昨日(2018年6月15日)は、「疲労を軽減するアレクサンダー・テクニーク」の3回目で、今回は腕の動きを主に扱いました。

いらないところに力を入れることが疲労を招く

毎日の動きの中で、余計な所にどのくらい力を使っているかを、ぜひ考えてみて下さい。
試しに1日でも良いし、それが無理なら1時間でも、自分の動きをそのように考えながら観察してみます。
気づかれないように、周りの人の動きを観察することも良いでしょう。

無駄な力を多く使っていれば、そのことだけでも疲労は大きくなりますが、それが行っている動きを妨げるので、さらに多くの力が必要になります。
今回の一連のブログの最初に書いたように、人の身体は、驚くほど僅かな力で動くようにできています。
わたしたちが苦労に感じる部分の大半は、他の筋肉が不必要に働いていて、その力に打ち勝つ大変さがあるために起こっているのです。

それは年齢とともに徐々に大きくなって行きますが、人によってかなり異なり、同じ年齢の人でも、動きの感じが違うことを見れば明らかです。
子供たちはその点で、大人に比べれば誰もが良い動きをしていると言えます。
確かに、全体として動きの悪いと思える子もいますが、それでも腕や脚の動かし方を見れば、どの関節の動きにも軽やかさがあります。

子供の頃は、身体をどのような方針で動かすかは、本人がそれほど考えなくても良かったのですが、年齢を重ねるにつれて、身体はそれを知性に任せるようになってきます。
それは、人が自分を活かそうとしていろいろな分野に進むために必要なことだし、そのために人間の文明がこのように進化できました(ある特定のパターンにしかなれない動物とは異なるということです)

でも、多くの人が、人の心と身体をどう動かすかの知識がないために、それはマイナスに働いています。
特に、生活の中で身体にいろいろな動きをさせる必要がなくなって、片寄った筋肉しか使わずに、身体を動かすときの感覚が悪くなった現代人に言えます。

わたしたちは、毎日の生活で自分の心と体にどう指示すれば良いかに、本来そう要請されているよう知性を発達させる必要があり、それこそがアレクサンダー・テクニークが教える内容と言えます。

継続的な問題意識がなければ変わらない

知性は、知識の寄せ集まりのことではなく、その「知識を総合的に使う力」といえるでしょう。
その最初は、眼の前にある問題に気づくことです、自分が体験していることに注意を払わずに、本の中の知識にだけ眼を向けても幻想の世界に生きることになりかねません。

そのため、このブログの最初に観察することを提案しました。
自分そして他の人たちが、どのくらい無駄な動きを行っているか、それがもしかしたら、生き方を変えるほどの問題だと気づく必要があります。
(もし周りに特徴的な動きの人がいたら、一人でいるときにその人の動きを思い出して真似してみて下さい。その動きをするときに、気分や感情が大きく変わることに気づくことでしょう)

アレクサンダー・テクニ-クはとても単純ですが、かえってそのために、自分に問題意識がなければそれを意識的に使おうとはしないものです。
人の頭はどういうわけか、テクニークが求める単純なことを嫌がる傾向がとても強いのです。
(アレクサンダーはそれを、人はいつも自分の慣れたことを「正しい」と思い、それと異なることをやろうとしない。「間違っている」と感じることを行う必要がある、と書いています。)

そのため、大きな困難を抱えて本当にそれに向き合わなくてはならない状況や、自分を本当に変えたいと思う人でないと、すぐにはなかなか本気になれません。

わたしも含めて普通の人たちは、なかなかそこまで行かないので、アレクサンダーを学び続けることで徐々に自分の感覚を変えていく必要があります。
そうすると1年、2年、または数年経った後にいつのまにか自分のいつもの感情の状態が変わっていたり、身体が楽に動くようになっていることに気づきます。

わたし自身は学び始めて13年になりますが、今でも自分に良い変化が起こっていることを感じるし、まだこれからも変わることを理解しています。

次のブログで、実際にクラスで行ったことを取り上げ、具体的にどのような必要な緊張があるかを取り上げます。

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