことさえできないほどになりました。

一時的な回復しか望めなくて、とても興味を持ち、成功できると思っている職業をあきらめざるを得ないという思いは、わたしを言い表せないくらい落胆させました。

翌日医師に会い、この状況を話し合いました。終わりに、何ができると思うかを聞いたところ「この治療を続けなければならない。」と彼は言いました。それはできない、とわたしは言い、彼がなぜかと聞いたので、治療の間に公の前で声を使わないという指示をこれだけ忠実に実行したのに、リサイタルで声を使い出したら1時間もしないうちに枯れ声に戻ってしまった、ことを指摘しました。「それならば、あの夜わたしが声を使うときにやっていた何かが、これを引き起こしたと考えるのが妥当ではないですか。」と言うと、彼はしばらく考えた後で、「そうだね、そうに違いない。」と言いました。「それなら、わたしがやっていた何がこれを引き起こしたか、答えることができますか。」という問に、彼はそれが分らないことを正直に認めました。「わかりました。もしそうなら、わたしは自分で探さなくてはなりません。」とわたしは言いました。

この探求を始めたとき、わたしには2つの事実がありました。朗誦を行うと声枯れの状態になることと、普段の会話以外に声を使わないで喉と声の器官に医師の治療を受ければ声枯れがなくなることを、体験から学んでいました。わたしの障害に対するこの2つの事実の意味を考えて、普通の会話ではそうならないのに朗誦で声枯れになるとすれば、朗誦のときに行っていることと普通の会話で行っていることに何か違いがあるのだろうと思いました。これが本当で、違いを見つけることができれば、声枯れをなくす助けになるし、少なくとも実験を行うことは何の害もありません。

この目的のために鏡を使い、普通の会話と朗誦の2つで「ドゥイング [doing行っていること]」を観察することにしました。その2つに違いがあるのなら、それによって見つけることを期待したのです。普通の会話はより単純な行動なので、このときの自分の状態の観察で始めることが良いように思えました。より大変な朗誦を観察するときに、何かの参考になるだろうからです。

鏡の前に立ち、普通に話す様子を注意深く観察しました。何度も繰り返しましたが、わたしの動作には、間違いや異常と感じるものを特に見つけることはできませんでした。次に、朗誦の様子を鏡の前で注意深く観察しました。すぐに、ただ話しているときに気づかなかったことを、いくつか見つけました。特に3つのことが際だっているように思えました。朗誦を始めるとすぐに、頭を後ろに引き [pull back the head] 、喉頭(こうとう)を押し潰し [depress the larynx] 、あえぎ声を出すように口で息をすすり込もうと [suck in breath through the mouth in such a way as to produce a gasping sound] していることを見たのです。

これらの傾向に気づいた後で、わたしは戻って、普通の会話でどうしているかをもう一度観察しました。朗誦の観察で見つけた3つの傾向は、程度の差はあっても普通に話すときにもあることに、疑いの余地はほぼありませんでした。それらは本当に僅かだったので、普通に話す自分を最初に観察したときに全く気づけなかったことは、納得がいきます [4]。普通に話すときに行っていることと、朗誦しているときに行っていることの違いを見つけることができたので、多くのことを説明できる決定的な事実を得ることができたと思って、さらに続けていく元気がでました。

鏡の前で繰り返し繰り返し朗誦を行い、既に気づいた3つの傾向は、声に対する要求のとても高い一節を朗誦するときに、特に顕著になることを見つけました。このことは、朗誦で自分が行っていることと喉の障害は関係がある、という初めの考えに確証を与えました。これは非合理な推測ではないと思います。なぜなら、普通に声を使うときにわたしが行っていることにはそれと気づく害がないのに、朗誦で、声への特別な要求に応えようと行っていることは、声枯れの状態をすぐに作り出すからです。

このことから、頭を後ろに引き、喉頭を押し潰し、息をすすることが、実際に声の障害を生んでいるのだから、これが発声に関わる部分の「間違った使い方 [misuse]」だと考えました。今やわたしはこの障害の大元を発見した、と思いました。声枯れがわたしの組織体のいくつかの部分の使い方から生じているのなら、改善するには、この「間違った使い方」が起こらないようにするか、変える必要があることになるからです。

