アレクサンダーは、彼のテクニークを25歳から教え始め、86歳で亡くなるほぼ2週間前まで途切れることなく教え続けました。
ほぼ60年間に渡ったわけですが、その教え方は当然大きく変わったことでしょう。

残念ながら彼の最初の10年のオーストラリア時代については、ほぼ教え方の記録はありません。
次の1904年からのロンドンでの10年間は、池袋レクチャー(1回目、2回目)の資料として添付した彼の初期の小冊子から推測することができるだけです。

1910年に出版した最初の本 「人が受け継いでいる最高のもの」は、立ち方などについて具体的な指示が書いてありますが、F.M.アレクサンダーの姪で有名なアレクサンダー教師のマージョリー・バーローは、そこに書いてあることはアレクサンダーは後で全て教えなくなった、と言っていることは興味深いことです。

1914年にアメリカに初めて行く直前に彼は新しい手の使い方を発見し、それをアメリカで試そうとしたと、マイケル・ブロッホのF.M.の伝記に書いています。
残念ながらその内容は具体的に分かりません。

1914年からの10年間の主にアメリカで教えた期間と、その後についてもほぼ具体的な記録はないようです。
もちろん、哲学者のジョン・デューイがF.M.の3冊の本に書いた序文は、彼の教えを説明してはいます。

その状況が変わり、F.M.のレッスン内容についての情報が多く得られのは、1931年の教師養成コースが始まってからです。

第1期の生徒では、ルーリーウエスト・フェルトの著書で訓練コースの状況について詳しく書いているし、マージョリー・バーローもF.M. が何を教えていたかを本にしていて、チェア・ワークや、ハンズ・オン・バック・オブ・ザ・チェアやウイスパード・アーなどを詳しく説明しています。

それらの本の中には、興味深い事実も幾つかでてきます。ルーリーの著書には
「F.M. はある朝クラスに入ってきて、「生徒がどのようでも、もう手に入れることができるようになった。」と嬉しそうに言いました。彼の手が十分な技術を持つようになったので、生徒の助けがなくても「新しい頭と首と背中のパターン」を得ることができるようになった、のだそうです…
その日以来私は、F.M.が生徒と感情的な争いをすることを見ることはなくなりました。そのような光景はもういらなくなったのです。」

この頃のFMが何を考えて、どう教えたかを、最も具体的にそして簡潔に見ることができるのは、池袋レクチャー第2回で資料につけた1934年の「ベッド・フォードレクチャー」です。

第2期のコース(1936年~)のメンバーではウォルター・キャリントンが数冊の本を出していて、その中でトレ―ニングの様子についても書いています。

1940年以降では、F.M.が第二次世界大戦を逃れてアメリカに渡ったときに教師養成の訓練を受けたフランク・ピアス・ジョーンズの著書があり、その中でF.M.と弟のA.R.との教え方の違いなども説明しています。

第二次大戦後の1946年には、戦争から帰ってきたウォルター・キャリントン(彼は航空機が墜落したことで大きな障害を負っていました)が、再び教えるための準備としてF.M.のクラスに出席したときのことを日記に書いています。
それは「覚えておくべきとき」という本になっていて、F.M.の直接の言葉を読むことができます。

最晩年と言える記録は、1951年(F.M.は82歳)から3年に及んでF.M.から個人レッスンを受けたゴッダード・ビンクリーの日記です。
彼は教師養成のトレーニングを受けようとしてアメリカからロンドンに行きましたが、色々な状況からすぐにコースに入らず、代わりに個人レッスンを受け続けました。それは彼にとっては幸運なことで、当時すでにアレクサンダーはキャリントンに訓練を任せていたので、トレーングコースでは、直接レッスンを受けることはできなかったからです。
その後ビンクリーは、教師養成コースに入り、コースの途中でF.M.は亡くなりました。

 

4月29日(月、祝)の池袋レクチャー「アレクサンダーの生涯とその教え方の変遷」第3回では、この関連の内容として

1)第二次大戦中(特に1941年~1943年)に教えを受けた フランク・ピアス・ジョーンズの著書
2)大戦後のウォルター・キャリントンの日記(1946年)
3)ビンクリーの、M.からの個人レッスンの記録

からの抜粋を示して、その教えた内容を見て行きます。
興味のある方は、ご参加下さい。

 

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