2月11日(月、祝)の池袋レクチャーが終わりました。

参加者の感想(今週末締め切り)については、集まり次第このブログの末尾に加えて行きますので、随時このページをご覧ください。

今回は16名の参加があり、資料だけの購入も現在のところ10名の申し込みがありました。

当初予定よりも内容が増えたので、資料を手にされた方はじっくり読み込むことで、一か月は楽しめることでしょう。

アレクサンダー・テクニーク教師養成コース

3時間のレクチャーでしたが、最初に今回の一つのメインである第一期の教師養成コースの生徒に焦点を当てました。

特にこの部分について、追加情報をかなり加えてここに書きたいと思います。

配布した資料の写真を使って、生徒たちだけでなく、その教師陣や、F.M.アレクサンダーを支える人たちを紹介しました。

弟のA.R.や、秘書のエセル・ウェブ、「リトル・スクール」を始めたアイリーン・タスカー、さらには、「リトル・スクール」を引き継ぎ、F.M.が亡くなるときに彼の最も近くに居た女性マーガレット・ゴールディです。

ミス・ゴールディーは、F.M.のお気に入りで、彼は、彼女をとても良い教師と考えていました。興味深いことは、ミス・ゴールディーが彼女の晩年に行っていたアレクサンダー・レッスンが、とても厳しかったことです。

他でトレーニングを受けたアレクサンダー教師が彼女の所にレッスンを受けに行くと、もう二度と来たくないと思う位に、ひどい言葉を言われていたそうです。
それでも彼女のアレクサンダー・テクニークの理解は、1929年からアレクサンダーが亡くなる1955年までの長期にわたる交流による結果なので貴重でした。

わたしは、ミス・ゴールディーのその理解を知りたいと思っています(資料がいくつかあります)。
第一期教師養成コースで一緒だったエリカ・シューマン(ウィタカー)も興味深い人で、卒業後しばらく教えた後で結婚と離婚を体験し、60歳から比較宗教学をオーストラリアの大学で学びました。
エリカとゴールディーは、50年以上経た後に再会しました。
2人は生徒だった当時はそれほど親密だったわけではなかったのですが、当時のアレクサンダー界の教え方が、本来とは異なる方向に行っているということで、意気投合したそうです。
この点で、彼女らが、アレクサンダー・ワークをどう見ていたかがとても興味があるところです。
(エリカは、1985年にアレクサンダーのメモリアルレクチャーで講演しています。)

 

第一期の教師養成コースの生徒たちは、多くが後に有名なアレクサンダー教師になっています。彼らの名前を知っていると、アレクサンダー関連の文献を読むときに理解し易くなることでしょう。

彼らは、Mourizで出しているアレクサンダーが実際に教えている映像のDVDで、その後半に出てきます。

教師養成コースが始まったときは、生徒の最年長のルーリー・ウェストフェルトは33歳、次のマージョリー・バーストーは32歳ほどで、10代後半の生徒もいました。
そのDVDでは彼らの若々しい姿と、1930年代初めのロンドンや、ペンヒルの映像などがあり当時の雰囲気を伝えています。
F.M.が乾杯したり、ボトルからグラスに注いだりしていて、いろいろな場面での彼のユースも見ることができます。

このDVDで、マーガレット・ゴールディー(当時44歳)が、F.M.(当時80歳)からチェア・ワークを受けています。

今回は、第1期の教師養成コースについて取り上げましたが、3回目のレクチャーでは、もう一度この時期もとりあげ、教師養成コース全体について扱いたいと思います。

アシュリー・プレイスとペンヒル

添付の資料として、アレクサンダーが1911年から亡くなるまで教えていたアシュリー・プレイスの場所と、外観、部屋の配置図などを載せました。
彼が愛していた場所で、教えていた部屋のおよその広さも分かります。

さらに1925年にアレクサンダーが購入した、広大な敷地を持つペンヒルについても地図を載せました。1934年からここは、寄宿学校になったリトル・スクールが移りました。