しかし、この発見を実際に活かそうとすると、わたしは迷路の中にいることに気づきました。どこから始めればよいのでしょう。息をすすることが、頭を後ろに引くことと喉頭の押し潰しを起こしているのでしょうか。頭を後ろに引くことが、喉頭の押し潰しと息をすすることを起こしているのでしょうか。それとも喉頭の押し潰しが、息をすすることと頭を後ろに引くことを起こしているのでしょうか。

この問に答えることができなかったので、わたしにできることは、忍耐強く鏡の前で実験を続けることだけでした。数ヶ月を経たあとに、朗誦を行うときに息をすすることと喉頭を押し潰すことを、直接的にやめることはできないが、頭を後ろに引くことだけはある程度やめることができることを見つけました。これは後に、とても重要だと分った発見に至らせます。その発見とは、頭を後ろに引くことを抑えることで、息をすすることと喉頭を押し潰すことを、間接的に抑えられることです。

この発見の重要性は、どれほど過大評価してもし過ぎることはありません。なぜなら、人の組織体の全てのメカニズムの働きにプライマリ・コントロール [primary control 主要な制御要素 [訳注]使い方を決定する要素の中に、最大の影響力を持つものがあるということ、1番目という意味もあります] があることを、このことをもとに発見できたからです。これはわたしの探求の1番目の重要な段階でした。

これらの部分の「誤った使い方」を防止することで、朗誦のときの声枯れがひどくなくなり、体験を徐々に重ねるにつれて、声枯れが起こりづらくなったことに気づきました。それだけではありません。実験の後に友人の医師に喉をもう一度見てもらったら、喉頭と声帯の全体の状態がとても良くなっていることも分りました。

わたし自身に見つけた3つの有害な傾向を抑えることによる使い方 [use] の変化が、声と呼吸のメカニズムの機能の仕方 [functioning] に顕著な効果もたらしたことが、これによってわたしに明確になりました。

今考えると、こう結論づけたことは、わたしの探求の2番目の重要な段階と言えます。なぜなら、使い方と機能の仕方に密接な関係があることを、この実体験で初めて気づくことができたからです。

これまでの経験は、次のことを示してくれました。

(1) 頭を後ろにやる [put my head back] 傾向が、喉の障害に関係があること。

(2) 頭を後ろにやることをただ防止するだけで、障害をある程度減らせること。これは、この防止の行為 [act of prevention] により、喉頭を押し潰すことと、息をすすることを間接的に防止できたからです。

このことより、もし頭をもっと前に出せば、声と呼吸のメカニズムをより良く機能させることができて、声枯れを全くなくせるのではないかと考えました。そのため次のステップは、頭をしっかり前方に、それも正しいと感じるよりももっと前に持っていくことに決めました。

しかし、これを実際に行うと、ある位置を越えて前に出したときには、前に出すと同時に頭を引き下げる [pull it down] 傾向があり、見た限りでは、声と呼吸の器官に対する影響は、頭を後ろへ下へと引いたときと全く同じでした。どちらの方法も、喉の障害を引き起こす喉頭の押し潰しが同じように起きていたからで、この頃までには、声を正常にするためには、喉頭の押し潰しをやめなければならないと確信しました。そのためわたしは、喉頭の押し潰しを起こさない頭と首の使い方 [use of head and neck] を見つけたいと期待して実験を続けました。

この長い期間に行ったさまざまな実験を、詳細に述べることは不可能です。喉頭の押し潰しを引き起こす頭と首のどんな使い方も、胸を持ち上げて [lift the chest] 、背を短く [shorten the stature][5] する傾向があることに、この実験の過程で気づくことができた、という点を言えば十分でしょう。

