1914年に第1次世界大戦が始まってからは、アレクサンダーの生活に大きな変化が起こります。
イギリスでの生徒が減ったこともあって、戦争が始まってすぐに、彼はアメリカ合衆国に初めて渡り、その後ほぼ10年間を秋から春にかけてニューヨークで教えました。

着いた当初、「アメリカに来たら彼の業務を支援する」と言ってくれていた以前の彼の生徒マーガレット・ナウムブルグ以外には、アレクサンダーは知人が少なかったようです。

しかし彼女の紹介で生徒は集まり、その輪が広がり、ホテルの一室を借りて行っていたレッスンは、すぐに盛況になりました。

このときの生徒の多くは、俳優ではなく、知識人でした。
もはや呼吸や声が主眼ではなく、身体全体への効果などが多くの知識人を引きつけたことは興味深いことです。

この期間中の最も大きな出来事は、世界的に有名な哲学者で教育者のジョン・デューイと交流を持ったことでした。

デューイは、アレクサンダーの次の年の訪米時に始めて彼に会い、その後レッスンを受け、長期間生徒になりました。

アレクサンダーの弟のA.R.(アルバート・レデン・アレクサンダー)が、1934年にアメリカに移住してからは、彼からレッスンを受け続けました。

 

デューイへのアレクサンダーのレッスンの効果は顕著で、マイケル・ブロッホのアレクサンダーの伝記には、
「50代のデューイは、年不相応に老けていたが、80代にはとても若いという印象を与えていて、彼はその90パーセントをアレクサンダーのおかげだと言っていました。」
と書いてあります。

デューイは思想的にもアレクサンダーから影響を受けました。
彼の著書で「Human Nature and Conduct(人間の特性と行動)」(1922年)と、「Experience and Nature(経験と自然)」(1925年)の二冊にアレクサンダーの名前が出てきます。

デューイは、アレクサンダーの本をアメリカで出すように言い、彼は「人が受け継いでいる最高のもの」を大幅に改訂しました。
デューイが紹介の文を書き、この本は1918年に出版されました。
デューイの助力もあり、「人が受け継いでる最高のもの」はアメリカでとても良く売れて、マリリン・モンローの書棚に、この本のある写真が存在するそうです。

アレクサンダーの次の本「個人の建設的で意識的なコントロール」にも、デューイは「序文」を書いていますが、アレクサンダーはこの本の原稿をデューイの所に持っていき、二人で内容を確認しました。この本は、1923年に出版されています。

デューイは、1932年に出版した3冊目の本「自分の使い方」にも関わり、再び「序文」を書き、アレクサンダーの科学的方法を賞賛しています。
この本の第1章「テクニークの進化」の書き方は、デューイの提唱していた「科学的な問いかけのメソッド」に沿って書いていると言われています

 

デューイは、アレクサンダー・テクニークの科学的研究を進めるためにロックフェラー財団からの支援を取り付けましたが、アレクサンダー自身がその内容に賛成しなかったために、実現しませんでした。
このことなどが原因で、それ以降二人の関係は疎遠になりました。

それでもデューイは、テクニークの価値を認め続けていて、第二次世界対戦中にアレクサンダーがアメリカに渡っているときに、フランク・ピアス・ジョンーズに教師養成のトレーニングを受けるように勧めました。

 

2月11日(月、祝日)のレクチャーでは、これらの内容についても扱います。
興味のある方はぜひご参加ください。
 「アレクサンダーの生涯とその教え方(2回目)」

デューイについては、http://yasuhiro-alex.jp/dewey/にも関連事項があります。
(彼の「人が受け継いでいる最高のもの」の紹介文を載せています。)

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