アレクサンダーは朗誦家としてのキャリアを、すぐに始めたわけではありませんでした。

15歳から一年半は、育ったタスマニア島の町ワインヤードの学校で補助教員を務めました。
この経験が、彼が後に著書に教育について書くときのバックグラウンドになっています。

17歳で親元を出た彼は3年間スズ鉱山の事務員として働きました。
仕事についてすぐに上司が病で倒れたため、遅くまで働きその仕事をカバーするという実績を挙げたのです。
彼はとても評価され、すぐに正社員になりました。
これはアレクサンダーの事務能力がとても高かったことを示しています。

その仕事をこなしながら、彼はこの時期、他に2つの仕事もこなしています。
その他にも、この期間中に自分の馬を持ち調教を行っています。

それらによって3年間で普通に考えられない大金を貯めることができました。

そして、3年勤めて20歳になったアレクサンダーは、演劇(朗誦家)で身を立てようときめました。
スズ鉱山会社をやめ、ふるさとのタスマニア島を出て、オーストラリアの大都市メルボルンに渡ります。

大都市メルボルンで3ヵ月の間いろいろ楽しんだ後に、仕事に着きました。
生活費を稼ぎながら、夜や余暇の時間を演劇の分野で自分の技術を磨こうと思っていたのです。
そのためできるだけ拘束時間が少なくなるようにと考えながら、事務系の仕事を求めて新聞広告に載っていた3つ会社の面接に行きました。
その全てから仕事の申し出があったのは、やはり彼の能力が高いと思われたからでしょう。

1つを選んで仕事に就きますが、色々な出来事が起こり、結局彼はその3つの全て順番に行うことになります。

3年ほどした後に彼は健康を害し、メルボルンから少し離れた海辺の街で療養を行いますが、その時もそこで事務系の仕事に就いています。

彼は3ヶ月で回復し、メルボルンに戻ってきてまた事務系の仕事に就きました。

この後で彼の3冊目の本「自分の使い方」の第1章「テクニークの進化」で描いている声枯れが始まり出したようです。
それを克服し、ついには仕事を辞めて、朗誦を専門に生活を立てることを決断しました。

1894年の初めに、生まれ故郷のタスマニアからステージを始めて行きました。

それ以降、彼が事務仕事を行うことはありませんでしたが、17歳~24歳まで若いアレクサンダーが、事務仕事を有能にこなしていたことは、興味深いことです。

************
この11月10日(土)に池袋で行うレクチャーでは、CCCが出版される頃までのアレクサンダーの歩みに目を向け、彼がどのようにテクニークを生み出すに至り、その教える内容の変遷を見ます。特に呼吸について、このテクニークとの関連でどう教えていたかを見ます。

興味を持った方はぜひ、ご参加ください。

「アレクサンダーの生涯とその教え方(前半)」