振り返ると、これはまた大きな可能性を秘めた発見だったことに気づきます。後の出来事が、これがわたしの探求の分岐点だったことを裏付けています。

この新しい手がかりは、発声の器官の機能の仕方は、胴体全体の使い方 [manner of using the whole torso] に影響を受けていることを示しました。また、頭を後ろへ下へと引くことは、わたしが思っていたようなある特定の部分の「間違った使い方」ではなく、背を短くさせるそれとは別のメカニズムの「間違った使い方」と切り離せないことも示しています。そうなら、頭と首の誤った使い方を防止するだけでは、わたしが必要な改善を期待できません。背を短くすることに関わる別の「間違った使い方」を防止しなければならないことに、わたしは気づきました。

このことで、わたしは多くの実験を行いました。そのうちのいくつかでは背を短くすることの防止を試み、他では長くすることを試みて、その効果を見ました。しばらくの間、この2つの実験を交互に繰り返し、声への影響を調べていくうちに、喉頭と声のメカニズムが最も良い状態になり、最も声枯れしにくくなるのは、背を長くするときに起こることを見いだしました。しかし残念なことに、これを実践しようとすると、わたしは長くならないで短くなりました。この理由を探すと、長くしようとして頭を前に出したときにわたしが頭を引き下げてしまうことで、それが起こっていることが分りました。さらに実験を続けて、背を長くする状態を維持するには、頭を前に出すとき、頭は下ではなく上へと向かわせる [my head should tend to go upwards, not downwards, when I put it forward] 必要があることを、ついに発見しました。つまり、長くなるためには、わたしは頭を前へ上へと [put my head forward and up] しなくてはならないのです。

この後のことが示しているように、これは、全ての行動におけるわたしの使い方のプライマリ・コントロール [primary control] であることが判明します。

ところが、朗誦をするときに頭を前へ上へとしようとすると、胸を持ち上げてしまう前からの傾向がひどくなって、背骨のカーブが大きくなり、わたしがいま 「背中を狭くする [narrowing of the back] 」 と言っている状態を引き起こすことに気づきました。これが胴体部分の形と機能の仕方に悪い作用をもたらしていたので、長くすることを保つには、頭を前へ上へとするだけでは十分ではなく、胸を持ち上げることを防止する [prevent the lifting of the chest] と同時に背中を広くする [bring about a widening of the back] ようにして、頭を前へ上へとしなくてはならないことが分りました。

ここまで分ったので、これらの発見を実際に使っても良いと考えました。そうするために、声を使うときに、以前の、頭を後ろへ下へ引いて胸を持ち上げる(背を短くする)習慣を防止し、この防止の行動を、頭を前へ上へ(背を長くする)としながら背中を広くする試みに結びつけることにしました。これは一つの活動の中で 「防止」を「ドゥイング」に結びつける最初の体験でした。このときわたしは、これが実行可能だと少しも疑いませんでした。ところが、頭を前へ上へとして背中を広くすることを、その動きだけなら実行できるのに、話したりや朗誦を行うと、この状態を維持できなかったのです

行っていると思っていることを行ってはいないのではないか、という疑いを持ち、もう一度鏡を助けに使うことにしました。少ししてから、中央の鏡の両脇にさらに2つの鏡を加えて、その助けにより、疑いが正しかったことが分りました。短くなることの防止を、長くなることを続けながらそれと同時に話すという実際の試みに結びつけようとするその重要な瞬間に、意図したようには頭を前へ上へとせずに、後ろにやることを見たからです。そうすべきだと決め、そう行っていると信じていたことと反対を行っている、という驚くべき証でした。

わたしの失敗談になってしまう興味深い事実に目を向けてもらうために、ここで話しを中断しましょう。朗誦という慣れた活動で自分が何を行っているか、を知るために行った最初の頃の実験で、鏡の使用がとても役立ったことを読者は覚えていることでしょう。この過去の経験があって、そこから知見を得ていたにもかかわらず、身体部分の新しい使い方を試そうという実験を始めたときには、それが全く不慣れな感覚体験を伴うものなのに、さらに鏡の助けを借りることが必要だと考えすらしなかったのです。

