1924年にアイリーニ・タスカーは、アレクサンダーが教えていたアシュリ・プレイスの一室で、障害のあった甥にアレクサンダー・テクニークをベースに普通の教育を始めました。
36歳のタスカーは、既に子供たちを教える長い経験を持っていました。
(ケンブリッジ大学で古典を学び、卒業後に教職の募集が無かったことから、最初に数人の子供を教えるホーム・スクールの教師になっています。
その後、ローマでモンテッソーリ教育を学び、それをイギリスで広める活動も行いました。)
徐々に生徒の数は増え、それは「リトル・スクール」と呼ばれるようになりました。
主にはアレクサンダーからレッスンを受けていた障害を持つ子でしたが、大きな障害のない子も多かったようです。
(もちろんその両親の多くもアレクサンダーからレッスンを受けていました。)
多いときは10人以上の生徒が学んでいます。生徒の親はアイリーニが行っていたことにとても感謝していたし、世界的に有名なアメリカの哲学者ジョン・デューイは、後に次の文を書いています。
私はロンドンで、ミス・アイリーニ・タスカーが教えているクラスを訪れました。
彼女は、生徒がアレクサンダー氏のワークを使いながら学習を行うようにさせていましたが、その取り組みは素晴らしいものでした。
それを特に価値のある重要なものだと考えていることをここに書くことで、私は教育界に一つの貢献を行うことになるでしょう。
ミス・タスカーは経験豊かな教師で、子供の教育に天賦の才能を持つうえに、アレクサンダー氏のワークの原則と方法、技術に精通しています。
彼女から教わる子供は、身体の状態が良くなるだけでなく、知的にも倫理的にも成長できます。
コロンビア大学名誉教授
ジョン・デューイ
(1934年11月9日)
これはタスカーがアレクサンダー・テクニークを教えに南アフリカに移住したときに、デューイが書いた推薦文です。タスカーはアメリカに滞在していた1916年から、デューイとの親交がありました。
「リトル・スクール」で教えていた内容は、当時の生徒が書いた文や描いた絵などを集めて出していた「アレクサンダー・タイムズ」を通して見ることができます。
(「アレクサンダー・タイムズ」は現在残っている8冊をMouritz社が2巻に分けて出版してくれています。)
モンテッソーリ教育の「子供に手段を与える」という考え方が伺えるし、生徒にアレクサンダー・テクニークをどう教えていたかが分る貴重な資料です。
タスカーはその後南アフリカでも、同じように子供のためのスクールを作りました。
それは前の投稿で書いたように大きな成果を挙げ、アレクサンダー・テクニークを学校教育に導入しようとする動きに発展しました。