ゴッダード・ビンクリーの「Expanding Self(拡がる自分)」の内容を紹介しています。

今回は、彼が教師養成コースに入ってからの日記と、この本の中に書かれている、F.M.アレクサンダーに関するエピソードを取り上げます。

教師養成コースのビンクリー

アレクサンダーから2年間の個人レッスンを受けて、その最後の方でビンクリーは「アレクサンダー・テクニークとは何かをつかんできた」と書いています。
またその頃に、アレクサンダーから「これまでで、最高のレッスンだった。」というコメントを何度も受けています。

このように理解が進んだビンクリーは、教師養成コースではどう学んだのでしょうか。
その期間が短縮になるわけではありませんでした。彼は、
借家として貸していた自宅の問題で、アメリカに数か月戻ったりしたので、通常は3年で終わる期間を4年かけて終了しています。

一回目で書いたように、アレクサンダーは、この時期にはもう、教師養成コースをウォルター・キャリントンに任せていました。
ビンクリーの日記にも、教師養成コースに入ってからは、アレクサンダーから教えてもらった、という内容は一度もでてきません。

ビンクリーの教師養成トレーニングの期間では、次のように経過しました。
1953年6月 教師養成のトレーニングを開始
1954年6月1日 初めて、手をイスの背もたれの上に持って行く練習を始める。
9月27日 初めて手を他の生徒に使う。
1955年8月 ビンクリー結婚
10月 アレクサンダー没
12月 長女ジョアンナ生まれる。
1956年10月 トレーニングスクールの場所が、アシュリー・プレイスからら移る。
(ヤスヒロ注:アレクサンダーの死後に、遺産を受け継いだアレクサンダーの末弟ボーモントは、長くアレクサンダーが教えていた教室のあるアシュリー・プレイスを意のままにしようとしました。
彼が、パトリック・マクドナルドをアシュリー・プレイスに連れてきたので、ウォルター・キャリントンたちは、移動せざるをえなくなりました。
ボーモントは、他の先生たちに「アレクサンダー・テクニーク」の名前さえ使うことができないようにと企てたのですが、それは実現しませんでした。)

1956年11月2日 ビンクリーの日記への記載はこの日が最後。
1957年11月 アメリカに戻る(この前にコースは修了している)

ビンクリー教師養成コースのビンクリー

アレクサンダーが2年間の個人レッスンで何を教え続けたかは、前回のブログで載せたアレクサンダーの言葉、
『君がイスから立ち上がるときに、わたしを助けないように。君はどうしても、そうやろうとしてしまうんだ。わたしが君の助けを望までいないと、君がよく知っていても....』」
が良く表しています。
それは「ストップ」することでした。その質が、徐々に変わって行くことに多くの時間をかけました。

でも、この点については、教師養成コースに入ってからは日記にほとんど触れられていません。
代わりに、身体の個々の場所についての記述が多くなっています。
例えば開始して約半年が経った1953年11月19日には、
「ウォルター・キャリントンが、腕については、エネルギーは腕の裏側に沿って方向づけられるべきで、腕の前ではないこと、そのときに屈筋ではなく、伸筋を活性化するようにと言った。これは、教えているときに特に重要だ。エネルギーをそのように腕に沿って方向づけることで、背中が活動するようになる。背中の力とパワーは、肩と腕の伸筋を通って流れる。」
とありますし、開始後約1年9ヵ月後の1955年の3月10日には
「最近、わたしは自分に2つのことを見つけた。爪先、足、足首を固めていると、膝を解放し前へ行かせ続けることができないことと、2つ目は、わたしが本当に注意を払い、肋骨が適切に収縮することを許せば、わたしの背中の下の部分は、いわば独りでに、後ろに動くことだ。」
とビンクリーは書いていて、他にもいくつか興味深い記述があります。