これは、望ましいと思うアイデアを考えさえすれば、それがどんなものでも実行できることに、どんなにわたしが自信を持っていたかを示しています。そうでない経験を、それまでしてきていたはずなのにです。それができないことを発見したときに、それは単にわたし個人が持っている問題だと思いました。しかしそうではなかったのです。35年に渡って教えた経験と、今まで他に出会った人たちの観察を通して、これは自分が特別なわけではなく、ほとんどの人が共通に犯す誤りだと確信しています。誰もが持つ幻想にわたしは陥っていました。それは、慣れた感覚を伴う習慣的な動作については、「行おうと思えば」それができるのだから、習慣に反していて、そのために不慣れな感覚体験を伴う動作についても、「行おうと思えば」同じように成功できる、という幻想です。

これに気づいたときに、わたしはとても混乱して、全ての状況をもう一度考え直さなくてはならないと思いました。喉の障害は声を使うときにわたしが行っている何かが原因だ、と考えたところまで、わたしは戻ることにしました。そう考えた後に、わたしはこの「何か」が何かと、それに代わる、声の器官を正しく機能させるために行うべきことを、見つけました。しかし、これはそれほど助けになりませんでした。朗誦にそう学んだことを、いよいよ使おうとするときがきて、行うべきことを試みようとすると、わたしは失敗していたからです。次のステップはもちろん、わたしのドゥイングの中で、どこで誤ってしまうかを見つけることです。

辛抱強く行う以外に何もできなくて、それまで成功と失敗の体験をしてきたときと同じように、わたしは忍耐強く取り組みを行いましたが。これだと思うようなものはありませんでした。しかし、そうこうするうちに、これらの体験はわたしに恩恵をもたらしてくれました。朗誦を行うときに長くなることを保とうとするどんな試みも、ある部分の「間違った使い方」をやめて良いと思う使い方に単に変えるだけの問題ではない、ことが分りました。朗誦を行うときには、立っていたり、歩いていたりするし、身振りや演出として腕や手を使ったりもしますが、それらの動作に必要な身体部分の全てをどう使うかが、また関係していました。

鏡を使って観察することで、朗誦をしようと立っているときに、発声とは関係ないと思っていたそれらの部分を、ある誤った方法で使っていることを見たのです。頭と首、喉頭、発声と呼吸の器官を誤って使うときに、それは同時に起きていて、わたしの組織体全体に過度の筋肉緊張をもたらしていました。この過度の筋肉緊張の状態は、特に脚と足とつま先の使い方に影響を与えていて、つま先は縮まって下方に曲がり、足のアーチが過度に大きくなり、体重が普通よりも足の外側にかかり、バランスがとりづらくなっていることを観察しました。

この発見に何か思い当たるものを探したところ、前に故ジェームズ・キャスカート氏(一時期、チャールズ・キーン氏の劇団にいました)に、劇表現と劇解釈のレッスンを受けたときの指示を思い出しました。彼はわたしの立ち方と歩き方が良くないと思い、しばしば「足で床をつかむように [Take hold of the floor with your feet.] 」と言い、その言葉で何を意図しているかを見せてくれたものでした。わたしは彼の真似をしようと最善をつくしました。誤りを直すために何をすべきか指摘されれば、それは当然実行できて、全てはうまく行く、と思っていたのです。忍耐強く取り組み、まもなくわたしの立ち方は満足のいくものと思うまでになりました。わたしには、わたしが彼がそうすることを見た通りに「足で床をつかんでいる」と思えたからです。

間違ったやり方を直すために何をすべきかを聞きさえすれば、わたしたちはそれが実行できて、それを行っていると感じるようになったときには、全てはうまく行っていると、とても普通に思われています。しかし、わたしの経験は、この信じ込みが幻想だということを明らかにしています。

