アレクサンダー・テクニークの基本的な内容と考え方を学ぶには、アレクサンダー自身が書いた4冊の本を読む必要があります。
ただ彼の本は、普通の人の感覚には無いことを記そうとしているので、最初は読みにくいことは確かです。
(彼の本は不思議で、最初は大変に思っても、数年経ってもう一度読み返すと、どうしてあれほど苦しんだだろう、と思うくらい楽に読めることがあります。それでも、一度に20~30ページも読めるわけではありませんが。1日に数ページづつ読めば、とても興味深い内容が詰まっています。)

それを補完するのが、アレクサンダーが実際に行なった実演レクチャーの記録(3つのレクチャーの筆記記録が残っています。それらのわたしの訳は、「池袋レクチャー」の資料で読むことができます)や、特に彼から直接指導を受けた第一世代の教師たちによる書籍です。

さらに、彼からレッスンや教師養成トレーニングを受けた人たちの日記は、より実際的な記録として読み易い上に、アレクサンダーが実際に教えた指示の言葉を知ることができます。



ウォルター・キャリントン の日記

ウォルター・キャリントンは、アレクサンダーが作った教師養成コースの実質的な後継者として、また直接彼から教育を受けた第一世代教師の中でも、最も多くの教師を養成した教師として重要な人です。

彼は普段は日記を書かないと言いながらも、次の2つの時期に日記をつけています。

1)最初にアレクサンダーから個人レッスンを受けたときの数回の記録
(「Personally Speaking」の本に入っている。)

2)1946年(第2次大戦終了の翌年)に、戦争中に受けた障害のリハビリを兼ねて、キャリントンがトレーニング・コースに再び出席していたときの半年の期間の日記。
(「A Time to Remember」の本は、それだけを載せています。)

どちらもとても興味深いものですが、彼の第1回目の個人レッスンの日記から一部を引用してみます。

「彼はわたしの頭を手でマニピュレートしたが、わたしにはまず彼が、指を頭蓋骨底部の頭と首の関節に置いて、親指は顎骨の下にあてているように感じられた。それから彼は、「首がリラックスして、頭が前へ上へ行くように」という指示(ディレクション)を言った。彼の指で、頭と首の並びを真っすぐにして、頭を引き挙げた。彼が意図していることは、新しい振る舞いのパターンが起こるように、人の組織体を再調整することだ。」

このときキャリントンは、既にお母さんの健康をアレクサンダーに回復してもらっていて、彼の進路として、アレクサンダー・テクニークの教師養成に入ることを考えていました。そのため、この日記は、ある程度予備知識もある記述になっています。
おそらくそれまでに出版されていたアレクサンダーの3冊本は良く読んでいたことが感じられます(ちなみに、キャリントンは、1946年の日記に、新しいトレーニーたちが余りアレクサンダーの著書を読んでいないことに驚いています)。

これらのアレクサンダーからのレッスンなどの日記について、試訳を作っています。
わたしのリーディング・クラブに入ることで、有償ですが読むことができます。
関心がある方は、yasuhiro.alex@gmail.comまでお問合せ下さい。

ウォルター・キャリントン について

(追加情報として、2021年9月発行のわたしのマンスリー・メルマガからの文を引用します。)

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アレクサンダーがイギリスで行った教師養成コースについては、実は彼がまともに携わったのは3期ほどしかありません。第1期は1930年代前半、第2期はその後の1930年中頃から第二次大戦の前まで、第3期が戦後の1945年からです(途中でもトレーニーを受け入れたので、厳密に各期毎に分かれていたわけではありませんが)。

アレクサンダーは、1947年12月に脳卒中で倒れてから徐々に手を引き、最後はキャリントンにほぼ任せるようになりました。
もちろん亡くなる1955年までは、彼が養成コースを運営したことにはなっています。

それらの各期毎のトレーニーの人数は10~20人ほどで、イギリスで1947年までに養成コースに入った人の総数を数えると60人弱です。そのうち最後まで修了することができたのは3分の2ほどでした。
キャリントンは第3期のトレーニーで訓練を既に終えていました。しかし、戦争中に空軍に従軍していたときに撃墜されて大ケガを負っていて、リハビリのための追加のトレーニングが必要だと感じたのです。
そしてしばらく第3期のクラスに参加していて、これはそのときの日記です。
初めて養成コースに参加したトレーニーというよりは、ある程度経験のあるAT教師としての記述になっているわけです。





ちなみにキャリントンの大けがは、人工股関節か何かを使わなければならないほどのもので(これについては出所を探せなかったので不確かです。ジェレミーから聞いていたのかも知れません。)、かなりの後遺症が残っていたのですが、アレクサンダー・テクニークを使うことで彼はその影響をかなりの程度克服していました。
彼の多くのビデオを見てもそれを感じさせませんし、1915年生まれで2005年に亡くなっているので、ほぼ90歳近くまで長生きしました