授業のスタイルについての12回目です。
(11)先生が考えていることは生徒に伝わる――生徒に要求しているか
■人が考えていることは、態度に現れる
アレクサンダー教師になると、生徒さんからときどき
「なぜ考えていることがわかるのですか」
と言われることがあります。
もちろん、人が何も動いていないときに「頭で考えていることを、あててみなさい」と言われても、そんなことはできません。
何かの活動を行っているときには、目つきや、身体の変化が起こることを観察するので、考えを変えたことを推測できるだけです。
動きを考えてから(アレクサンダー的には、「ディレクションを送ってから」、または「プランを考えてから」)行う動きと、何も考えずに行う動きが、かなり違った動きになることも知っています(*注)。
また、生徒さんがクラスで、朗読や、演奏を行うときに、その人の頭の中にある風景を明確にすることで、パフォーマンスが変わることも知っています。
(*注)
「意識的な動き」と「無意識的な動き」については、動きには明確な差があって、それは観察できます。
ただ、動いている本人には、それほど明確ではありません。
「意識的」とか「考える」ということが、人によって大きく異なるからです。
練習を積んで、余り意識せずに(とてもわずかな意識だけで)その動きを行う場合は、その人は「動きを意識していなかった」ということでしょう。
ダンサーや、演奏家に見られることです。
それとは別に、何を考えているにせよ、それを頑張ってやってしまうこともよく起こります。
それも周囲の人は感じ取ります。
なんとなく何かを強いられている感じを、人は受けてしまうことでしょう。
(アレクサンダー・テクニークは、それを起こさずに、先生の良い思いを生徒に伝わるようにしてくれるものです。)
■生徒への要求
高校で教えていた時に、生徒に要求することは大事だと感じていました。
先生になりたての頃によくあったのですが、「自分に自信が持てない」ときは、生徒に要求できませんでした。
「自信が持てない」とは、準備が十分でないときです。
「厳しい」と言われる先生の方が、その要求がはっきりしている人が多かったと思います。
むやみに厳しいことには賛成しませんでしたが、要求の明確さには感心たびたび感心しました
やたらに厳しく要求だけする教師がいることも確かです。
その先生の他の行動がそれに伴っていないと、生徒も表面だけの対応をします。
逆に、やさしいだけの先生で、要求が無かったならば、生徒は学ぼうとしません。
やることがはっきりしていれば、人は動きます。
それが不明確だと、迷います。
休日の朝に目覚めて何をやっても良い状態を喜んでいると、たちまち時間が過ぎて、実りの無い1日になってしまうようなものです。
新座総合高校は、教室の廊下側がガラス窓なので、授業中の生徒の様子を良く見ることができました。
ときどき、生徒が仕方なくそこにいるだけで、「早く授業が終わらないか」と思っていることが見えることがあります。
それに耐えきれず机の上にうつ伏す生徒も見えます。
生徒に起こっていることが見えるように、 先生の要求とその背後の準備と考えは、生徒から良く見えます。
■要求することの責任
工業高校には、生徒に厳しい要求をする所があります。
例えばレポートを1つでも出さないと、成績で欠点がつきます。
これは普通科の先生からは、時々批判されることがありますが、
その要求をするためには、補習を行ったり、それを守らせるための指導を行ったりと、
かなり手間をかけています。
このように、要求するためには大きな責任と義務も伴います。
わたしが21年間新座総合高校で教えていた間に、生徒のレベルが徐々に落ちてきたために、
いろいろな生徒が入学してきました。
最初の頃は、成績が悪ければ課題を指示することで済んでいたことが、そうは行かなくなってきました。
思い出すと、1年生、2年生の主要な専門科目を担当したときは、だいたい長期休みに3日ほどの補習を行いました。
それを続けることで、生徒が変わってくると思っていて、確かにそれを2年続けることで、その勉強の感覚の
無かった生徒は格段に変わります。
でも手間がかかりました。
そこまでする必要はないと、思った先生もいたことでしょう。
わたし自身、どこまで要求するかを、いつも変えながらやっていました。
簡単にはいかない問題です。