この経験を思い出した後に、鏡の助けを借りて、前よりももっと注意深くわたし自身の使い方を観察し続けました。そして、朗誦のために立っているときに、脚と足とつま先で行っていることが、わたしの組織体全体の使い方に、とても有害な影響を全体的に与えていることに気づきました。これらの部分の使い方が、筋肉を異常に緊張させ、間接的に喉の障害を引き起こしていることを確信しました。そのために先生は、朗誦を改善するためには立ち方を良くする必要がある、と考えたのだと気づいて、さらにこの確信を強くしました。「床をつかんでいる」と思っていたときの誤った使い方は、朗誦をするときの、頭を後ろに引き喉頭を押し潰すなどの誤った使い方と同じで、この誤った自分の使い方こそが、身体―精神メカニズム [physical-mental mechanism] 全体の、結びついた「間違った使い方」だということが次第に分ってきました。そして、これはわたしが全ての動作に対して習慣的に行ってしまう使い方で、わたし自身の「習慣的な使い方」と言えることと、朗誦しようという思いは、他の何かの活動への刺激と同じく、必然的にこの習慣的で誤った使い方を引き起こしてしまい、それは朗誦するときに良い使い方をしようする試みよりも優勢になる、ことが分りました。

この間違った使い方の作用は習慣的なためにとても強くなりますが、わたしの場合にさらに強くなったのは、朗誦を行うときに先生の指示の「足で床をつかむ」を努力する中で、間違いなく何年もそれを培ってきたからです。この培われた習慣的な使い方 [cultivated habitual use] は、慣れている間違ったやり方でわたしを使わせるほとんど抵抗し難い刺激になって働きます。「全体的な間違った使い方」への刺激は、頭と首を新しい使い方にしたいという願いの刺激よりも断然強く、この作用こそが、朗誦しようとして立つとすぐに、望んだ方向とは反対の方向に頭を引かせることが今や分りました。今やわたしには少なくとも一つのことが明らかでした。朗誦をするときの使い方を改善しようとする全てのそれまでの努力は、間違った方向に行っていた[misdirected]ことです。

どんな活動でも、ある部分の使い方は人の組織体の他の部分の使い方に密接に結びついていることと、さまざまな部分が互いに及ぼす作用は、それぞれの部分の使い方がどうかによりいつも変わっていることを、覚えておくことは重要です。ある活動に直接使う部分をまだ不慣れな新しい方法で使おうとするときには、新しい方法でその部分を使おうとする刺激は、人の組織体の他の部分の使い方への刺激に比べて弱くなります。直接的に使われないそれらの他の部分は、以前の習慣的なやり方でその活動に間接的に使われます。

わたしの場合は、朗誦を良くしようとして、頭と首の不慣れな使い方を試みました。頭と首を新しい使い方で行おうとする刺激は、朗誦の活動で培われて慣れ親しんだ足と脚の習慣的な使い方を起こす刺激に比べて、弱くならざるを得ないものでした。

ここに、使い方と機能の状態を、悪いものから良いものに変えるときの困難があります。わたしの教師としての経験からは、その目的が何であれ誤った習慣的な使い方が強くなっているときには、レッスンの初期段階では、その作用は抵抗できないほどとても強いものです。

このことより、自分の使い方のディレクション  [direction of the use of myself  :direction は方向性とも訳します] [6] という問題全般を長い時間かけて考えることになりました。「わたしが今まで頼ってきた、このディレクションとは、一体何なのだろうか。」と自分に問いました。どのように自分の使い方を方向づけているか [how I directed the use of myself] について、つきつめて考えたことは今まで一度もなく、自然だと思えている方法でわたし自身を習慣的に使っていたことを認めなければなりません。言いかえれば、他の人たちと同じように、使い方のディレクションを「感覚」に頼っていたのです。実験の結果から、ディレクションのその方法がわたしを誤らせてしまっていた(頭を前へ上へと意図したときに、わたしは後ろにやっていた、ということがその例です)と判断できます。自分の使い方のディレクションに関しては「感覚」は信頼できないことの証拠でした。

これは本当にショックでした。誰かが全くの手詰まり状態に陥ることがあるのなら、それはわたしのことでした。使い方のディレクションについて、それしか頼るものがない感覚があてにならないという事実に、直面していたからです。そのときはそれをわたしだけの問題で、わたしの場合は特別だと思ったのは、物心ついてからずっと悪い健康状態が続いていたからです。しかし、他の人たちがその人が考えている通りに自分を使っているかを調べてみてすぐに、彼らが自分の使い方を方向づける感覚も信頼できないことが分りました。実際、わたしとは程度の差だけでしかありませんでした。落胆しましたが、問題に対して希望がない、という思いを拒みました。今までの発見は全く新しい分野の探究の始まりを意味するのではないか、と考えるようになり、それを探りたいという望みに取り憑かれました。「ディレクションの手段としての感覚が、信頼できなくなるのなら、それを信頼できるものにすることもきっと可能だ。」と思いました。

