1934年にタスカーは「リトル・スクール」をやめ、翌1935年に遠く南アフリカに渡りアレクサンダー・テクニークを教え始めました。
アレクサンダーからレッスンを受けた知人が少しはいましたが、ほぼ何もない所からのスタートといえます。
幸運にも、学校で先生と親たちにアレクサンダー・ワークについて話す機会を与えられたことで、主に教師たちがレッスンを受けに来てくれました。
やがて子供たちもレッスンに送ってくれています。
(そのときのことを、タスカーは「コネクティング・リンクス」というタイトルの講演の中で話しています)
普通の大人たちもレッスンを受けるようになり、その中にはアウストラロ・ピティクスの化石は初めて発見したレイモンド・ダート教授もいます。
そして驚くべきことに、学校教育で体育の代わりにアレクサンダー・テクニークを生徒に学ばせようとする運動が起きるほどになりました。
その運動を抑えようと、南アフリカの政府広報誌は、アレクサンダー・テクニークがインチキだという数十ページの記事を載せました。
それに対してアレクサンダーは名誉棄損の訴訟を起こしたのですが、それは数年に渡り彼を悩ませることになります。
裁判は、期間中の南アフリカで連日大きく新聞報道がなされるほど大きく話題になりました。
ノーベル賞受賞者も証言しています。
アレクサンダー側の勝訴に終わりましたが、アレクサンダーの1947年の脳卒中はその心労のせいだといわれているし、裁判の出費はアレクサンダーにとって大きな負担になり、自分の地所のペンヒルの一部を売ったほどです。
タスカーの活動で特筆すべきことは、南アフリカの有力者がアレクサンダー教師を増やす必要性を感じて、タスカーに教師養成コースを作ることを許可するようにアレクサンダーに長い要望書を書いたことです。
有力者たちからのものなので、アレクサンダーは詳細な返答を書きました。
存命中に他の先生が教師養成コースを作ることを許さなかったアレクサンダーなので、当然それを拒否しています。
しかし、アレクサンダー教師がなぜ高いレベルの知見と技術を備えておかなければならないかの彼の説明は、アレクサンダー教師が知っておくべきものなのかも知れません。 私家版の「アイリーニ・タスカーとリトル・スクール」には、「コネクティング・リンクス」の講演(アレクサンダーとこのテクニークの発展に、いかにタスカーが深く関わっていたかが分ります)と、アレクサンダーの要望書への返答の全訳も載せています。
希望される方は、info@yasuhiro-alex.jpまでメールして下さい。