アレクサンダーが彼のテクニークを教え始めたのは、24歳だと言われています。
とても若かったのです。

しかも、彼は20歳で大都市メルボルンに出るまでは、タスマニア島で事務系の仕事をしていました。
4年間という短期間のうちにさまざまな体験と探求があったことでしょう。

今までにないものを教えたわけですが、最初このテクニークは、彼がこれを作り上げる原因になった「声の改善」を教えるツールとして使われました。
声を改善したいという生徒が集まったわけです。

教えていくうちにこれが呼吸にとても役立ち、自分だけでなく生徒の全般的な健康が変わる様子を多く見たことで、このテクニークの持つ本当の意味が分かってきました。

徐々に教える焦点が変わって行ったことでしょう。

その頃教えていた内容の詳細については分かりませんが、彼が出していた小冊子を年代に沿って追うことで推測することはできます。

いずれにせよ、35歳でオーストラリアからロンドンに渡った(1904年)ころは、彼の主なセールスポイントは「呼吸の改善」でした。

当時は肺結核という大きな病が未解決で、大気汚染などもあり呼吸器系の障害はロンドンの誰にとっても大きな関心事でした。
彼がロンドンで成功することができた大きな要因は、有力者のスパイサー医師が、その呼吸への効果認め、患者を紹介してきたことです。

しかし1910年の彼の最初の本「人が受け継いでいる最高のもの(MSI)」には、その「最高のもの」は「意識的コントロール」だと書いていて、彼の対象が呼吸から変わっていったことが伺えます。

その後1914年からの第一次世界対戦で、アメリカにも渡ることになりました。
1923年の2冊目の本「個人の建設的で意識的コントロール(CCC)」が書かれるまでは、彼はアメリカとイギリスで半年交代に過ごしました。
その間、有名な哲学者で教育学者のアメリカのジョン・デューイが生徒になり、彼と密接な関係を持ちました。2人でCCC の原稿を1ページ1ページ確認したと言っていますから、CCCには、はかなりデューイの意見も入っていることでしょう。

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この11月10日(土)に池袋で行うレクチャーでは、CCCが出版される頃までのアレクサンダーの歩みに目を向け、彼がどのようにテクニークを生み出すに至り、その教える内容の変遷を見ます。特に呼吸について、このテクニークとの関連でどう教えていたかを見ます。

興味を持たれた方はぜひ、ご参加ください。

「アレクサンダーの生涯とその教え方(前半)」