人間のすばらしい可能性というアイデアは、シェークスピアの次のいきいきとした描写を知って以来、わたしにとってインスピレーションの源でした。

「人間とは何という素晴らしい作品だろう。なんと高貴な理性を持ち、なんと限りない能力を持ち、姿と振る舞いは、なんと表現豊かで、賞賛に値することか。その行動はまるで天使のよう、理解の力はまるで神のようだ。世界の中の美そのもので、すべての動物のかがみだ。」

しかし今や、これらの言葉は、自分と他の人に見つけたことに反するように、わたしには思えました。人はその可能性にも関わらず、自分自身の使い方でこれほど間違いに陥り、行おうとする全てで機能の低下を招き、しかもこの有害な状態はどんどん悪くなっているのです。こんなありさまでは、「高貴な理性」や「限りない能力」について、何が人間より劣るというのでしょうか。今日、自分の使い方に関して、どのくらいの人が「姿と振る舞いは表現豊かで賞賛に値する」と言えるのでしょうか。これでもまだ、「すべての動物のかがみだ」と見ることができるのでしょうか。

この頃、わたしと他の人の使い方について気づいた間違いについて父と論じ、これに関しては、わたしたちと犬や猫とに何も違いがない、と言ったことを思い出します。理由を聞かれたので、「犬や猫が知っている以上には、わたしたちは自分自身をどう使うかを知らないからです。」と答えました。人の使い方のディレクションは感覚に基づいていて、非論理的で本能的だという点で動物と同じだ、と言いたかったのです [7]。わたしがこの会話のことを書いたのは、現在の文明生活の状況では、変化の激しい環境にいつもすぐに適応しなければならいので、犬や猫にとっては十分な非論理的で本能的な使い方ディレクションが、もはや人の要求を満たさないことを、このときすでに気づいていたことを示すためです。使い方の本能的なコントロールとディレクションがとても不十分なものになり、それに伴う感覚はガイドとしてとても信頼できないものになっているので、行いたいと思ったり、行っていると思っていることとは、全く反対のことを人にさせるまでになっていることを、わたしと他の人の事例で明らかにしました。わたしが考えたように、感覚が信頼できなくなることが文明生活の産物ならば、それは時を経るにつれ、より一層共通の脅威になるので、感覚を信頼できるようにする手段を知ることは価値があるでしょう。それに対する知見を探ることは、全く新しい分野の探究への道を開き、今まで耳にしたどんなものよりも、未来に希望を持たせるものだと考えました。そして、わたしの困難を、この新しい事実の視点から考えるようになりました。

[1] わたしが使い方 [use] というときは、「腕の使い方」や「脚の使い方」といった、ある特定の部分の「使い方」という通常の意味ではなく、「人の組織体全般の働き」というもっと広く包括的なものを指すことを、明確にしたいと思います。腕や脚といったある特定の部分を使うときは、その部分以外の人の組織体の心身的メカニズム [psycho-physical mechanism] を使う必要があり、それらが一緒に働くことが、特定の部分を使うようにさせる、と考えているからです。

[2] わたしが「予防 [prevention] 」という言葉を使っているのは、これがわたしの意図にふさわしくて完全に適しているからではなく、代わる適当な言葉を見つけることができないからです(これは「治癒 [cure ]」という言葉にもあてはまります)。予防という言葉が本来意味しているのは、完全で満足な状態が存在し、それが悪くなることを防ぐことができることです。今日では、この意味で予防を行うことは実質的にできません。なぜなら、文明化された人の現在の状況では、使い方と機能 [use and functioning] が全く悪くない人を見つけることは実際できないからです。そのため、わたしが「予防」と「治癒」という言葉を使うときにはただ相対的な意味でだけ使っていて、「予防的な処置」と言うときには、欠陥や不具合、病気を防止する手段として、人の組織体全体としての間違った使い方と機能を防止する全てを含むし、「治癒的な処置」というときには、欠陥や不具合、病気を扱うときに、誤った使い方が機能を悪くすることは考えない方法のことを言っています。