また、ハンズ・オン・バック・オブ・ザ・チェアや、ウィスパード・アーについても書いていて、1956年3月3日には次の記述があります。
「ウィスパード・アーについて:「アー」は、ささやき声だというだけで、本当に「アー」でなければならない。さらに、呼吸は単に、息を吐くだけではない。無理にするわけではなにが、それよりもっとエネルギーが必要だ。わたしはそれを間違っていた。」

その他にも、教師養成コースの後半には、手を使って生徒に教える実習を始めているので、ウォルター・キャリントンの助言や、ビンクリー自身が気づいたことの記述があり、参考になるものです。

アレクサンダーに関するエピソード

(1)歯を一度に7本抜いた

82歳のときにアレクサンダーは、一度に歯医者で歯を7本抜きました。そのときのビンクリーの日記です。
1951年11月12日
「アレクサンダーは先週7本の歯を抜歯した。彼の秘書が、金曜の朝に電話をよこして、午後のレッスンがキャンセルになった。 アレクサンダーは元気だったが、彼らは数日休んだ方がいいと思ったのだ。
それなので、今日彼にレッスンで会ったときに「先週大変でしたが、加減が良いと良いのですが。」と言った。
彼は「わたしは元気だ。大したことはなかった。人はわたしの年では一度に7本の歯を抜いたら、後で大変だろうと思うだろうけれども、それほどひどくはなかったんだ。」と言った。

(2)子供が遊んでいるそばで、2冊目の本CCCを書いた

日記に次の記述がありますが、ウォルターは、アレクサンダーがCCCを書いているときには、まだアレクサンダーと出会っていないので、誰かほかの人から聞いた話だと思われます。
1956年7月19日
「ウォルターは、『生徒は、先生が手で行っていることを感じようとするべきではなく、自分の内的プロセスである指示とディレクションを続けるべきなんだ。』と言った。アレクサンダーワークでは、わたしたちの目的は、「反応」をコントロールすることで、刺激のコントロールではない。彼は、アレクサンダーが2冊目の「個人の建設的で意識的なコントロール」を、ほとんどいつも小さな子供が遊んでいる部屋で書いていた、と言った。」

(3)政治への関心

アレクサンダーは、政治家との関わりを強く持っていて、第二次世界大戦のときも、その人脈を使ってリトル・スクールと共にアメリカへ行けるように手配ができるくらいでした。
1951年11月15日の日記には、次のアレクサンダーがビンクリーに語った言葉で、政治家との交流だけでなく、政治への関心もあったことが伺えます。
「 中国でいろんな事が起こっていて、我々が満州について心配していたときに、わたしは今の政策が解決策にならず、満州を失うことになることを知っていた。この問題を担当している閣僚の一人に6ページの手紙を書いて、行おうとしている政策の結果が、散々なものになると予想したんだ。そして、わたしが手紙に書いた全てが起こった。」

(4)アレクサンダーが亡くなったときの様子

ビンクリーは1955年11月17日の日記に、アレクサンダーが亡くなったときの様子についてやや詳しい説明をしています。
「わたしは、ジュディ・レイボビッツに手紙を書いた。その一部はこうだ:
『きっと聞いていることでしょうが、わたしたちのワークの大西洋のこちら側の最大の出来事は、F.M.アレクサンダーが10月10日に亡くなったことです。彼は、月曜の朝11時頃に、静かに亡くなりました。たまたまわたしは流感にやられて5日間寝ていたところでした。火曜の朝The Times紙をベッドで読んでいて、めったにしないことなのですが、死亡欄に目をやっていたら、彼の名前を見つけたのです。想像できるでしょうが、とてもショックでした。彼は2週間前に軽い心臓発作を起こしたのですが、順調に快方に向かっていたので、わたしたちはみなアシュリー・プレイスにすぐに戻ってくると思っていました。一緒にいた看護婦によると、彼は元気でベッドで身を起こしていましたが、急に枕に向かって倒れて亡くなった、とのことでした。彼は火曜に火葬されました。』」

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