この期間の主な出来事

続いて前回の復習を兼ねながら、
・スパイサー医師による支援と決別
・第1次世界大戦開始からほぼ10年間を、主にアメリカで教えたこと、
・世界大恐慌の影響
・リトル・スクール
・奥さんのエディスとの関係
などについて取り上げました。

参加者は、世界史と密接に結びついたアレクサンダーの一生の感覚がつかめたことと思います。

4つの資料について

後半は、添付した4つの資料について短時間ですが、簡単に説明をしました。

(1)1908年出版 アレクサンダーの小冊子「運動感覚システムの再教育」(5頁)

「ブリージングマン(呼吸の人)」呼ばれていたアレクサンダーが、呼吸や声を扱わなくなり、特に「思考」で運動を起こすことから書き始め、「インヒビション」や「ミーンズ・ウェアバイ」という言葉がここで初めて出てきました。

(2)1909年出版 アレクサンダーの小冊子「なぜわたしたちは間違った呼吸をするか」(7頁)

アレクサンダーが指摘している呼吸についての8つの項目を、使って、この小冊子の中の具体的な記述を、分類するという作業を行ってもらいました。

(3)ルドルフ・マグナスによるレクチャー 「動物の姿勢」 (12頁) 

  アレクサンダーが、「自分の発見をマグナスが証明した」と言っていたマ論文について、著者のマグナス自身のレクチャーです。時間がなくて基本的なことしか触れることができませんでした。

(4)1934年「ベッドフォード体育大学レクチャー」(16頁)

アレクサンダーが教師養成を始めたころ、「自分の使い方」の出版の2年後に行ったもので、彼には珍しいレクチャーと、貴重な実演の記録です。
時間が無くてほとんど触れることができませんでしたが、参加者に最も時間をかけて読んでもらいたい内容です。

資料の販売を行っています。)

■「アレクサンダーの生涯とその教え方の変遷」 最終回について

第3回は4月末の連休中に予定しています。
・教師養成コースのその後
・第二次世界大戦開始後のアメリカに渡ったときの様子(F.P.ジョーンズがでてきます)
・彼に脳卒中をもたらした名誉毀損裁判
・1955年に亡くなるまでの教え方
などを扱います。

参加者の感想

 (アンケートが圧あり次第、追加を行っていきます)

(S.Nさん)
30代半ばぐらいからのアレクサンダーの人生を大まかに捉えることができました。
富裕層を相手にかなり成功していたということで彼がレッスン代としてもらっていた額を聞いて驚きました。
テクニークだけでなく商売に関しても弟子たちに著作などを残してくれたらよかったのにと思いました。
また、アレクサンダーの生涯を整理した経験は将来JCの業績をまとめるのにも役立ちそうだと感じました。

(M.O.さん)
前回を上回る情報量で、かなり贅沢な内容でした。
考えてみれば、一人の人間(FM)の一生がそれほど単純なわけはなく、そもそも数日で語り尽くせるものではないでしょう。しかも彼の場合は波瀾万丈といいますか、(社会情勢も関係しているとは思いますが)やはり常人ではない、というイメージがより一層私の中で濃くなりました。
FMの個性は間違いなく強烈だったでしょうが、よほど人を惹きつける魅力も持ち合わせていたのでしょうか。彼を支えていた3人の女性を含め、大勢の人達のお陰で、いま私たちの手元にATがもたらされているのだと感じました。
詳細については、まだまだ未消化なので持ち帰った資料を読み返したいと思います。

(T.Sさん)
まず資料の多さに驚きました。
ATを学ぶ上で必ずしも必要ではないかもしれませんが、
FMが長年教えてきた中で「考え方、教え方」がどのように変わっていったのかを知る事で、より深く学べるのではないかと思いました。

(S.A.さん)
戦争や恐慌とアレクサンダーの生涯との関係が学べ面白かった。資料も盛り沢山で今後の学習に役立てたい。