[3] 医師の診断は、喉と鼻の粘膜の炎症と、声帯(普通よりゆるみすぎていると言われました)の炎症でした。わたしの口蓋垂(こうがいすい)はとても長く、ときどきひどい咳の発作を引き起こしていました。このため2人の医師が簡単な手術で短くするように勧めましたが、わたしは従いませんでした。今では、「牧師の腫れたのど [clergyman’s sore throat] (慢性喉頭炎のこと)」と呼ぶものを患っていたに違いないと思っています。

[4] これが他になりようがなかったのは、話すときの自分の使い方の間違いを見つけるための、必要な種類の観察を行った経験がなかったからです。

[5] おそらく「背を増加させる [increase the stature] 」「背を減少させる [decrease the stature] 」という方がより正確でしょうが、「背を長くする [lengthen the stature] 」「背を短くする [shorten the stature] 」を使うことにしました。このような場合で、「長くする [lengthen] 」「短くする [shorten] 」が最も普通に使われているからです。

【訳注】

日本語では「背を伸ばす」「背を縮める」が普通に使われていますが、lengthen, shortenという語感から「長くする」「短くする」を使うことにしました。「伸ばす」「縮める」という言葉からextend, compressといった単語を連想しないようにもなります。

[6] 「わたしの使い方のディレクション(方向性)」とか、「わたしは使い方を方向づけた [I directed the use ] 」などのように、「ディレクション」と「方向づける」という言葉を「使い方」と一緒に使うときは、脳からそのメカニズムにメッセージを出す [project] ことと、そのメカニズムを使うために必要なエネルギを伝えること、に関わる一連のプロセスを意味したいと思っています。

[7]複雑な技術をうまく行っているスポーツ選手は、その動きを意識的にコントロールしているのではないか、という反論があることでしょう。トライ&エラーのプランに基づいた練習により、その技術のある動きで自動的な熟達を達成することは多くの場合で可能です。しかしこれは、動きを意識的にコントロールしているという証拠にはなりません。スポーツ選手が意識的に動きをコントロールし、ある動きを協調させて行っているという稀な場合でも、まだ全体としての彼自身の使い方を、活動の中で意識的に行っているとは言えないのです。なぜなら彼は、彼が望む特定の動きを行うために、全体としての彼のメカニズムのどんな使い方が最も良いかを知らない、と考える方が妥当だからです。そのため、これはよく起こることですが、彼のメカニズムの習慣的な使い方を変えるような何かが起こると、その動きを行う熟練した能力に妨げります。実際に起こっているように、一度選手が前の熟達のレベルを失うと、それを取り戻すことは容易ではないのですが、これは彼が、自分の全体的な使い方をどう方向づけるかの知見を持っていないことを考えれば、驚くことはありません。それだけが、自分のメカニズムを、慣れていた熟達の動きができる使い方にしてくれるからです(これに関連しては、吃音の人の特徴を意図的に真似した人が、自分に吃音の習慣を作り、いろいろ努力をしても前の熟達のレベルにあった話し方に戻れなくない、という事例が多く知られています)。

スポーツ選手はこの知見を持っていないので、動物と同じように、メカニズムを働かせるディレクションについては、感覚に頼らざるを得ません。大多数のスポーツ選手の感覚は程度の差こそあれ信頼できなくなっているので(これは示せる事実です)、その活動のためのメカニズムは、誤って方向づけられざるを得ません。そのようなディレクションは、動物のそれと同じく論理的でないので、意識的で論理的なディレクションとは異なるものです。後者は自分というメカニズムを一体として働かすプライマリ・コントロールに伴うものです。

(48段落まで載せましたが、この章は全部で69段落まであります)

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