アイリーニ・タスカーは、教師養成を行なわなかったことで現在アレクサンダー界で名前がでてくることは少ないですが、とても重要な人物です。
昨年末からタスカーに関係した本や情報を訳していて、私家版としてほぼ仕上がってきたので、何回かブログを使って彼女のことを紹介したいと思います。

F.M.アレクサンダーよりも20歳弱若いタスカー(1887-1977)は、ケンブリッジ大学でギリシア古典を学んでいて、29歳でアレクサンダーの助手になり、以来いろいろな実績を挙げました。
主なものをリストアップしてみます。

1.「リトル・スクール」を作ったこと

タスカーは子供を教えた経験があったし、助手になる前にはロ―マでモンテッソーリから直接モンテッソーリ・メソッドを教わっていて、それをイギリスに広げる仕事もしていました。
 1924年にアレクサンダーがレッスンを行っていたアシュリ・プレイスの一室で、テクニークを用いながら普通の教育を行う小人数の「リトル・スクール」を作り、1934年まで教えました(最初は生徒は1人でした)。

2.アレクサンダーの著作に深く関わったこと

アレクサンダーの最初の本「人が受け継いでいる最高のもの」(1910年)にはまだ参加していませんが、それを大きく改訂してアメリカで出された1918年版に関わりました。
それ以来、2冊目の「個人の建設的で意識的なコントロール」(CCC)と3冊目の「自分の使い方」(UOS)に深く関わり重要な役割を果たしています。
4冊目の「いつも人に影響するもの」(UCL)だけは、南アフリカにいたためにほとんど関わらなかったようです。

3.「アプリケーション・ワーク」を行ったこと

タスカーは実生活の活動を通してテクークを教えることを重視していて、それを「アプリケーション・ワーク」と呼んでいました。
リトル・スクールの生徒を教えたときにも、それが活かされています。

第1期の教師養成コースにいたマージョリー・バーストーは、アクティビティを使ってワークを教えることを始めましたが、タスカーの影響を受けたと言っています。
バーストーもリトル・スクールの活動を手伝っていました。

4.南アフリカに渡って大きな成果を挙げたこと

1935年に南アフリカに行ったタスカーは、14年ほど滞在して、アレクサンダー・テクニークを教えました。
普通のアレクサンダー・レッスンによってもとても評価されたし、子供の教育にテクニークを使うことでも大きな成果を挙げています。
ついには、体育の代わりに学校でテクニークを教えるべきだ、という運動が起こったほどのインパクトがありました。
しかしそれは攻撃を受けるきっかけにもなり、やがてはF.M.アレクサンダーが名誉棄損裁判を起こすまでに発展しました。